秤。




「……………そうだ」

サンジはひっそりと、誰にもわからない程度に唇を動かした。
誰にも聞こえないように。

「俺を、許すな」

どぐ、と内側から叩かれるような衝撃。
サンジは、重心を少しだけ揺らめかせた。

びしゃびしゃと血を吐く。
驚くべき勢いで、地に広がる赤い池。

それを見て、ゾロが少しだけ身じろぎした。

「…………………」

えずくサンジに、エースはゆっくりと近づく。笑いを消したままで。
それを認めて、サンジは小太刀を構えなおした。

「エース!?」

ゾロの、少しの咎めが含まれた声には答えず、エースは自分の剣を抜いた。
サンジの小太刀と同じ、片手で扱える少し反りが入った剣。

傍目から見ても体を支えきれずにふらついていることがわかるサンジ。
片足を一歩後ろに退いて、上体を安定させた。

そこに、利かない片足を引きずりながら近づこうとするエース。
思わずゾロは後ろから、エースの服を掴んで引き寄せた。
エースの動きが止まる。

――――サンジの目が、緩く光った。

「っ!!」

どんっ

鈍い音。

ゾロが再びサンジの方へ目をやったとき、そこにはもう何もなかった。
エースが叫ぶ。

「逃げろォっ!!」

誰に向けての呼びかけか、一瞬理解が遅れる。
サンジは自分に向けられた注意が薄れた一瞬、岩を蹴って恐るべき身軽さで跳躍していた。

ひゅんっ

空気が切れる音。
声を立てることも叶わず、離れていた二番隊員の一人が喉を切り裂かれて沈んだ。

「!!」

ごぶっ

足がしなり、胸板を強打されたもう一人が、一瞬のタイムラグの後、血を吐いてまた倒れる。

瞬殺された二人がまいた血が、その場にいた全ての人間の視界を赤く覆った。
同時、エースが腕を鋭く振る。

二筋の光が、黒い影を追って飛んだ。
サンジは身をひねった。

ぃんっ!
ざっ

投擲用の小刀。
ひとつは小太刀ではじき返され。
ひとつはサンジのこめかみをかすって抜けた。

事態を理解した隊員達が、素早く黒い影のまわりから離れる。
出来るだけ距離をとろうと、狭い岩山の上に散らばった。

殺気が走り抜ける。

「馬鹿っ!!そっちに行くな!」

再びのエースの指示。
そっち、とはどっちだ、と聞き返す間もなく、その方向は示された。

倒れ伏したままのコーザ。
その周辺へと退こうとしていた人間が、吹き飛ぶ。

「ぐがっ!」
「ぎゃふっ!!」

だんっ、と音を立ててコーザの前に着地したサンジは、下から敵を睨みあげた。

硬い眼差し。

「……………………」

それを遮るように、エースは帽子をかぶりなおした。
ぐ、と力の込められた顎。

ゾロはかぶりを振って、叫んだ。

「…………テメェは!」

二振りの刀を構えて、サンジに飛びかかろうとするが。
サンジは、そちらには目もくれずにまた他の人間に襲いかかった。

続く悲鳴。

「なんでだ」

ゾロの声が虚しく空気を震わせる。

「そいつを斬ったのは、俺だろ」

また一人、倒れる。

「俺にかかってくりゃいいだろが!!」
「………………………」

サンジはぶん、と小太刀を振った。
染みついた血糊が、少しだけ剥がれ落ちる。

人間の体ひとつに、どれだけの量の血が詰まっているのか。

「弱い奴から、消すのがいい」

地面に視線を落としたまま、サンジは靴についた血を岩にこすりつけた。

「早いも遅いも同じだろう?どの道、敵は全員殺す」

抑揚の全くない、声。

「………お前…………コイツらはエースの」

ゾロの台詞を、サンジはみなまで言わせなかった。

「わかっている」

そう言って、サンジは首をあげ巡らせた。
エースに向かって。

「でも、覚悟は出来ていたのだろう?」
「…………ああ」

エースは首をすくめて見せた。
その瞳の中に、黒い炎が揺らめく。

「だからお前を殺しに来たし」

サンジは頷いた。自然な動作だった。

「…………そこで倒れている男も殺すぜ?」

一瞬の、間。

「――――――頷かないのか?」

皮肉げに、エースが問う。
サンジは動かない。


「そりゃ、狡い」


サンジの眼が細められた。

わかっている。
そんなことは。

刺すような、この痛み。

「…………………」

答えないサンジに、エースは返事を諦めた。
代わりに、ゾロが呼びかける。

「…………なんとか言えよ」

引き連れる喉を無理矢理動かし、ゾロは呻いた。

「お前にだって、大事なモンあんじゃねぇかよ………」
「だったら」
「だったらよ」

「それがなくなる気持ちくらい、わかんだろ」

上滑りする、言葉。

「もう、止めろ………っ!」

――――反応しない。
ゾロは、虚脱感に身を浸した。

嗅ぎ慣れてしまった血臭。
表情だけを取り繕ったまま、崩れかけの体を支えている、目の前の男。

冷徹で、残忍。
でも。

何故、唇が震えている?

