希。




蒼い光がくるめく。
蒼い影が舞い散る。

サンジはほつれかけた体を、よろよろと立ち上がらせた。

体が、内側から沸騰するような感覚。
輪郭が、破裂しかける。

すとん、と。
何か大切なものが、胸の中に落ちた気がして。
それは、とてもとても心地が良くて。

サンジは微笑んだ。


遠くで。

誰かの泣き声が聞こえる、それは。



俺、だった。



長い間………走り続けて。
ようやく。

気付けたのかも、知れない。




サンジの体中から滴り落ちる、血。
その色が消えていく。

肌から離れて地面に到達する、その短い間に朱が抜け落ちる。
そのまま小さい染みになって岩を濡らす。

サンジは満足そうにそれを見て、言った。

「なあ………俺はさ?」

振り返って、微笑みかける。


「俺は…………『鴉』の仮面でしか、ないって」


お前の言う、『サンジ』は。
偽物に過ぎないと。
鴉の中の、一機能だと。

だから………この心には、意味がないと。

「そう、思ってた」

目的さえ果たせれば、それでいいのに。
どうして『サンジ』が必要なのかと。

何処までも苦しむのに。
何処までも哀しいのに。


「でも………俺が、何者であっても」


嘘でも。影でも。

ただの………ちっぽけな、幻でも。


「オマエら…………優しかった」


切ないと思った。
嬉しいと思った。

その全てが。

そこに、あった。


「だから」

サンジは夢見るように、言葉を紡いだ。
唇から、透明な血が溢れた。


「『鴉』を殺してくれ」


お前を、甘いと言って罵った。
お前から沢山のものを、奪った。

きっと俺は。

お前に憧れていた。
お前が……羨ましかった。


救って欲しかった。

他の誰でもない………お前に。



ゾロの目が、見開かれた。

サンジの手首の先が………溶け始めている。


ゾロの肩が、揺れた。
握りしめられた拳が、白く。

ゾロは視線を逸らさなかった。
臆さずに、見つめる。


「出来ねぇ」


きっぱりと、断言する。

サンジの両腕は力無く垂れていた。
刀を握るどころではない。もう動かせもしない。

「そうか」

サンジは酷く哀しげに、笑った。
諦念とある種の悟りの混じった、その表情。

危なげな足どりで、サンジはきびすを返した。

ゾロに背を向ける。

さらさらと、砂のように。
サンジの欠片が、風になびいた。

蒼く。

崖のふちに赴くサンジは、空に向かって歩いていくようにも見えた。
独りで………終わらせようと、するのか?

いつも、こんな姿ばかり見ている。

ゾロは手を伸ばした。



「―――――待て」



凛とした声が飛ぶ。

サンジが振り返った。
一度その目が瞬かれ、唇から短い息を吐く。

ゆっくりと、その名を呼んだ。

「コーザ」

地面につき刺さったままの、長刀に縋って。
血塗れのコートを着た男が立っている。

切れるような、厳しいその視線。

どこまでもついていくと。
そう、誓った男。

いつもの通りに、揺らぐことのないその眼光を突き刺す。
胸に刻まれた大きな傷からは、まだ鮮血がこぼれていた。

「行くのか」

落ち着いた声音で、問う。

「ああ」

サンジは軽く頷いた。
蒼い瞳。見慣れないそれに、何故か違和感はなかった。

「なんだ、見送りでもしてくれるのかよ?」
「馬鹿か」

コーザはふらつく足を押さえて腕に力を込めた。
岩に食い込んだ長刀を抜き放つ。

それを引きずるように携えて、一歩足を踏み出した。
サンジに向かって。

『狼』に『鴉』は殺せない。それがこの世界の理だ。
しかし、その存在が揺らぐ今なら。

命。

その程度を、賭ければ。
出来るかも知れなかった。

食道を駆け登る血の味。
喉の奧が、酷く灼けついた。

澄んだ、蒼が見えた。

いつもと同じように、コーザは振る舞った。
動きがぎこちないのは仕方なかった。ゾロに割られた胸の傷は、塞がっていない。

とても歩ける状態ではない………が。
精神は、肉体を凌駕する。そういう存在なのだから尚更。

長刀の先端が岩に擦れて、渇いた音が耳を射る。

『お前を救おうとはしない、だがひとりにもしない』
『お前のためは思わない、だがお前の願いは叶える』

あの時の誓い。

『お前を憎んでやる、だが』

非道いと思う。
一番重要なものを。

叶えさせては、くれないなんて。

『お前を死なせない』

けれど。

お前の側に、最期まで。
そう…………言ったから。

「お前は、勝手過ぎる………」

思わず本音が出た。
サンジが苦笑したのがわかった。

コーザの唇が、歪んだ。
ひきつれる、額の傷。

長刀の切っ先が、持ち上がる。
それが、本当に微かに、微かに震えていたことに、誰か気がついただろうか。

さらり、と金の髪が揺れた。
サンジは笑顔の形に表情筋を動かして見せたが。

それでもコーザは思ったのだ。



―――――まだ、泣いているのだと。



やるせないのか。
悔しいのか。
こんな感情を表す言葉は………きっと、この世界にはないのだ。

畜生。
畜生。

軽く、息を吸い込む。
鉄の臭いがした。
心臓が、内側から胸を叩く。
息を吐いた。
視界が、白く歪んで。
コーザの唇の端から、つ、と血が垂れた。

そして。




挙げた右手を――――振り下ろした。




「――――っ!?」

ぱしり、と渇いた音がして。
長刀の動きが止まる。

サンジの表情が、驚愕に彩られた。

コーザの手首を掴んだ腕の、持ち主を見て。


「ゾロ」


どん、とコーザの体に衝撃が響いた。





       蒼。 幻。 NOVEL