誓。
鴉が緋陽の部屋を訪ねるのは、いつも夜だった。
音もなく影と共に現れる男に、冷たい視線を送るのももう慣れた。
振り返る。
「アンタ、血の臭いがするわ。だからすぐにわかるのよ」
「…………………………」
いつものように微笑みを張り付けて、男はそこにいた。
が、その顔には少し、陰りがあった。その事に少し驚く。
「――――血の臭いがするのは、貴女です」
「!」
ナミは顔を歪めた。
反射的に口元に手を当てる。
まさかこの男、気付いているのか?
「迂闊でした。後遺症が残るレベルではないと思っていたんですけど―――」
「うるさいわ」
聞きたくなかった。
「術の負担はなくなった筈なのに、まだ血を吐いてる」
「うるさいっ!」
ナミは仮面の奧から目をぎらぎらと光らせた。
うつむいて、真っ赤な唇から嘲るような言葉を漏らす。
「それがアンタに何の関係があるの?アンタが心配すること?アンタは戦の心配だけしてりゃいいじゃないの?ワタシだって別にアンタの心配なんざもう、しやしないわ」
「これは俺の管轄です」
神経を逆なでするためにあるような、言葉。
いちいち激昂していては、話が進まない。
「管轄?ワタシの体のことはアンタの管理下にあるわけ?ふざけるのもいい加減にした方がいいわ」
「主………」
「失せなさい」
「俺には治せる。貴女の体の痛みを」
「―――――――」
傷ついた内臓も。
壊れかけた躰も、骨も。
「はは………」
興味深げに、ナミは笑った。
サンジの顔をじろじろと眺める。
「………アンタ、実は面白いくらい嘘はつかないわよね。出来ないことは、言わない。『体の』痛みは治せるって、言ったわね?」
「……………はい」
「ちっとも意味が、ないわ」
体の痛みなど。どれ程あってもかまいはしない。
それはお前も一緒ではないのか?
「…………俺にとっては、意味のあることです」
「ふざけるのはいい加減にしろと、言ったはずよ」
「貴女の前でふざけたことなど、ありませんよ」
鴉の笑みが、消える。
ナミも嘲笑を引っ込めた。
「この戦が終わっても、貴女にはまだすることがあるのだから」
「貴女『には』?」
「いやにこだわりますね?そうじゃない。貴女を出来る限り生かすために、俺には貴女の体を治す義務が――」
そこでサンジは、ふと言葉を途切れさせた。
不自然な空白。
数瞬の後、サンジはそれを否定した。
「いや、そうじゃない………」
「?」
「義務じゃ、ない」
サンジは強い力でナミの手を引いた。
「!!」
突然のことに、おもわずナミは彼の胸に倒れ込む。
それをしっかりと受け止めて、サンジは囁いた。
顔は見えない。
「貴女が俺のことを信じられないのは、わかります」
「………………な」
「ただ……俺は貴女に嘘はつかないから」
「離しなさい………」
「俺の名前を呼んで。俺は負けないから。俺を信じて。俺は強くなれるから」
「そんな…………」
「貴女に嘘はつかない」
ナミは、絶え間なかった体の痛みが薄れていっていることに、ようやく気付いた。
食道の灼熱感、骨の軋み、激痛と鈍痛。全て洗い流されていく。
これが、『鴉』の力か。
「アンタ………」
「戦に勝ちます。必要な物は全て手に入れる。この国を死なせない。貴女も死なせない……………絶対に」
「………………」
「―――敵は、全て滅ぼします」
言葉には力がある。
冷たくて、強い。
「俺は、貴女の『鴉』です」
サンジは、ゆっくりとナミを腕から開放した。
痛みは、全て消えていた。
ナミはゆっくりと胸に手を当てる。規則正しい鼓動。息を吸っても苦しくない。忘れかけていた感覚。
「こんな事が………」
「貴女の為なら、いくらでも」
まるで、それしかプログラムされていない機械。
そんな言葉は欲しくない。
「…………だから?だからなの?」
ナミは呻いた。
なんだか、叫びそうになる。かろうじて自制はしたが。
「だから何でもできるの?」
信じられなかった。
「眉ひとつ動かさないで平然と敵を倒すのも」
「腕を切り落としても平気なのも」
「何にも、感じないみたいなのも―――」
全てが?その為に?
「じゃあアンタの意志は?何処にあるの………?アンタは、使い魔だから?だから、こんな風に――――」
「違いますよ」
サンジは、静かにその言葉を遮った。
青灰色の瞳に、揺れはない。
「これは、俺の意思です」
何もかも。
誰かのせいに出来ることでは、ない。
自分の意志。
「全部、自分で決めたことですから」
殺すのは、自分が決めたこと。
奪うのは、自分が決めたこと。
どうして誰もが、自分の裏に何かを見ようとするのだろう。
貴女とは違うのに。
豹の仮面は、本当の姿を隠すため。
貴女のその優しさも。
貴女のその痛みも。
『緋陽』であるために、見えてはいけないものだから。
俺とは違う。
俺がかぶる仮面は、ない。
俺が鴉の仮面をかぶってるんじゃない。
この『俺』が、鴉の仮面だ。
取り違えないで欲しい。
それこそが、自分を追いつめるのだから。
サンジはひざまずいた。
うやうやしくナミの手を取る。
「我が主………」
貴女の痛みを、俺に移して。
その為に、俺は存在するんです。
初めて会ったときと同じように、ひっそりと。
その手にくちづけた。
「愛していますよ」
貴女の、その仮面ごと。
俺の名前を、呼んでください。
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