狼。




 サンジの身体が崩れ落ちるかと思った瞬間。


「止まれ」



 夜の闇より静かな声が、ゾロの叫びの間を縫って響いた。
 少し、ほんの少しとどめるような響きを持ったその声は、魔法のようにルフィの動きをぴたりと止める。
 刹那の時間。

 凍り付いたように、音すら立てずに。
 慣性まで、殺して。

 魔法。本当に、そんな風にゾロは感じた。
 激しい動が、スイッチを切り替えたように静に変わる。
 そして、その切り替えは男の声によって行われたのだ。
 凍り付いたように動かない、ルフィの腕。

 1センチか、それ以下。

 サンジの喉と、ルフィのナイフの切っ先との間の距離は、それだけだった。



+++ +++ +++



 サンジが、ようやく現状を理解したようにピクリと身体を震わせる。
 その動きですら、喉に傷を付けそうなくらいの至近距離。
 ルフィは、漆黒の瞳でサンジを見つめている。
 そこには、既に何もなくなっていた。

 とん、とサンジの肩に男の手が乗る。
 それ程力を込めたとも思えないが、流されるようにサンジはゾロの方へ押しやられた。ゾロはサンジの襟首を掴んで下がらせると、事態を見極めようと男の言動を見守る。

 ルフィと向かい合う、男。
 途端、彫像のように固まっていたルフィの腕が、ゆるゆると動いてだらりと垂れ下がった。

 ゾロは、ルフィの気配が酷く動揺していることに気がついた。
 原因は、今の声。
 今更のように鼓動を打ち出した心臓に、大きく溜息を吐きかけてそれを飲み込む。自分も、まだ動揺している。
 サンジは、どうしたらいいのかわからないでいるようだ。無理もない。自分ですら、何をしたらいいのかわからない雰囲気。
 止まったような、奇妙な空間がそこにあった。
 この男は、何だ?
 何が起こっても、今度こそ対処できるように気を張る。
 一番の安全策と言えば、ここでサンジを逃がして自分も逃げることだが、それは何の解決にもならない。
 男とルフィは、もはやこちらのことなど完全に眼中にないようだ。
 ルフィは、訳がわからないといった様子で呟いた。

「―――――何で止めるんだ?コーザ………俺、ちゃんと出来るぞ?」

 コーザと呼ばれたその男は、ゾロとサンジの方を見遣った。
 そして、ゆっくりと一回首を振る。

「無駄なことだ」
「無駄?」

 意味がわかりかねるのだろう、ルフィが問いつめるようにコーザへ一歩近寄る。

「どういうことだ」

 その言葉を返したのは、ルフィではなくゾロだった。
 コーザが、その狼のような厳しい視線をもう一度ゾロに移す。

 ぴりっ、と一瞬、視線が火花を散らした。

 どうやら、このコーザも南の人間だ。それも、おそらくルフィより上位の。
 今度は、対処できるようにではなく、いつでも斬りかかれるように気を張る。
 コーザの腰には、長刀が下がっている。抜く気配はないが、それも確実ではない。事態がまったくわからない以上、気は抜けなかった。

「…………………」

 す、とコーザが視線を逸らした。
 どくり。
 ゾロの心臓が、ひきつったように絞られる。
 目の前が急にふさがれたような気分。

 何故だ?
 たった今、この男の瞳に微かによぎった感情は―――?

 自分の目が確かならば。
 蔑みではなかった。敵意ではなかった。



 ―――それは、哀れみではなかったか?



 何に対しての?
 誰に対しての?
 喉が圧迫される。
 きっと、何か良くないことが起こる。
 ゾロの本能が、痛いほどそう告げていた。
 指先が痺れている。




「………退却だ」

 コーザはルフィにそう言って、返事を待たずにきびすを返した。

「え?」

 ルフィは虚を突かれたように、コーザとゾロ達を交互に見る。
 すたすたと歩みを止めずに去っていくコーザに、思わずその後を追おうと走りかけ――そして、一度だけ、ちらりと後を振り返った。