ゾロの中で、何かがかちりと音を立てた。

「わかっている………」

サンジは感情の薄い声で言った。
声と言うよりは、音だ。

「俺の我が儘だ」
「自分勝手な欲望で、他人だけ踏みにじる」
「俺の物は、傷つけさせないのに」
「狂ったみたいに殺しまわって」

辺りに散るのは、いつも。
人の残骸。

たらたらと、こめかみから流れ落ちる血をサンジは拭った。

「………鬼畜以下だな」

ぺっ、と血の混じった唾を吐き捨てる。
凍り付いた吐息と共に。

「でもそれが、俺の道だ」

ゾロはじっと、青灰色の硝子を見つめた。
静かに口を開く。

「………鬼畜はよ」

少し首を傾げて、問いかける。

「人殺した後に、震えんのか?」
「!」

サンジの目が見開かれた。

「…………鬼畜は、わざわざ言葉に反応すんのかよ?」
「―――黙れ」
「大事な物なんてつくるのかよ」
「黙れ…………」
「敵をわざわざ見逃すことなんてあるのかよっ!」
「黙れ!」

悲鳴のような声。

「――――黙らねぇよ」

ゾロの唇から、つうっと血が垂れた。
食い破ったのだ。

「俺は、『鴉』なんて、知らねぇ!!」

熱気を含んだ風が、吹き上げた。

「お前だけだ。俺が知ってるのは」

その名は、ひとつだけ。

「サンジ」

まだ、見失ってはいない筈なのだ。


「本当は、本当のお前は――――こんな事、したくねぇんじゃねぇのか!」


す、と日差しが弱まった気がした。
したたり落ちるのは。

汗か、血か………それとも。

サンジの目から、光が消えて。
肩が、少し落ちた。

「……………………」

歪んだ、視界。
何も聞こえない。
震える声が、喉を灼いて。

何かが、ひび割れた。



「だったら、何だって言うんだ………?」



それでどうにかなるのか?
祈って泣いて。

何が変わるんだ。


俺が。ただ目を閉じるだけじゃないか。


「………大人しく死ぬのを待てって、言うのか?」


「今ここで、俺の守るべきものに向かって?」
「キレイゴトを並べて?」

「俺は誰も殺したくない。奪うのは悪い事デス。だから、貴方達諦めましょうね?このまま一緒に、死んで、クダサイ、って?」


溢れた。





「出来ねェよ」





がくり、と膝が折れた。
サンジは小太刀を岩に突き立てて、笑った。

小さく小さく、息を吐いて。

「人の為に死ねと言うなら死んでもいい。簡単だよ」

顔をあげて、真っ直ぐゾロを見た。
乾ききったその眼。

何かが。

「………お前の為にだって、多分俺は死ねる」

小太刀の柄に、爪を立てた。
呆れるくらいに、血を流した痩せた体を。
引きずって、ここまで来た。

「だけどな」

穏やかに、サンジは笑う。

「自分の大事な、人を」
「他人の為に殺せる奴がいるのか………?」

残酷な問い。
残酷な答え。


「俺が死ねばいいんだったら、百万回でも死んでやるよ!」


小太刀は岩に突き立てたまま。
サンジは左手をそれから引き剥がした。

岩に、叩きつけて。
そのまま、引っ掻いた。

ばり、と音がして爪が剥がれる。
血に濡れた指先を、サンジは太陽にかざした。

「見ろよ」

「俺の手、そんなに大きくねェんだ」
「すくってもすくっても、指の間からこぼれちまうとしたら」

何もかもを。

「こぼれちまうと、したら」

掴みたかった。

「ほら。選べよ。選んでみろよ!」


どうして。
この手は。

救えないのか。


「愛してるんだよ…………!」


なんて立派な、イイワケ。


サンジは呻いた。

醜すぎて。
吐き気が、する。

ぽたり、とまた体のどこかから血が垂れた。
サンジは、眼を閉じる。

耳を澄ませて。

自分に従うことを誓った生き物の―――呼吸が絶えていないことを確認した。

ぐ、とサンジは再び小太刀を握った。
ゆらゆらと、まるで抜け殻は地面に残したままみたいに立ち上がる。

小太刀を突き出して。
ゆっくりと構える。

「…………………殺す」

掠れた声が、耳を刺した。
ゾロの脳裏に、エースの言葉が浮かぶ。


『修羅道に堕ちた奴にゃ………殺してやるしか、救いがねぇんだ』


先程食い破った唇。
苦かった。

ゾロは、何かに耐えるように、ゆっくり、ゆっくりと息を吸った。
眼を軽く伏せて。
両手の刀を、握り。

足を。
踏み出そうと。


がづっ!!


延髄に、硬い衝撃。
ゾロの頭が揺れた。

「な………」

振り返ろうとしたその鳩尾に、再び。

どぼっっ!!

「が…………っ」

白濁する、視界。
容赦は、全くなかった。

奈落に吸い込まれるような、その感覚。

「………んで………エ………ス……」

がんっ!

三度目の衝撃。
ゾロは、沈んだ。

信じられないような顔をして、倒れ伏す。

「……………こんなベタな展開で、悪ィな」

それを見送った男は、苦い笑みを浮かべていた。
ゾロの首筋を殴りつけた剣の柄を、くるりと反転させて持ち直す。

気絶したゾロ。
エースは独り言のように呟いた。

柔らかい瞳で。

「やっぱお前にゃ、サンジは殺せねぇよ………」

ずっ、と足を岩に擦らせて、振り向く。


「俺がやるしかねぇなァ………」

「エース………」


安心したように、サンジは薄く笑った。

「良かったな、ゾロじゃなくて」
「ああ」

あいつは甘いから。

「アンタなら…………」

安心して、任せられるよ。

「アンタなら俺を、止められるかもな」

お願いだから。

「……………そうだな」


エースの表情は、逆光で見えなかった。





        死。 炎。 NOVEL