蒼。
静寂の中。
見えたのは、その男の後ろ姿だった。
小さな、小さな背中。
ぺたりと座り込んで。
柔らかく屍体を抱いていた。
ナミですら、彼にかける言葉はなく。
誰も、何も言わなかった。
+++ +++ +++
「俺が、殺した」
+++ +++ +++
サンジは、右手の、手首の内側を使ってエースの頬を撫でた。
こびりついた血糊を、落とすように。
突き刺さったままの剣は、抜かなかった。
いや、抜けなかったのだ………既に、サンジの左腕は動かなかったから。腱が切れたのだろうか。何故か血だけはまだ出るようだった。
折れた右腕の、ぎこちない動きで、輪郭を辿る。
溢れ出す液体は、まだ暖かいけれど。
何かが、決定的に違う。
これはもう、エースではなかった。サンジはそれを知っていた。
その眼は、開いたままだった。
そしてサンジには、それを閉ざす術がなかった。
サンジのこめかみから流れた血が、エースの目元に落ちて。
彼が、まるで泣いているみたいに、見えた。
そんなことはあり得ないと、わかっていた。
エース。
「なあ?」
サンジは柔らかく、囁いた。
「お前らさ………」
子守唄を、うたうように。
「愛すべき奴ら、だったんだよ」
絶対に、認めてはいけなかったこと。
「俺なんかに」
「笑いかけてくれた」
何も知らずに。
「飯、美味いって………」
暖かかった。
心地良かった。
感じてはいけなかった筈のもの。
自分が手にしてはいけなかった筈の。
「なあ?」
一瞬でも。
何より大切だと。
「知ってたかよ?」
時が、止まればいいなんて。
陳腐な事を命がけで。
全てが、あれほど輝いた世界はなかった。
胸にこみ上げるのは、いつも。
いつも。
「嬉しかった」
「嬉しかったんだ………」
そのまま。
壊れたように、何度も何度も同じ動作を繰り返す。
そして、そのままいくらの時が経ったろうか。
サンジはゆっくりと顔をあげた。
そして、振り仰ぐ。
焦点が合っていない。
「どうして、憎んでくれねぇんだ………?」
渇いた、青灰色。
ゾロは真っ直ぐに、サンジを見つめていた。
刀の代わりに、手にしているのは、エースの帽子。
ゾロはゆっくりと、唇を開いた。
「エースが…………」
目にした、最期の瞬間。
凄惨な、光景。それなのに。
彼は、笑っていた。
「テメェを嫌うワケ、ねぇだろうが」
その言葉に、サンジは、はにかんで笑った。
「んだよ…………それ。ひっでぇの………」
「痛ぇ、よ………」
「なんでかな」
「なんでなんだろうな…………」
「俺は…………」
サンジは、自分のふくらはぎに突き刺さって足を地面に縫い止めている、小太刀を見た。
膝に置いてある、エースの頭を、見た。
そしてもう一度、ゾロを見上げた。
「鴉なのに」
ゾロは、無言のままサンジの前に腰を下ろした。
じっとエースの顔を見た後、手を伸ばす。
柄まで血塗れの小太刀を、引き抜いた。
サンジは苦痛の表情も見せず、ぼんやりとそれを見ている。
ゾロはサンジの動かない左手を取ると、無理矢理その刀を握らせた。
そのまま問う。
「テメェは」
この刀で。
「俺を殺したいかよ………?」
サンジの顔が、歪んだ。
哀れな程、体が震えた。
サンジは答えなかった。
答えられなかった。
泣き声が。
聞こえるんだ……………
突然。
誰かが叫んだ。
「………もう」
「もう、いいから!!」
涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔で、叫んだ。
「泣かないで………いいから!!」
そういう自分の方が、泣いているのに。
「主…………?」
サンジは戸惑いを露にして、問いかけた。
壊れかけた瞳に、焦点が戻る。
急に我に返った表情で。
動かない足を引きずり、立ち上がろうとする。
よろめき、倒れ込んだ。
それでも。
手の存在しない右腕と、片足だけで。
四つん這いで、赤子のような速さで。
必死に。
「泣かないで…………」
目を背けたくなるような悲惨な状態で、サンジは進んだ。
ナミに向かって。
手を伸ばして。
そして。
「―――――来るなァ!!」
その言葉に。
びくり、とサンジが戦いた。
戸惑いの視線を向ける。
追い打ちをかけるように、ナミは続けた。
「寄るんじゃ、ないっ!!」
「え…………?」
サンジの顔に――――これ以上ないほどの、怯えが浮かんだ。
しがみつく物がなくなる………恐怖。
俺には。
これしかないのに。
「お前なんか…………」
泣きじゃくりながら、ナミは吠えた。
「要らない!!」
凍り付く。
サンジを支えていた最後の糸が。
ぶつり、と、断ち切れた、音。
「嘘…………ですよ、ね………?」
『俺の名前を呼んで』
『俺は負けないから』
『俺を信じて』
『俺は強くなれるから』
その呪い。
その誓い。
捨てないで。
縋り付く瞳。
――――見て、いられない。
「ねぇ…………………ある、じ…………」
「呼ぶなァっ!!」
サンジの顔から、全ての表情が、消えた。
ナミは、狂暴な目つきでサンジを睨んだ。
泥にまみれた頬も。
流れ落ちる涙も拭わず、睨んだ。
「鴉なんて」
――――サンジの存在は、根本から。
「消えてしまえばいいっ…………!」
粉々に、打ち砕かれた。
ばきり、と音がした。
「―――――っ!!」
ゾロが、息を呑んだ。
サンジの体が………雑音を立ててぐにゃりと歪む。
所々、ほつれたようになって。
崩れる。
血にまみれた、手が。
蒼い煙を、あげている。
ああ。
…………消える、の、か?
サンジに恐怖はなかった。
ただ、ナミの涙だけは止めたいと。
そう思った。
「好きなものに、なりなさい!!」
嗚咽の混じった声。
ばきり。
ばきり。
破戒の音が連鎖して。
「お前が本当になりたかったものになって」
「本当にしたかったことをっ!!」
凄まじい痛みに、サンジは身を捩る。
血を吐く程に、ナミは喉を震わせた。
「――――すればいいっっ!!」
一際大きく、澄んだ音が響きわたる。
サンジの瞳が、砕けた。
青灰色から…………蒼色へ。
「俺が…………本当にしたかった、こと………………?」
願いは。
たった。
ひとつだけ。
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