犬。




 熱を失った生温い液体は、モノトーンの世界に無用な彩りを添えているだけで、その他には何の役にも立たなかった。むしろ、頬に張り付くその感触は不快ですらある。錆の臭いも。
 気配に気付かなかった自分に舌打ちでもしたい気分で、それでもあの男相手なら無理はないかと考え直す。
 こうなるまでにはもう少し、時間があるはずだった。ただし、遅かれ早かれこうなっていたと考えるなら、それほど問題のあることでもない。
 犬は後悔など覚えない。もとからそんな機能など備わっていない。
 そう、いつかはこうなるはずだったのだ。それが今であるだけ。
 むしろ、幸運だったのかも知れない。これは何かを吹っ切るきっかけになる。
 意外なほど、動揺は少なかった。
 いや、そうではない。動揺などない。そういうものなのだ。
 全てが『仕方がない』で片付けられる。なんて幸運。
 ただ、相手にとってはやはりそうではないのだろう。動揺が、手に取るようにわかる。

 ――――つまり、決定的に甘いのだ。彼に限らず、大抵の人間は全て。

 これも幸運の一つだ。自分は相手のことも自分のことも、その間の関係もしなくてはならないことも、全て理解している。向こうはそうではない。いや、わかっていても受け入れることはない。
 結局は、それが犬と人間との差なのだろう。
 自分が何者か、相手が何者か、それがわかってなお迷ったり悩んだりするという高等な技術を自分は持ち得ない。

 半年と、少し。以外と長い付き合いだった。

 ゆっくりと顔を持ち上げた。目に入るのは、傑作な表情に違いない。
 首もとにぶら下げられた牙が、しゃらりと鳴った。

「ルフィ…………」

 しわがれた声だった。まさに、勝手に口から滑り出た言葉だろう。
 自分を呼んでいるわけではない。


 そこで、思考が切り替わった。


 ―――ああ。ついにこの時が、来てしまったのだと。
 自分の中に湧いた感情は、いったい何なのか。



 たったの半年。それだけだったのだ。
 こんな単純なことで、全ては終わる。




+++ +++ +++




 ぼんやりと見えるその顔の、目だけが輝いていた。
 真っ直ぐに見返してくるその黒い目は、いつもの彼と同じようで、しかし何処か決定的に違っているようで、そんなことも実は見抜けないのだと、頭の後ろで誰かが嗤っていた。

 ―――麦わら帽子をかぶっていないことに、今、気付いた。

「ルフィ」

 それは彼なのだと、それが彼なのだと、今更ながらにようやく理解する。
 何でもないことのように、あっけらかんとルフィが言う。

「見られちまった」

 ナイフに付いた血も拭わないまま、ルフィはそれをゾロに向けた。
 牙の形を模したナイフ。
 苦笑のような、嘲笑のような奇妙な笑顔で、ゾロを見据える。

「ゴメンな。俺、騙してたんだ」

 貫くような殺気。
 対象を通り越して、別の物を殺すのだ。
 自分のそれと酷く類似しているような気がする。
 たっ、と地面を蹴る音は、酷く軽かった。

きぃん!

 反射的に半分抜いた刀に、ナイフが当たって弾かれる。
 心臓の、真上。
 気を抜いたら、殺られる。

「何で、お前が………!」

 こんな陳腐な台詞しか出てこない。
 ゾロは歯を食いしばった。

 ルフィは自分を殺す気だ。
 すらりと、一本だけ刀を抜く。
 刃を返し、峰の方を向けたゾロに、ルフィがからからと笑った。

「バカだなゾロ。死にたいのか?」
「…………………」
「ナメんな」

 しゅ、とほとんど視認不可能な速度で銀光が走った。
 ぎんっ、とそれを刀で受け止めたのはいいが、直後至近距離で密着した身体に、予想しなかった衝撃が響いた。

「ぐっ!?」

 ルフィの拳が、腹に埋まっている。
 無意識下の動作で、どうやら後ろへ飛んでいたらしく威力を殺すことが出来たが、そうでなければ終わっていた。
 ひゅ、と風を切る音。
 ゾロは反射的に左腕で脇をかばった。

 がっ

 死角から飛んできたルフィの右のつま先が、ゾロの左腕を抉る。
 ナイフに、体術を織り交ぜている。
 ―――手加減が、出来る相手ではない!

 ゾロは、無言で雪走を抜いた。
 ルフィは、よくできました、というように頷いて見せた。






 はっきり言って、ゾロは不利だった。
 狭い空間、しかも近接戦で扱う武器としては、ナイフ、もしくはメリケンサックなど、軽くて邪魔にならない物が最適である。ここでは思い切り刀を振り回すこともできない。そうでなくとも、ルフィの接近戦のセンスは驚くほど高かった。ゾロの身体には、既にいくつかの切り傷が出来ている。打撲も。
 とびすさろうとしても、密着するようについてきて間合いを取らせない。

 このままでは、終わりが見えている。
 ルフィの攻撃をずっと防ぎ続けることは不可能だし、もしそれが出来たとしても、こちらがルフィを戦闘不能に――つまり、殺すか手を切り落とすか、鳩尾を突くかして――しない限り、ゾロの勝利はない。
 もう一つ、手段がある。
 説得だ。
 ―――しかし、そのどちらも成功する確率は低い。ゾロは素直にそれを認めた。

 ルフィは、本気でゾロを殺す気だ。ゾロにはそれがわかっていた。
 こちらも殺す気でかからなければ、止められない。
 殺す気で――――

(ルフィ……)

 暗殺者。

 これはあの少年ではない。
 いつもサンジにまとわりついて飯をねだっていたあの少年ではない。
 誰にでもわけへだてなく天真爛漫な笑顔を見せるあの少年ではない。
 城壁補強のバイト、「俺、サンジの護衛だからな!」、無知と紙一重の無邪気。
 太陽のような笑顔。
 建前のない素直な強さ。

 暗殺者。

『腹減ったー!メシ!』
『俺の名前はメシじゃネェっ!』
『じゃあ、サンジ』
『…………じゃあ、って何だこの四次元胃袋っ!』
『メシー!』
『テメェは一人で食い過ぎなんだよっ!断食修行でもしろっ』
『わかった!メシ!』
『わかってネェーーーーーーーっ!!』

 暗殺者。


 あの少年では、ない。










 ――――んなわきゃ、ネェだろうが!



「ルフィっ!」

 やっぱり、ダメだ。

 コイツは、ルフィだ。



 ルフィの目が、眇められた。
 ゾロの心情の変化を読みとったのだろう。




「追い詰めるなよ、ゾロ」




 その言葉の意味が分かったのは、もっとずっと後のこと。




        緋。 断。 NOVEL