 ゾロは、動けなかった。
 何か、きっと致命的なことが起こると、鬱陶しいくらい確実に予想できた。
 叫びだしたい気分だ。
 頭をかきむしって手当たり次第に誰かを締め上げて、「何がどうなっている」と120回くらい訊きたい。そう、こんな時こそエースがいれば―――

「ぐえ」

 後ろから伸びてきた手に襟首を掴まれて、ゾロはようやく我に返った。

「何がどうなってやがんだ、クソ剣士!」

 脳の情報整理作業がようやく終わったのか、青灰色の瞳が凶悪に眇められている。
 そんなことは、自分の方が聞き返したいというのに。



+++ +++ +++



「―――どういうコトだよ、コーザ」

 ルフィは先を歩くコーザに追いすがった。
 コーザは、振り返らない。

「何で止めたんだ。無駄ってどういうコトだ?」
「…………声が大きいぞ」
「答えろよ!」

 ルフィはコーザの肩を掴んだ。二人の歩みが止まる。

「――――俺のせいか?」

 ルフィがぽつりと呟いた。
 沈んだ、固い声で。
 そして、その返事を恐れるように矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

「俺が、出来ないと思ったのか?」
「顔見知りだからか?」
「違うよな、俺はちゃんと出来てた………なら」



「―――俺が『辛い』って感じると、思ったのか?」



 コーザの肩を掴む手に、ぎゅっと力がこもる。
 その手を見下ろして、コーザは静かに言った。



「―――もう、この国での任務は終了させる」


 ルフィの顔から表情が消えた。

「緋陽の元に、帰還するんだ」
「………………」

 それは、一つの事実を示していた。
 この戦に負けられない以上、降伏はあり得ない。

「人手が足りない―――総力戦の、準備に入る」

 ルフィは、コーザの肩から手を外した。
 立ち止まったままのコーザを追い抜き、歩き始める。
 コーザも静かに、歩き出した。

 ふたつの影は月明かりを避けるように、姿を消した。



+++ +++ +++



 深夜、『エリカ』のカウンター。
 ゾロから大体の事情を聞き終わったサンジは、煙草を灰皿に押しつけ、深々と息を吐いた。
 今までの説明の間に、何故か喧嘩になったり、暗くなったり、怒鳴り合いになったり、重くなったりもしたのだが、ようやく気持ちの整理もついたようだ。
 ゾロも、サンジに説明しながら自分の感情をまとめようとしていた。

「―――多分、もうこの街でルフィに会えることはない」
「………………」
「今度会うときは―――戦場だ」

 サンジはそれを聞き、顔をあげると静かに口を開いた。
 ゾロも、サンジが言うであろうその台詞を既に知っている。


「――――斬るのか、ゾロ」


 それは、斬るのか、と共に、斬れるのか、が含まれた問いだった。
 しばらくの重い沈黙の後、答えようとしたゾロをサンジは自分で遮った。

「いい。言うなよ。自分で答えがわかってるなら―――構わない」

 サンジの心境が、ゾロには読めなかった。
 怒っているようでもあるし、悲しんでいるようでもある。それか、何か別の感情があるようにも。
 読めないことばかりだ。
 ゾロはこめかみに手を当てた。
 頭脳労働など、自分には要らなかった筈なのに。
 刀を振って、鞘に収める。それだけ考えていれば楽だったのだ。

「………なあ。追いつめるな、って、どんな意味だと思う」
「あ?」
「追いつめるな、って言ったんだ、あいつ………」

 サンジは、目を細めた。

「…………考えるな」
「……何故」
「きっと………わかって欲しいとは、思ってない」
「何でそんな事がわかる?お前には何かわかるのか……?」
「お前と違って、脳が筋肉じゃないからな」

 曖昧に茶化され、ゾロは答えを諦めた。
 そんなゾロに、サンジは軽い調子で言葉を追加する。

「おい、寝るなよクソ剣士」
「寝てネェ」
「これは相談、っつか、決定事項なんだけどな」
「何がだ」



「今度の戦、俺も連れてけ」



 ああ、また俺の悩みを増やすのか。お前は。
 これ以上何も考えたくなくて、ゾロは瞼を閉じた。




        断。 刀。 NOVEL