花。




どれほどの痛みも。どれほどの蔑みも。
ちっとも、私を傷つけない。

大事なのは、そんなものではないのです。





+++ +++ +++



 突然の北軍の夜襲から、数日。
 大打撃を受けた南軍は、自国への一時退却を余儀なくされていた。
 物資のほとんどが燃え、兵も五分の一近くが死傷。
 もちろん怪我人を送り返し、物資を補充したら即座にまた戦に望むつもりだが、食料がなくなったのは特に痛かった。

 そして、失くなった物は他にもある。

 ナミは、いつものように豹の仮面をかぶって、軍の隊列の先頭を進んでいた。
 彼女の乗る黒馬の手綱を取るのは、金髪の男。

 その右手首から先は、綺麗さっぱりと失くなっている。

 それを最初に目にしたときの彼と自分の問答を想い出して、ナミは思わず出そうになった溜息を無理矢理喉の奧にねじ込んだ。



+++ +++ +++



 『負けなかったでしょう』と。
 飄々と言ってのけたこの男に、目も眩むほどの怒りを覚えて。



 ナミは、サンジと二人になるとすぐに、彼の胸ぐらをひっつかんだ。
 険しい目で睨み付け、詰め寄る。

「その、手………!」
「手?」
「どうしたのよ…………!!」

 ナミの問いかけに、サンジは、綺麗に縛って手当してある右手首を、ちらりと眺めた。
 消失。
 均整の取れた体つきをしているだけ余計に、その違和感がはっきりとわかる。

 奇形、と言うのだ。そういうのは、多分。
 手がない。

「ああ、やっぱり気になりますか」

 サンジは今その事に気付いたかのように、言った。
 それ以上の感情の動きはない。何も。

 ナミはこみあげる衝動を抑えて、低く呟いた。

「…………ワタシは、どうした、って訊いてんのよ」
「斬り落としました」

 見ればわかることを何故訊くのかと。
 本気でそう、思っているのかも知れなかった。

「アンタ…………おかしいわよ…………!」

 というよりも、異常だ。
 いつもと全く変わらない。

 仕草。表情。言葉。
 『何事もありませんでした』
 ――――――気味が悪い。

 何故、そんなにいつも通りでいるのか。
 心配を掛けないために笑っている、というのではないことくらいは、見抜ける。

「なんで、そんな笑えるのよ………?」

 ナミは声を荒げた。
 崩れない、この男の表情が気に入らなかった。

「アンタの、手がないのよっ!!」

 男の胸ぐらを掴んで絞り上げる。
 この、手。

「今まで何でアンタはモノを掴んで!」
「今まで何でアンタはヒトに触れて!」
「来たのっ!!」

 ナミの激昂に、怪訝な表情しか返さない。
 この男が憎らしくて仕方ない。

 何の価値も、知らない。

「字を書いたり」
「髪を梳かしたり」
「涙を拭ったり誰かの頭を撫でたり」
「料理をしたり」
「着替えをしたり」
「扉を開けて」
「誰かに挨拶したり」
「地面に触れたり」
「光を遮ってみたり」
「抱きしめて」
「叩いて」
「辿って」
「握って」
「それこそ全て」

「何だってしてきたでしょうっ?」

 生まれてから、ずっと。

 その手が。
 ないのに。

 サンジは、困ったように笑って見せた。
 胸元を掴むナミの手を、無事な方の手でそっと掴んで、外そうとする。

「こんなの、全然平気で」
「平気なわけないじゃない!!」

 ナミは叫んだ。ほとんど悲鳴だった。

「何でそんな事言うのっ!」

 目が潤んでいるのがわかった。
 勿論、怒りの為に。

「思ってることくらい、言えばいい!」
「余計なことしか喋らない!」

「何考えてるか、全然わからないのよっ!」

 人を散々苛つかせて。
 何がしたい!
 『お前』は何がしたいんだ!

