魔。
………………………何故?
+++ +++ +++
サンジは小太刀を一振りした。
ゾロの血が、転々と砂の上に飛ぶ。
頬についた血も拭う。
至近距離から浴びた返り血は、サンジの身体をべったりと濡らしていた。
拭ってはみたものの、それは白い肌の上でのばされただけだった。その対比が、やけに目に付く。
ふ、とその唇がつり上がった。
ゾロに斬られた左腕から滴る血には、全く頓着していない。
柔らかな微笑みを浮かべているサンジの姿に、その場の雰囲気が飲まれている。
戦場にあるまじき静寂。
誰も動かない。
北軍も、南軍も、呼吸をするのさえ罪悪であるかのように、その場にたたずんでいた。剣を振るうことも忘れ、ただサンジの一挙一動に視線を注ぐ。
異常だった。
その事に気付くことが出来たのは、その場に僅かに二人。
――――――魅縛されているのだ!
それに気付く事が出来たうちの一人、南の緋陽は落馬で痛めた手首を無理矢理に地面に付き、身を起こした。
虜になるのが防げたのは、緋陽自身がその術を使えるからに他ならない。
身を起こす、それだけの作業でも、やけにその音が耳につく。
サンジがゆっくりと、緋陽に向かって振り向いた。
逆光になっていて、緋陽からはその表情が見えない。
す、と小太刀を握っていない方の右手が緋陽の方に延びてくる。
酷く滑らかなその動き。
その指先を、黙ったまま見つめる。
動け!避けろ。
仮面を拾え。――――素顔が晒されている!
………その命令に、身体は全く従ってくれない。
――――――――コワイ。
緋陽はその短い数瞬の間に、そう考えた。
私は恐怖を感じている。
「これ」は、違う。
私の知っているモノではない。
サンジの指先が、緋陽に触れようとした瞬間。
唐突に、その距離が開いた。
「――――――っ緋陽に近づくな!!」
サンジが砂の上に引き倒されたのだ。
ルフィは、一瞬でサンジの上に馬乗りになり、ナイフを首もとにつき付けた。
誰もが魅縛されている中、そこまで行動できたのは称賛に値する。
ルフィも混乱していた。
何故サンジがここにいるのか、何故緋陽をかばったのか、―――何故ゾロを斬ったのか。
しかしルフィの本能はそんな疑問を全てキャンセルして、「異物」の排除を命令した。そんな行動に気付いたときには、いつも愕然としたものだ。
―――――かつては。
ルフィは余計な思考を排除した。
この男が何であろうが………関係ない。
もし緋陽に害をなすのなら――――このナイフを、動かさなければいけない。
動かさなければ。
ルフィは唇を噛んだ。
何故、こんなところに来たのだ。
何故、こんな事をするのだ。
「あのまま―――あの場所で、こんな世界とは無関係に生きていればよかったのに……」
ルフィの唇がそう動いた。
ルフィはナイフを無意識に握り直した。
また余計なことを考えて、いた。
そして、サンジは、全く無感動にルフィを見上げた。
ただ見た。
それだけ。
その口元にはいまだに微笑みが浮かび、何の抵抗もない。ルフィは、夢を見ているのだと半ば本気で思った。
サンジじゃない。よく似た別人だと。
お前は、誰だ?
そう思わせるくらいの、無機な青灰色の瞳。
サンジの唇がゆっくりと開いた。
………何故こんな世界に来たかって?
それは違うよ、ルフィ。
あの世界の方が俺とは関係なかったんだ。
「―――――さがれ。犬」
ルフィの身体が、びくりと震える。
「……お前、何者だ」
かすれた声が喉から絞り出された。
サンジがゆっくりと体を起こす。
それに押されるように、ルフィはナイフを引いた。
下がれ、といわれた途端、本能が震えたのがわかる。
「ま、さか……………」
「――――緋陽の護衛、ご苦労。お前が時間を稼いでくれなければ、危ないところだったよ」
サンジが、全く普段通りにそう言った。
その何気なさが、また何かをルフィの背筋に滑り落とす。
「………『狼』は一人もいないのか?緋陽の護衛は本来、犬の役割ではないだろ」
「お前は…………!」
「近くにいるか?お前が直接知っているのは、コーザか。今何処にいる?呼んでこい」
ルフィは呆然と、サンジを見下ろした。
まさか。
だって。
あの――――サンジは?
『エリカ』にいたのは?
誰だったんだ?
「嘘だ………」
「…………まだ信じられないか?じゃあ」
そう言うがはやいか、サンジは地面に座ったままで左手の小太刀を振り上げた。
それは真っ直ぐにルフィの心臓を狙っている。
――――――敵。
ルフィは反射的に、ナイフを突き出していた。
サンジの左手首へと牙が食い込む――――筈なのに。
ルフィの手は凍り付いたように止まった。
いつかと同じように。
紙一重の位置で、固定されている。
サンジは、ルフィの心臓の上に小太刀押し当てて言った。
「―――こんな風にされても」
「……………………」
「斬れないのは何故だ?」
斬らないのではない。斬れない。
―――唐突に理解した。
ルフィは、彼を斬れるようには出来ていないのだ。
では、あの時も。
あの路地裏で、手が止まったのは。
刺す気だった。刺せると思った。
しかし、手は強制的に止まったのだ。
「コーザが……『狼』が、俺に何かしたんだと思ってた」
「狼に、そんな機能はない」
サンジは小太刀を引いた。
そして小さく溜息を吐く。
「犬は俺の顔を知るべきではない―――本当なら俺は、俺を知ったお前を殺さなくてはならない。ここにいる、緋陽以外の全員を」
「―――だが、そんなことはしたくないな。だから」
「今からお前は、『狼』になれ。―――それなら平気だから」
その言葉と同時。
ルフィは、自分の中の何かがうごめくのを感じた。
「あ………………」
サンジは、立ち上がり、ルフィの首もとに手を伸ばす。
そこにかかったペンダントを、引きちぎった。
ぽとりと、砂の上に牙が落ちる。
そして、血に濡れた小太刀をルフィの顔に振り下ろす。
ぴ、と赤い筋が額に走った。
そこから流れ落ちた赤い液体を、サンジは指で拭う。
赤い舌を出してその血を舐め取る。
「………………」
ルフィの手からナイフが落ちた。
今から自分は、剣を握るのだ。
サンジはルフィの横を通り過ぎると、ようやく立ち上がった緋陽の前に進み出た。
かぶりなおした仮面の奧に隠れた目を、じっと見つめて。
優雅な動作で彼女の手を取る。
「初めまして―――貴女の『鴉』です」
そして誓いの口付けを。
+++ +++ +++
サンジは、緋陽の手を開かせると、彼の小太刀を握らせた。
「さあ、我が主」
緋陽の上から、一緒に手を重ねる。
緋陽の身体が震えた。
青灰色の眼差しが、彼方を見据え、空気を震わせる。
「我らの敵を、滅ぼしましょう」
さんっ
小太刀が、砂に突き立った。
一本の線を引かれたように。
丁度、北軍と南軍の境で。
致命的な暴風は、けしてその線を越えず。
静かに。
瞬く間に。
砂と岩が、人を覆い尽くした。
それでも、未だ彼等は囚われたままだった。
そして。
サンジは、遮る物のなくなったその場所へ足を踏み出す。
ゾロの躰の横を通り過ぎたが。
彼は振り返りもしなかった。
+++ +++ +++