死。




「雨の音って、どんなんだっけ」
「なんか、ちっとも思い出せねぇんだ」

「なあ、俺………雨音、聞いたことくらい、あったよな………?」



   +++ +++ +++



「さがれっ!!」

静寂を破ったのは、やはりと言うべきかエースの声だった。
それを合図に、魅入られたように動けなかった兵士達が、後ずさろうとする。

しかしいつもの訓練された俊敏な動きではない。気をのまれている。
あれでは、射程距離外に出る前に半数は倒されてしまうだろう。

まずい、とエースの表情が固まる。
再びの血飛沫を覚悟した。

しかし予想に反して、北軍はそれ以上その数を減らさなかった。

ゆらり、と黒い影が進み出る。

幽鬼のような無表情で、サンジはそこにいた。
けして視線を動かさずに、足を踏み出して。
肩と口元から、異様に赤い血がゆるゆると滲んでいた。

そのまわりだけ、気温さえも低くなったような。

「!」

エースは今更に気付いた。
サンジが目指しているのは。

今動かさなければならないのは、兵ではない。
ぐるりと首を動かして叫ぶ。

「ゾロっ…………!」

呼びかけようとして、エースの言葉は途切れる。
また、間違いに気付いたのだ。

ゾロは、刀を手にしたまま険しい顔で近づいてくるサンジを見つめている。

数秒。

その目をふいと逸らし、ゾロは動いた。
近づいてくるサンジと、充分な距離を保ってすれ違う。エースのもとに帰ってくる。サンジも何の感情の揺れもみせないまま、目標に向かっていく。

ぽたり、と血が落ちて。

サンジはその、血に濡れた岩場に踏み込んだ。
立ち止まって見下ろす。

「……………………」

唇がゆっくりと開かれ、二、三度震えて。
声は出さずに、また閉じられた。
血の気のない、その顔。

無防備なサンジの背中を見て、飛びかかろうかと目で訊いてきた部下に、エースは首を横に振った。
殺気はない。
が、今サンジの間合いに入ろうものなら、致命的な暴風が襲いかかることは間違いないように見えた。無駄な人死にを出すのは本意でない。

線の細い背中。

その膝が落ち、地面につけられる。
金糸が揺れて、サンジはうつむいた。

仰向けに倒れている男。
コートはもう真っ赤に血に染まり、その髪も同様で。
もう、元の色などわからない。
長刀さえ岩の隙間に突き刺さったままだ。

サンジは手首から先の欠けた右腕をゆっくりと動かす。
そのまま、コーザの胸の傷口に当て、そして。

ずぶり。

「―――――――っ!?」

声にならない動揺が、北軍に広がった。
エースも、目の直径を少し大きくしてそれを見守る。

溶けるように。
サンジの手首は、コーザの体の中に沈んだ。

目を閉じたコーザの表情が、歪む。

まるで、水の中で手を遊ばせるように、サンジはコーザの体内を探っている。
異様な光景。
凍り付いたように、誰も呼吸の音すらさせない。
唯一の雑音は、コーザの荒い呻きと呼吸だけ。

コーザの肉は、サンジの動きの邪魔をしない。

「…………………」

サンジの右手はもうなかったが、ゆっくりと浮き沈みさせる手首はコーザの内臓の状態を正確に捉えていた。

心臓、肺、喉。
順に辿って、確かめていく。

サンジの腕が、コーザの体を傷つけることはない。
当然のように勝手に動き回らせる。抵抗など、空気よりない。

丁寧に、撫で上げる。
血など少しもしぶかなかった。

一通り確かめ終わった後。

ゆっくりと息を吐いて、サンジは左腕をあげる。
先程の術の反動で裂けた右肩。そこに小太刀を当て、すっ、とひく。

肉の裂ける音。

止まりかけていた血が、新たな刺激を得て勢いよく溢れ出した。

赤い血がサンジの腕を伝って。
するすると、コーザの胸に飲み込まれていく。流れ出、失ったものを補うように。
しゅう、と微かな煙が上がったようにも見えた。

そのまま、数秒。

「………………う」

コーザが、低い声で短く呻く。
ゆっくりと瞼が開かれ、その目が今起こっていることを確認する。
そして、途端にそれは眇められた。

「や………めろ………!」
「―――――――」

サンジは黙って動かない。
コーザは、起きあがろうとして数回肩を跳ねさせた。が、それだけ。
自力での抵抗は無理だと知ると、代わりに貫き通す眼光で、コーザは自分の支配者を睨み付けた。