「痛いなら痛いって、言えばいいっ――――!」

「痛くありません」

 微笑んで。
 微笑んで。
 静かに、サンジはナミに答えた。

 ざざあ、と目の前が暗くなる。

 強がりではなく。何でもなく。
 本当に、この男はそう思っているのだと。

 ―――――なんで、ここまで。

「痛くない、ですって?」

 ぎりぎりと、力のこもる拳が白く。
 気遣わしげにサンジがそれを見る。

 その視線にすら、反吐が出そうだった。

「手を斬り落として痛くないっていうの」

 サンジが頷く前に、ナミは言葉を繋げた。

「血が流れても、神経が切れても―――」
「だって、大したことじゃないでしょう」

 今度は遮られる。

「右手がなくても支障はありません」
「……………」
「足と左手があれば戦えます」
「……………」

 ナミは大きく、深呼吸をした。
 抑えた静かな声で、問う。

「アンタは………見たことあるの?」

 何を、とは言わず、サンジは黙した。

「…………………」
「腕がなくて泣いてる子供を見たことがあるの」

 持っている人間は一生気付かない。
 その価値を。

 泣いて縋ってももう戻らない。
 誰もが持っているからといってそれが普通ではない。

 それを。
 知っているのか。

「…………………………」

 サンジは笑みを消した。

 消しはしたが――――だが、それだけ。
 青灰色の瞳には、微塵の動揺もない。

 ただ、喚いている小娘をなだめる以上の気持ちなど、きっとないのだ。

「だから、ですよ」

 そこまで苦しんでいる人がいるのだから。
 自分がそれを免れる必要などないんです。

 あっさりと。
 そう言うのだ。

「俺がそうなったっていいでしょう?」

 ―――憎い。
 自分は、比奴が憎くてたまらない。

 ちりちりと、どこかの神経が焼き焦げる音。

「は………」

 頭の血管が切れるんじゃないかという形相で。
 ナミは絶叫した。

「じゃあアンタは……アンタは!」

 何をしても平気なのか。
 どうしてそんなことが言える。

 それならば。

「躰から脳と唇と心臓だけ掴み出してっ!」
「―――それだけで生きていけばいいっ!!」

「ええ」

 その時。

 ああ、この男には。
 何を言っても無駄なのだと。

 自分とは違うイキモノなのだと。

 その時にようやく、そう思った。

「貴女がそう言うなら」
「俺は全然かまいませんよ」

 自分の叫びは、全て無駄。
 この男には届かない。
 『命令』すれば、従うふりくらいするのだろうけど。

 全て、無駄。

「俺は捨てることは怖くありませんから」

 何のために。



+++ +++ +++




 昼の小休憩の為に、岩場の影に腰を下ろす南軍の隊列。

 それを見下ろしながら、いつものようにコーザは座っている。
 その隣には、ルフィが足をぶらぶらさせながら同じように座っていた。

 照りつける日差し。

 先程ここまで登ってきてから、まだ一言も口をきいていないルフィ。普段の彼の騒ぎぶりからすればかなり の異常事態だ。

 ルフィが細く息を吐く。
 話を切り出す前兆だとわかった。

「俺さ」
「………………」

 相づちを打つ必要はない。

「生まれて、多分生まれて初めてこんなに頭使った」
「………………………」
「でもどうしてもわかんねぇんだ」

 ルフィは俯きはしなかった。
 じっと、緋陽を見ている。

 いつも通りだ。

「なんで…………あの時」

 ルフィはまぶしそうに目を細めている。
 サングラスをかけているコーザには、その必要はない。

「俺、ゾロを殺そうとしただろ?」

 ぽつりぽつり、考え考え、ルフィは喋る。
 自分でも良く整理しきれていないのだろう。

「あの路地裏で。よく覚えてる」
「ゾロは甘いから、あのままやってたら多分俺が勝ってたんだ」
「別に、それでも良かったんだ」
「むしろ、その方が、良かった筈、だろ?」

 左肩に受けた矢傷が疼く。

「なあコーザ……」

 二匹の狼は、少しも動かなかった。

「お前は俺より頭がいいから、きっともう、考えたんだろ?」

 ただ見守るだけの。
 岩山の上。

「なんでサンジは」

 手は届かない。

「あの路地裏に、来る必要があったんだ………?」
「……………」

 返ってくるのは、やはり沈黙。

 砂の混じった風が吹き上がってくる。
 ルフィは軽くフードを払った。

「なあ、サンジはさ…………」
「…………………」
「どうして」

 そこで、言葉は途切れた。
 黙っているより、仕方なかった。

 言い捨てられた、半端な言葉。
 もう数分もせず、砂に紛れて消えていく。



+++ +++ +++



 そして、同時刻。

 その数を半分近くまでに減らした北軍第二番隊も、同じように岩場の影にいた。
 都への帰還の途中の休憩。

 少し離れた場所に、人影がふたつ。
 ぼんやりと遠くを見ている。

 一人は砂の上に腰を下ろし。
 もう一人は立ったままで、彫像のように動かない。

 座っている方の影が口を開いた。

「俺ァな………ずっと疑問だった」

 砂に混じる岩の破片を拾い上げ、手で弄ぶ。
 ぽんぽん、と手に馴染ませる。

「―――何でアイツ、エリカなんて名を店に付けてたのか」

 ぴくり、ともう片方のが身じろぐ。

「エリカってのはヒースの事だ。荒野に茂る」
「アイツに似合ってるようで、似合ってねぇと思ってたんだ」

「――――間違いだったよ、ソレ」

 影は、岩の欠片を放り投げた。
 どうという事のない音を立てて、砂に紛れるそれ。

「エリカの花言葉、知ってるか………?」



「孤独と、裏切り」

「そして」



 ――――その続きを聞く前に、影の片割れは身を翻した。

 聞きたくないと、耳を塞ぐように。






          狂。 選。 NOVEL