哀。
「誰か―――――」
ナミは混乱の中で叫んでいた。
緋陽の部屋には誰も近づかない。
緋陽が出ていかなければ、誰も、来るはずがないのに。
胎児のように躰を丸めて、小さく痙攣を繰り返す男。
その口から吐き出された大量の血は、じわじわと床を汚し、広がる。
薄暗い、視界の中、何故かそれははっきりと見えて。
「誰か、誰か………!」
助けて。
誰に言うともなく、ナミの唇がそう言葉をなぞった。
どうすればいいのか、わからない。
うろうろとその躰に視線を彷徨わせる。
サンジの足の、すねの辺りの布が裂け、そこから血が染み出しているのに気付いた。
が、それだけだ。
その怪我は軽傷、とは言わないまでも命に関わるような物ではない………流石に足の怪我から、吐血に繋がるような、内臓にまで達する傷がつけられるわけがない。
原因は、なんだ?
病気、というのが一番確率が高い気がする。
しかし、それではナミはどうすることもできない。。
「う……………」
サンジがまた、ごぼりと血を吐く。
その肩が痙攣して。
「……………………」
食道が、灼けつくような。痛み。
何故か今、そんな記憶がフラッシュバックする。
ナミの頭の中で、突然なにかがぱちんとスイッチを入れた。
………感じる。これは。
身に覚えのある、苦しみ。
これは。
この症状は。
自分と、同じ。
病気じゃ、ない。
怪我じゃ、ない。
何故だかはっきりと、わかった。
どこか、繋がっている。
「ああ………そういう、こと…………」
目の前が白くなる。
もう、慣れた。
この男が現れてから。
怒りで目の前が白くなるなんていうようなことにはもう。
慣れすぎてしまっている。
もういい加減。
うんざりだ。
がんっ!
ナミは、拳を思いっきり床にたたきつけた。
嫌な音が腕を伝って頭に響く。
「……………しっかり、しなさい」
それからナミは、その手をサンジの頭に伸ばした。
横向きに寝かせたまま、頭を後ろに押して首を反らせ、唇を開かせる。
がっ、と乱暴に指をその口に突っ込んだ。
「っ!」
固い歯に当たって指先が傷ついた感触。
構わずにもっと奧に伸ばす。
顔を歪めるサンジには構わず、ぬるぬるとした血の固まりを、掻きだすように引きずり出した。
サンジは空気を求めて咳き込み、また少し血を吐いた。
ナミの予想が当たっていれば。
この、男の状態は。
どうやっても、なおせない。
…………………憤りで、目が眩む。
ばさり。
厚い布が揺れる。その音。
ナミは、はっ、と顔をあげた。
二人の上に、影が落ちる。
薄暗がりの中、目を凝らす。
誰だ?
鋭い眼光だけが、やけにリアルにこちらを見ている。
戸口に、男が立っている。
背の高い―――特に見覚えのない、男だ。
まあ、緋陽が見知っている顔など、ほとんどないと言っていいのだから仕方のないことではあるが。
見上げるナミには構わず、その男はするりと部屋の中に侵入した。
迷いのない足どりで近づいてくる。
反射的に警戒するナミに構わず、男はサンジの腕を掴んで持ち上げた。
当然のように、流れる動作で肩の上に載せる。
「!」
そのまま、さっさときびすを返そうとするから。
ナミはとっさに男の足を掴んだ。
どうするつもりだ、と。
睨み上げる。
視線が、落ちてくる。
鋭い、鋭い………それしか印象が残らないような瞳。
何秒間か、交錯した。
「…………………」
ナミは、ゆっくりと手を離した。
ふ、と息をつく。
その男の目は、暗闇の中で光っていた。
鋭くて鋭くて、うっかりすると見落としがちになるのだろうが。
その目は、けして冷たくはなかった。
何か言おうと口を開きかけたが、ナミはすぐそれを閉ざした。
声を出さず、目で訴えかける。
男が、低い声で答えた。
「俺は、こいつの………部下、だ」
「…………………」
「心配ない。寝かせてくる」
それだけでは安心できない。
なにか、出来ることはないのか?
そう思ったナミの思考を読んだように、また男は呟いた。。
「こいつに、何かしてやりたいと………少しでも思っているのなら」
「…………………」
「『死ぬな』と」
男は、ぎゅっと拳を握った。
その長いコートの裾が、垂れた血で汚れる。
「ただ一言。それだけでいい」
サンジの左手は、いまだ刀を握ったままだ。
意識すら、きっとないのに。
「命令、してやってくれ」
…………ナミは静かに頷いた。
男は、サンジを担いだままぺこりと一礼し。
そのまま、部屋を出ていった。
後には、血の跡だけが残った。
長い夜。
終わるまでには、まだ時間がある。
+++ +++ +++
どさり、と彼の体を寝台にのせた。
コーザは、痛むこめかみに手を当て、床にひざまずく。
足を取り巻く布の残骸を取り去り、血の止まる様子のない傷を検分する。
どう取り繕ってみても、刃物による傷だ。
「……………また勝手なことを」
薬、などというような貴重な物を使うことを、サンジはよしとしないだろう。
酒で代用すら出来ない。それも貴重だ。
包帯ですら貴重だが、それは流石に仕方がない。
コーザは立ち上がり、サンジの部屋の中を見回した。
見事なくらいに殺風景だが、机くらいはある。
「…………………」
すらり、と長刀を抜いた。
ざんっっ!