「………………か、まぅ……な」

お前が死ぬぞ、と言外に含ませる。

何度も流れ、失われた血液。
普通の人間なら、もう数回は死に至っている筈。

コーザの台詞に、サンジの目が薄く光った。唇が開かれる。

「黙れ」

ぐ、と深く手首をめりこませられて。
内臓を直接掻き回される不快感に、コーザは一瞬目を閉じる。

凍り付く冷たい口調で、サンジは命令した。
サンジの肩の血は止まる様子を見せない。流れ込む先のコーザの傷口が泡立つ。

「死ぬな」

熱など、ほんの欠片もない。
しかしその言葉に、コーザの本能は動く。

「死んだら、許さない」

薄い、切れるような視線が、何故か少しだけ揺れる。

それがわかるから。
コーザは、喉を震えさせた。

傷口が、異常に熱い。
不快なはずは、なかったが。

「……………死な…い……か、ら。俺は」

コーザは、必死に声を紡いだ。
誓いを、違えることなどない。

泣くな。と。
言いたかった。

こんな時に上手く動かない唇。嫌気がさす。

「お前の……傍…に……」

サンジと、視線を合わせる。
伝わるように。

「………さ…ぃ後、まで」
「…………よく言った」

サンジは、その瞬間目を閉じた。
す、と右腕をコーザから引き抜く。

コーザの呼吸が、途端に楽なものに変わった。

ぐ、と小太刀を握る拳に力が入る。
流れるような動作で、サンジは振り向く。

ざわ、と空気が動いた。
巨大な氷の塊をのまされたように、兵士達の喉が塞がる。
太陽はこれ以上ないほどに照っているのに、悪寒が走った。

光の加減によって色がないように見える瞳。
サンジの薄い唇は、緩い弧を描いていた。



+++ +++ +++



「離しなさい………!」

ナミは、荒ぶった口調を隠すこともせずに、ルフィの手を掴んだ。
聞こえていないことはわかっていた。
無理矢理に、引き剥がそうとする。
反抗するようにルフィの拳に力が込められ、肩口に刺さったままの矢の根本から、血が勢いよく溢れ出す。

「馬鹿!」

ナミは慌ててルフィの手を離した。
それに追いすがるように、ルフィがナミの手を掴む。

「!?起きて―――」
「なあ」

白くなるほど強く、握りしめられる。ナミの眉が寄せられた。
ルフィは這いずるようにして、ナミとの距離を詰める。

「頼みが……ある、んだ」

ナミは舌打ちをすると、ルフィの手をふりほどいて赤い衣の裾を引き裂いた。
きつく締めすぎないように、ルフィの傷口へと巻き付ける。

ルフィは、小さく首を横に振った。
静謐な声で、呟く。

「死ぬな」

突然の言葉に、ナミが顔をあげる。

「え…………?」
「お前は、死なないで」

ぽつり、と落とされた言葉。
ナミの胸に、鈍痛が走った。

「――――あ、当たり前じゃない」
「よし」

ルフィは、にかりと笑った。
ナミに向かって、軽く手を振る。

「じゃ、アイツにも言ってきてくれよ」

目の下の傷跡が、柔らかく歪められた。
呼吸を無理矢理整えて、ルフィは言った。

「死ぬなって」
「生きろって」

「一緒に、帰ろうって」

黒い、深い眼。
ナミは、魅入られたようにそれを凝視した。

「………アイツはお前の言うことならきくんだ」

少しの苦みが、その目に混じったかも知れない。

「お前の言うことならきいてもいいんだ………」

ルフィが大きく息を吸い込む。
ナミは身を震わせた。
重要な、言葉のような気がする。

「何よ、それ………」
「………『鴉』は、お前の所有物なんだ」

唇を軽く湿らせ、ルフィが続ける。
息には、血の臭いが混じっていた。

「他の、誰が言っても………きっと、駄目なんだ」
「……………なんで」
「――――死ねと言えば、死んじまう。勝てと言えば、勝っちまう………お前の言葉だけだ、アイツを変えられるのは」

