酷。




 目の前が赤い。
 体が火のように熱い。
 鼓動が不規則で、突き上げられるように心臓が跳ねる。

 まだ、終わりではないと思っていたのに。

 がくがくと震える指先。
 のどの奥で業火が燃えている。

「かはっ、ぐっ………がふっ」

 手のひらにびしゃびしゃと溢れる鮮血。
 平衡感覚も危うい。
 緋陽は震える手で馬のたてがみにすがりついた。

 術の反動を受け止めきれなかった。
 絶望にまわりの景色が歪む。

 まわりの音は全て遠かったが、激しい剣戟と喚声だけは確認できた。
 衝突だ。
 あと数秒もせずに切り倒されるであろう事は覚悟し、それでも諦めることは出来ない。
 自分が死んだら。
 誰がこの国を守れるというのだ?

 ああ、こんな思考が北側の人間に知れたら、八つ裂きにされるだけでは済むまい。侵略者はこちら側なのだから、お門違いもいいところである。

 緋陽は表情だけで自嘲した。
 ふがいない。
 何のために自分はここにいる?

「……………………かはっ」

 何故かいつまで経っても来ない衝撃。
 やっとの事で呼吸を整え、霞む視界を通して頭を上げる。
 緋陽の少し手前で、そう、十メートルもない距離で北軍と南軍が激突しようとしていた。
 その中心では、緑の髪の剣士と、黒髪の少年兵が闘っている。
 並みの人間では止めに入れないような速度で、刀とナイフが行き交っていた。
 南軍の兵達は、突撃してくる北軍から緋陽を守ろうと、壁のように立ちはだかっていた。彼等は、緋陽に声をかけようとも、手を触れようともしない。畏れ多くて、とてもそんなことは出来るものではない。
 そして。
 次の瞬間には、北軍と南軍はお互い剣の届く範囲まで近づいていた。

「………………!!」

 緋陽は叫びだしたい気分だった。
 せめて、逃げて欲しかった。

 ―――もう、こうなってしまったらこの戦には勝てない。

 南軍の兵は戦に耐えられるようには出来ていないのだから。

 思うように動かない自分の身体に殺意を覚えた。
 食道から上がってくる灼けるような痛みは、心のそれに比べたらまだ軽い。



+++ +++ +++



「ルフィ!退け!」
「どかねェ…………!」

 ルフィの身体は大小様々な切り傷で覆われていた。
 所詮、ナイフと刀では届く距離が違う。しかもゾロは三刀流だ。とっくの昔に斬り倒されていないのは、賞賛に値する。
 ルフィを斬り殺すことが出来ず、ゾロの動きが鈍いのも理由の一つだろう。
 ゾロはルフィをどうにかして戦闘不能にしようとしていたが、その凄まじい気迫がそれを阻止していた。
 黒い瞳がぎらぎらと輝いている。

「絶対、どかねェ!!」

 かぁん!

 鋭い音を立てて、ゾロの喉を狙ったナイフが弾かれた。
 その反動で少し体勢を崩したルフィの後ろから、南軍の誰かが射損じたのだろう、流れ矢が飛んでくるのをゾロは目にした。

「ルフィ!」

 たった今闘っている相手に向かって妙な話だが、ゾロは忠告の響きを込めてルフィの名を呼んだ。そんなことをせずともルフィならわかっているだろうが、せずにおれない。
 ゾロは、次の瞬間後ろ手に矢を叩き落とすルフィを想像した。
 そして、その隙に彼の鳩尾を狙って突き出される自分の刀の柄も。

 どすっ

「っ!?」

 ルフィは何故か、避けなかった。
 その左の肩口に深々とやじりが食い込む。

 ルフィは驚愕に目を見開き、呆然とどこかを見つめている。

 ―――矢があたったことによるショックではない。そんなことではこの男は動かされまい。
 ゾロは思考の外で、本能的にそう判断した。
 そしてゾロの中の冷静な部分が彼の背中を押す。

 原因を考える必要はない―――今なら緋陽の所まで進める。

 ゾロは迷わなかった。
 一瞬も停滞せずに、ルフィの横をすり抜ける。
 やっと。
 やっとこの戦も終わる。
 緋陽までの十メートルほどの間に、何人の兵士がいただろうか。
 ゾロはその全てを一瞬で吹き飛ばした。
 コマ送りのように、全ての瞬間がゆっくりと感じられる。
 ルフィの気配が復活するのがわかった。だがもう遅い。

 ゾロはその勢いのまま刀を振り下ろした。
 ルフィの絶叫が聞こえる。

 ――――終わりだ。

 びゅっ

 しかし、緋陽の首を薙いで血をしぶかせる筈のその一撃は、空を切った。
 緋陽がかわしたわけではない。ただ単に―――馬から落ちたのだ。

 何処までも悪運が強いようだが、逃がしはしない。

 すぐさま刀を返してその首を追う。
 コマ送りの映像の中で、落下途中の緋陽の、豹の頭が取れた。


 ぱっ、と鮮やかな色の髪が広がる。
 太陽色、との噂の通りの、激しい色。砂と炎の間のような色。
 血に汚れた口元。
 金茶色の瞳。
 コンマ何秒かの瞬間に、ゾロの目が緋陽の素顔を捉えた。


 女だった。
 しかも、まだ20にもなっていないだろう年齢の。


 驚愕。
 しかし刀は少しも勢いを落とさなかった。
 女だからと言って容赦はしない。
 この女こそ、全ての原因なのだ。

 かち、かち、かち、と、瞬間と瞬間がやけにはっきりとわかる。
 まわりの世界は、凍ったように動かない。ゾロだけがその中を自由に動ける。
 後一秒もせずに、この戦いは終わる。

 音の聞こえなくなった世界で、ゾロの刀がゆっくりと進む。


 そして。









 唐突に視界を遮るのは。







 もう見慣れた、金の色。

















 ―――――――――――何故?















 赤い飛沫が、宙を舞う。























 ゾロの刀が、サンジの左肩を浅く切り裂いた。
 浅く、で済んだのは、ひとえに尋常でないゾロの技量と精神力の仕業に他ならない。強制的に刀を止めた凄まじい反動に、ゾロの骨が軋んだ。





 唐突に、世界に音が戻った。

 時間が元通りに流れ始めた。


 しかし、ゾロの身体は動かなかった。
 事態が理解できていなかったのだ。
 先程とは逆。凍ったように動かないのは、まわりではなくゾロ。


 そして。現実は彼に容赦をしなかった。






 サンジは少しの動揺もみせずに、滑らかな動作で左手をあげた。

 そこに握られていたのは、ゾロが与えた小太刀。








 酷く綺麗に振り下ろされる。










 誰もが、その軌跡に見とれた。


 ゾロの胸に、斜めに赤い筋が走る。
 一瞬の後、驚くほど多量に血が吹き出た。


 視界が真っ赤に染まる。
 溢れ出る鮮血。


 赤。赤。赤。赤。赤。


 ――――北の魔獣は、自分がつくった赤い池の中へと沈んだ。






 その目は呆然と見開かれたままで。





        再。 魔。 NOVEL