瞬く間に鞘へと収める。
エースに奇襲されたときに負った利き腕の傷はまだ完治にはほど遠いが、これくらいのことは出来るようになった。
見事に分解された机に歩み寄り、ただの材木となったその脚を掴みあげる。
獣油に満たされた原始的なランプを手に取り、それを手に持った机の脚に叩きつけた。
砕け散る、その器。
乾燥した木は火と油にまみれ、燃え上がる。
床にこぼれた火は即座に踏み消す。
蹂躙され、乱闘でもあったかのような惨状になった部屋には目もくれず、即席の松明を持ってまた寝台に近寄った。
傷を見下ろし、無造作に。
それを押しつける。
ぢうっっ
嫌な音。
焦げる臭い。血と、肉の。
「!!!!」
サンジの目が、開かれた。それを確認する。
悲鳴は、ない。それが当然であることは、酷く堪える。
まんべんなく傷口を焼いた後、コーザは松明を放り捨てた。踏みにじり、消火。
そして即座に包帯を巻いていった。夜目が利くので、灯りはなくても問題はない。迷いのない手つき。
「……………………は」
サンジは大きく、瞬きをした。
文字通り、焼けついた痛み。
ぎゅっ、と手を握る。固い感触が伝わり、刀があることを確認する。それだけで、瞬く間にその目に焦点が戻る。
覚醒したサンジは、横たわったまま、傷の手当をするその男を見遣った。
ついで、視線を横に走らせる。すっかり印象の変わった自室。暗いが、それくらいはわかる。
口元を拭う。
べたついた感触に、眉を寄せた。
…………醜態を、見せた。何より、それを見せてはいけない人に。
沈黙。
コーザは、怒っているのだろう。
「…………………終わりだ」
コーザは包帯を巻き終えると、立ち上がった。
サンジを見下ろして、訪ねる。
「痛いか?」
「!」
その言葉に。
サンジの胸が軋んだ。
…………恐怖、に近かった。
それは、気遣いではなかった。
そうではなく………純粋に、痛みがあるか、否かの確認だ。そんな物はサンジには必要なく、それを知っている筈なのに、わざわざ問った。
それは何故か。それは。
愕然とする。
そうだ。
痛いと、思った。
そんなものは、もう。
感じなかった筈なのに。
……………嫌、だ。
「この傷は、痛いのか」
静かな声。見通されている。
この胸の、葛藤も。全て。
貫かれる。
サンジは、また目を閉じた。
足掻く。
「…………………痛く、ない」
「じゃあ、何故」
コーザは、容赦なく追い打ちをかけた。
暗闇の中で光る眼。
「殺さなかった」
「……………見て、たのか」
「いや」
コーザは首を振った。
「予想がつく」
非道い、台詞。
サンジは強く唇を噛む。
上手く、表情が作れていない気がする。
目を閉じたのは、少しでも隠すため、なのだろうか。
それとも。
見なくともわかる、その視線。
それから、目を逸らすため?
駄目だ。
「………コーザ」
しん、とした部屋の中に声が落ちる。
「なんだ?」
「お前の、その目」
サンジは瞼を開いた。
視界の印象は全然変わらない。暗い、部屋。
「………あの時と、同じだ」
「――――あの時?」
コーザが問い返す。
囁きで答える。
「あの時、だけじゃない。いつもお前は」
岩山の上で。ひっそりと。月明かりを浴びて。
どんなときも例外なく。
「お前は」
見ているけれど。
その、貫く瞳で。
でも。
「………あの、路地裏で」
ルフィがゾロを、殺そうとしたとき。
それにサンジが、割って入った、とき。
白々しい、演技をして。
もう避けられない終わりを、見苦しくも引き延ばそうと、したとき。
向けた、目は。
「あの時」
お前は。
ゾロを見ている訳じゃなかった。
ルフィを見ている訳じゃなかった。
「俺を、哀れんだのか……………?」
そして今も。
結局、彼を殺せない、こんな自分を。
全てわかって。
その目で、見ている。
この男は。
自分を、許してはくれない。
それほどに、優しい。
けれど。
責めても、くれはしない。
それほどに、厳しい。
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