ナミは、唇を噛み締めた。

「だから、行ってくれ。で、死ぬな」

狼の使命を放棄して。
ルフィは、その言葉を吐いた。

口の中に広がった血の味は無視する。
気付かせるわけにはいかない。

「頼んだ」

もう一度、満面の笑みを浮かべると、ルフィはあごをしゃくった。
崖の上を示して。
ナミは強く頷き、さっと立ち上がる。
まとわりつく衣を、もう一度びりびりと破いた。

そして走りだそうとして、思い出したようにくるりと振り向く。

「―――アンタも、死んじゃ駄目よ!?」
「おう」

ルフィは笑って答える。
ナミは今度こそ身を翻し、そのまま岩壁にとりついた。
急角度の斜面。くぼみに手をこじいれて手がかりにしながら、登っていく。

「…………………」

それを見送って――――ルフィの意識は暗転した。



+++ +++ +++



「…………こいつを、斬ったのは」

サンジは静かにそう言った。

「お前だな」

ひたり、と視線を固定する。
ゾロは微動だにしなかった。

「俺のものを傷つけた…………」
「――――ああ」

立ち上がる。
ゾロとの距離は、十メートルもない。
その間に立つ者も、いない。

「許さない」
「………………」

サンジはすっ、と目を細めた。
ゾロは無言で足を踏み出そうとする。

その背中に、軽い蹴りが入った。

「!」

ゾロがバランスを崩してつんのめる。
サンジは鋭く視線を動かした。

「な」
「邪魔」

エースは腕を組んだまま、足を降ろした。
同じように目を細めて、サンジを見る。

いつもと同じ筈のその笑顔が、何故か無表情に見えた。

「…………エース?」

不審に思ったゾロが、声をかける。
エースはそれを無視した。

「よう、サンジ」
「……………………」
「久しぶり、って程でもないか」

組んだ腕をほどき、だらりと体の横に垂れさせる。
低い、しかし聞き逃しようのないその声。

軽い世間話の始まりのように、気楽にエースはサンジに挨拶した。
かち合ったままの視線に、力が込められ。
そして、その空気が変わる。

「あのな?」
「…………………」
「俺のに手を出されちゃ、困るんだよ」

ゆらり、と陽炎が立ち上ったように見えた。
サンジは目を逸らさない。

あちこちに転がる、死体。
その血臭を思い切り吸い込んでから、エースは笑いを消した。


「俺も、お前を許さないぜ?」



+++ +++ +++



「ぐ…………」

めり、と厭な音がした。
指先から血が溢れる。

びりりとした痛み。
右手の中指の爪が、半ば浮いた。

「はぁ…………」

岩場に擦れて、既に体には無数の擦り傷が出来ている。
視界が狭くなるため、豹の仮面は既にむしり取って捨てていた。

眼下の自軍に動揺が広がっているのはわかっているが、構わない。
二十メートル程は登ったか。
既に手足は痺れ、痙攣し始めている。

剥がれかけた爪から流れ落ちる血で、岩がぬめる。滑りそうになる。
したたり落ちる汗が傷口にしみ、ナミは顔をしかめた。

何という手間をかけさせるのか。

ひゅうひゅうと鳴る自分の喉。
下を見るのは止める。落ちて無事にいられるはずもない。
たまに体が丸ごと休めるくらいに張りだした場所があるが、休憩は必要最低限しか取らなかった。そんな時間はない。
次に休憩場所があったら、指先には布を巻き付けることにしようと思う。剥がれた爪はもう、四枚目だ。

意識すると益々痛みを感じるので、岩壁にしがみつくことに専念する。
噛み締めた奥歯が、疼いた。

ずるりと足が滑る。
どくっ、と心臓が鳴った。

数十センチ滑り落ち、ずるりと肘の膚を擦りむく。
支えようとした指先に、脳天まで突き抜ける痛み。

「つぅっ!」

はあはあと、荒い息をついた。
口はからからに渇いて、唾液も出そうにない。

頂上までの距離を測ることは止めにした。
呼吸を整えて、また腕を伸ばす。
額に張り付く髪は鬱陶しいが、払いのけることも出来ない。

ここで、間に合わなければ。
絶対に後悔する。

疑いもなく。
それは、事実だった。

「あの野郎…………」

足を、ひっかけて固定する。
二、三度強度を確認してから、体重移動。

「許さないんだから………!」

ナミは、手を伸ばし続けた。。
昼下がりの太陽が念入りに焼いた岩壁は、熱い。

手には既に火傷を負っているに違いなかった。
もう、どの痛みがそれかは判別できない。

しかし、痛い、ということだけは解った。
奴にも、それをわからせてやるのだ。

生きているのだから。
だったらそれくらいは、わかる筈なのだ。


わからせなければ、ならないのだ。
間に合って、欲しい。





               縋。 秤。 NOVEL