従。




 彼女のもとを退出してから数十歩。
 サンジは足を止める。

「……………誰が盗み聞きを、許可した?」

 冷たい声。
 あまりにも違うその響き。
 コーザは目を開いた。

「―――俺が緋陽の側にいるのは当然じゃないのか?『鴉』」
「………………………」

 サンジは唇を噛んだ。コーザの言っているのは、何よりも優先すべき事柄だった。つまり、当然。くだらないことを言ったと、少し憂鬱になる。

「心配せずとも、ルフィは違う場所にいる」
「――――余計な気遣いだ」
「余計、か」

 コーザは口元を少し歪めた。
 ざり、と足下の砂が鳴る。
 発達した犬歯が薄い唇から覗く。
 腕組みをしたまま、コーザは目線だけを動かした。

「余計なことなど、俺は出来るようになっていない」
「……………知っている。だが」

 サンジは、ようやく視線をコーザに向けた。寒々しい色。
 皮肉げに表情を変える。さくりと、突き立つような声音。

「『蝙蝠』に会うのは、余計だな?」
「……………………」
「勝手に寿命を縮めていいと、誰が言ったんだ」

 俺が気付かないなんて、都合のいいことを考えていた訳じゃないだろう、とサンジは自嘲気味に言った。
 使い魔にとって、掟に逆らうことはすなわち精神だけでなく肉体にも影響を及ぼす。役割、目的に反する思考などは、そもそもそれだけで致命傷になる場合も、ある。
 余計なことは考えない。それがその強さを支えているのだ。
 迷い、雑念。疑問。使い魔にとって不要と言うよりは、むしろ欠陥である。
 行為に対しての絶対服従。役割を全うするための執念。入らない物を限界まで削り落として細くなり、その代わりに強くなる。
 粘度が少なく、硬度が高い。炭素の結晶に似ている。無理にその形を変えようとすれば壊れてしまう、なにより硬いくせに、とても脆い塊。

「……………………」

 コーザは黙って目を眇めた。
 サンジはそれを見てふと笑う。

「勝手なことはするなよ。俺はお前を、結構気に入っているんだからな」
「…………嘘吐きよりも?」
「ああ」

 それこそ嘘だ。コーザは世界が沈んでいく音を聞く。
 こんな茶番劇を、なのに彼は望んでいる。
 こめかみの傷跡が引きつれた。痛くはなかった。余計な気遣いだと、誰かに八つ当たりしたくなるほど。

「俺はお前が嫌いだ。反吐が出るくらいにな」

 すんなりと吐き捨てる。
 こんな言葉はいくらでも言える。
 だから、サンジはきっと、自分をここに置いておくのだ。
 クク、と抑えきれない声が喉を滑って出てくる。
 誰も、この男に望む物を与えてはやれない。
 だから、麻酔のようにこの言葉をやる。
 そんなたわいのないものすら必要とするようになっている、目の前の男が滑稽で。
 それよりも自分が無様で。たまらなくなる。

 ただのガキだ。ここにいるのは。

「――――だから、俺はお前の為になど、死なない。満足か?」
「ああ…………充分だ」

 コーザは目を閉じた。自分の砂色の髪が、風になぶられていく感触。
 長い間、躊躇していた。この先の言葉を続けるのを。

「でも、俺が譲歩できるのはそれだけだ…………」

 空気が変わる。
 サンジが警戒するのがわかった。
 いつも、その言葉遊びはサンジが望む場所で終わっていたから。
 そこから先は、聞きたくないのだろう。

 でも今日はその規則を、破らなければならなかった。

「…………俺は『狼』だ。だから」

 見ているから。
 同じ場所で。

「お前がひとりになるのは許さない」

 かちり、と何かが外れる音。
 危険領域だ、既に。もう、ままごとではない。

「お前が言って欲しい言葉など、いくらでも与えてやる」
「お前のことなど考えはしない………期待もしない、機械と同じように接してやるよ、気遣いなんて必要ないな?」
「お前に同情など覚えない。軽蔑するし優しくなどしない。お前を許すものがあったら排除する」

 そう、してやるから。

「ただ、これだけは認めろ」

 これ以上は、追いつめないから。

「お前と俺は、同罪だろう?」
「……………………」

 サンジはゆっくりと、頭を振った。
 温度のない瞳が、固定される。

「違うな」
「俺だって、人殺しだ」
「お前は、違う」
「何が違うんだ?」
「お前は、仕方ないんだ。俺に従わなきゃならないようにつくられている、から」
「だからお前が、全て悪いと?勝手なことを言うな。キリスト気取りか?」

 コーザは目を開けた。
 サンジは変わらないように見える。
 手が、震えていなければ。

「――――さっき、お前が緋陽の前で言ったことを覚えているか」

 認めろよ。

 コーザはひざまずいた。
 サンジの足下に。

 認めろよ。
 同じなんだ。

「俺だって、自分の意志で……お前に仕えてる…………」

 きっと。
 それくらいは、許されてもいい。
 そう思うくらいは、許されても。

 そのまま、コーザはゆっくりと誓いを立てた。

「お前を救おうとはしない、だがひとりにもしない」
「お前のためは思わない、だがお前の願いは叶える」
「お前を憎んでやる、だがお前を死なせない」

 お前を想ったり、しないと。
 きかせてやることなら、できるから。

 誰も。
 それが嘘だと、言ってはいけない。
 神でさえきっと、言ってはいけない。
 わかっていても。

「だから―――泣くな」

 自分独りで、全てを背負うな。
 免罪符など欲しくないのは、自分も同じ。

 お前は悪くないなんて、口が裂けても言わない。
 でもどこまでも、一緒におちてやる。

 サンジは静かに言った。

「泣いてなど、いない」

 サンジはそれから、もう一度繰り返した。
 身を翻して。

「泣いてなんか、ないんだ」

 その瞬間には、もうコーザの気配は消えていた。
 それが彼の優しさだと、わかりたくはなかった。彼だって、きっと自分にわからせたくはない。

 風が吹いて。
 砂が荒れて。
 それだけで。

 ただそれだけなんだから。

 乾いた白い骨も。
 濡れた鉄の刃も。

 全てが。

「俺は泣かない………」

 泣けと言われたことも、ずっと昔にはあった気がした。
 泣いたら楽になると言うのだろうか。

 なら、絶対に泣かないのに。
 もっと苦しめば、いい。

「泣かない」

 自分は。

 涙など流さない。
 涙など流せない。

 弱音など、吐くことはない。
 そんなことが出来るような高等なものではない自分は。

 例えばここに。今、この場所に。
 自分が殺した者が、その家族が現れても。
 自分の足首を掴み、泣いて。
 その絶望に濡れた目を見ても。

「――――謝らない」

 絶対に。
 絶対に。
 なにが、あっても。

 謝ったり、しない。

 俺は、汚いんです。
 冷たくて残忍な鴉なんです。
 こんな事で悩みはしないんです。

 だから涙も、ないんです。

 そんなことに垂れ流す液体など。
 贅沢な、だけで。

 俺の心は、ちっとも動きません。





          誓。 況。 NOVEL