鎖。
荒々しくこちらに近づいてくる足音に、ナミは瞼を持ち上げた。
むくりと寝台の上から頭を起こし、そろそろと足を床に着ける。
「……………………」
寝ているときでも傍らから離さない仮面を素早く装着した。
鴉以外の人間が緋陽に近づくことはまずないが、緊急事態かも知れない。鴉なら、こんな風に乱暴な物音をたてることはないはずなのだ。
こんな時間に、一体誰が?
ナミは警戒を強めた。
鋭い足音は急激に近づいてきている。ほとんど小走りに近いようで、そんなことを考えているうちにもうこの部屋の前まで来ている。
ばさり、と扉代わりの布をまくって姿を現したのは。
「!」
一瞬。
誰かと思った。
ナミは仮面の奧で目を瞬かせた。
血の臭い。
黒い影。
それだけはいつも通り。
そこにいたのは、彼女の使い魔だった。
それでも、ナミには一瞬その事実が捉えきれなかった。
「え……………?」
ナミはもう一度、瞬きをした。
いつも思っていた。
その男は。
いつも冷静で。
隙なんかひとつもなくて。
笑顔という無表情で。
何より残酷で。
酷く高性能な機械人形。だと。
例え自分が目の前で死んでも、眉ひとつ、動かさないのだと。
その男自身が死ぬときでさえ、無関心だろうと。
もう知っている、と思っていた。
そういう男なのだと。
期待など、するだけ損な化け物だと。
自分とは決定的に違う、モノだと。
でも、これは誰だ?
男の唇が、震えるように動いた。
言葉はなく。
何故かその目が。
冷たく薄く硬い筈の青灰色が。
揺れていたから。
縋るべき物を失った、捨て子のように。
なんで、この男がこんな目をする?
なにが、あっても。
冷徹に。
刀を振り下ろす男が?
血を流して省みない、男が?
歪められた眉間が。
握りしめられた拳が。
短く吐き出される吐息でさえ。
その男が何かを、必死で我慢している事を伝えていた。
これは誰だ?
「…………!!」
右腕が伸ばされて。
何故かナミは立ち尽くした。
その腕が自分に巻き付いて、息が止まるほど締め付けられても。
生々しい吐き気を催す血の臭いがいっそう濃く立ち上っても。
動かなかった。
動けなかった。
こんな無礼を許してはいけないことは知っていた。
その男だって、だからもう必要もないのにそんなことはしないだろうと思っていた。
状況を理解できるだけの十分な時が過ぎても。
それでも、何故かナミはふりほどこうとしなかった。
どんなに、窮屈で。
どんなに、拘束されているとしても。
その腕は。
震えていたから。
………………まるで、知らない男だった。
「呼んで…………!」
聞き取りにくいかすれ声が、ナミの耳まで届いた。
その声でさえ、震えていた。
泣き声ではなかった。
だから余計に、哀しい。
「………………呼んで」
背がしなる。
あまりに強く、抱きしめられているから。
この間とは、全く意味合いの違う、それ。
「すぐ、戻るから………」
「戻れるから」
血の気の失せた、顔。
限界まで冷えた躰。
「名前を…………呼ん、で」
これは、ささやかな悲鳴。
ささやかな、絶望の中にいるのだと。
「呼んで、ください」
断崖絶壁。
そのふちで。
両手を広げているような。
今、突き飛ばしたら。
この男は壊れるかも知れないと、思った。
「俺の」
「俺の、名前」
それは。
ナミは、ゆっくりと、ゆっくりと唇を開けた。
胸が苦しいのは、圧迫されているせいか。
自分の指先さえ震えているように思えるのは、きっと気のせい。
心臓に突き立ったのは、ただの、驚きという感情。それだけだ。
喉だって、痙攣なんかひとつもしてない。
舌が上手く動かないのは、喉が乾いているからで。
何も、特別なことはない。
「鴉…………」
ぎゅう、と更に力が込められる。
ひゅっと息を鳴らして、また。
がたがたと、激しく震えながら。
「…………もっと」
「鴉」
「もっと」
「鴉」
「もっと!」
「鴉」
「強く……呼んで……!」
「鴉!!」
「……………もう、一度だけ」
何度も。
何度も。
請われるままに、呼ぶ。
床に広がっていく血溜まり。
「鴉………………!」
ナミには何故か、わかった。
今、拘束されているのは。
自分ではないのだ。
この男は、それを今欲しているのだ。
なによりも切望して。
その誓いを。
この呪いを。
積み上げられる、その鎖を。
「鴉……………」
ナミは、そろそろと腕を持ち上げた。
そして、初めて自分から、その体を抱きしめた。
何もかもわからないことばかりだ。
けれど、初めて触れたその感触が。
あまりにも、細くて。
病的なくらいに。
痩せていて。
服の上からは、わからなかった。
何故だか泣きそうになった。
「鴉……………」
何も、見えていない。
何も、見せてはいない。
ただ。
今だけ。
少しだけ、このまま夜を明かしてもいいと思った。
陽が昇るまで、少しだけ。
見えないから。
何も。
がくり、とサンジの膝が折れた。
そのまま、ずるずると床に崩れ落ちる。
つられて、ナミもぺたんと座り込んだ。
荒い呼吸だけが、真っ暗な部屋の中に響く。
がしゃり、とサンジの握る小太刀の鞘が床に触れた。
「……………………鴉?」
その呼吸がだんだんと、穏やかになっていくから。
もしかして、眠ったのかも知れないと思った。
ナミの体にかかっていた圧力も、散る。
ほう、と小さく息をついた。
途端、その体がびくりと大きく痙攣して。
二、三度続けてひきつったかと思うと、ナミの肩に熱が走る。
熱い。
酷く熱い。
「が…………ぐ、ごほっ!」
サンジの体が九の字に折れ曲がって、跳ねた。
床の上に転がり落ちる、そのからだ。
ナミは呆然と、肩に視線を落とす。
元から赤い布の、その色が。
濃く。
綺麗だと思うくらいに、赤くて。
床に落ちた金髪が、血を吸う。
もう一度、そのからだが蠕動した。
呆然とそれを見下ろして。
ナミは、もしかして自分は今、とてつもない恐怖を感じているのかも知れないと、思った。
そしてそれは、きっと。
この男の心配ではなかった。
この戦の、心配なのかも知れないと。
そんなことを思った自分に。
心底ぞっとした。
「誰か」
一度、たがが外れたらもう。
「誰か…………!!」
ナミは叫んだ。
助けを呼ぶ、声だ。
声を出してはいけないとか。
弱みを見せてはいけないとか。
緋陽とか。
鴉とか。
そんなものは今は、どうでも良かった。
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