緋。




 ぼんやりと、手のひらを見つめる。
 紅く染まった、手。
 誰の血だろうか、これは。

 ――――くだらないことを、考えている。

「………………!」

 激しい発作が全身を襲い、痛みが身体を縛る。
 『緋陽』は身体を九の字に折って、激しく咳き込んだ。
 ただし、声は出さずに。
 べっとりと、新しく手のひらに付着した血を、さして感慨もなく眺める。
 どうせ全身どこもかしこも赤い。同じ事だ。
 唇の端から垂れた血を、拭う。
 いつもよりも酷い症状だった。
 ――――力を使い過ぎた為だとわかっている。
 『緋陽』は強く唇を噛んだ。

「………………」

 自分がついていながら………この前の戦では、自軍にかなりの被害が出た。
 奇襲に、気がついていれば………遠くからの一撃で、事は済んだ筈。しかし、突然走り込んできた北軍と、自軍の兵が混ざり合い、躊躇してしまった。
 自分がこんなざまではいけない……この国を守るのは、自分以外にない。
 誰にも頼れない。

「!…………っ!」

 再び襲ってきた痛みに、全身が痙攣する。
 声を出さないよう、片手で口を塞ぐ。

(身体が………もうすぐ、壊れる)

 自分は戦場へ戻らなければいけない。
 術を使う代償は、自分の生命力………精神力。
 『緋陽』としての力は、諸刃の剣。

 緋陽は、脇に置いてあった豹の頭を取り上げた。
 これはシンボル。特別な王――『緋陽』。
 緋陽は人に顔を見せない。
 緋陽は声を出さない。
 緋陽は、南の神秘。

 ――――だから、誰も緋陽が入れ替わっているのに気付かない。

 先代の跡を継いだのは、つい二ヶ月半ほど前のこと。
 死の直前、ベッドの側に呼ばれ、緋陽の力を受け継いだ。

 先代は、衰弱死した。

 戦が始まって、三ヶ月目。力の行使も限界だった。
 誰もが緋陽を頼っている。
 緋陽は、国のシンボル。
 軽々と、手足のように砂と風とを支配し、永久に君臨する――そのからくりは、命と引き替えに。

 緋陽は、悩んでいた。

 もう、これ以上術を使い続ければ死は避けられない。そのこと自体は別に構わないのだが、緋陽には子供が居なかった。
 自分が死んだ後、『緋陽』を継げる力を持つ者がいないのだ。
 つまり、死ねない。
 しかし力が必要なのだ。北を滅ぼす力が。
 それには自分が戦に出るしかない………。
 タイムリミットが、迫ってくる………自分が死ぬ前に、見付けなければ。

「『鴉』……………」

 緋陽は空気を震わせずに、唇だけで言葉を綴った。
 鴉。
 今の自分に必要なもの。今の自分の僅かな可能性。
 伝説では、緋陽の使い魔の最高位とされている。
 先代が、死の苦しみの中で自分に伝えた言葉。
 震える指先が自分の額に届き、術を使うための力が自分にそそぎ込まれたその時。
 死を覚悟する自分に、先代は微笑んで言った。

『―――お前は死なないよ』
『…………………』
『私の『鴉』をあげる。お前の知らない時間。お前の知らない場所。お前の知らない理由で、鴉はお前を守る』
『…………………』
『『鴉』はお前を守る………』

 それが、最期の言葉だった。
 ――鴉。鴉とはいったい何なのだろう。
 兵器か。人か。秘術か。物か。それとも本当に――使い魔と称されるような化け鴉がいるのか。
守る、と言ったが、緋陽には全く覚えがない。
 鴉は実在するのだろうか。先代の言葉を嘘とは思わないが、この切迫した状況においても、『鴉』に該当しそうな物は現れない。
 緋陽は豹のマスクを裏返し、指を辿らせた。
 裏地にびっしりと細かい文字で書かれているのは、南の歴史。緋陽の歴史。
 鴉に関する手がかりを探して、何度も読んだ。
 わかった事は少ない………『第一の使い魔』であるという事。国の危機に現れ、緋陽を助けるという事。そして、そうでない限りは現れないという事。
 歴代の緋陽の中でも、『鴉』を使えた者は数える程しか居なかった。
 今は国の危機ではないのだろうか。
 それとも自分には、『鴉』を知る資格がない………?


 緋陽は、爪を噛んだ。
 緋色の液体が少し滲んだ。


 ―――次の戦の準備を。

 遠くで、誰かの泣き声が聞こえる………





+++ +++ +++





 ゾロとエースが都に帰還してから、数日が経過した。
 数日しか経過していない。

「じゃ、行ってくるな」

 エースはそう言って、愛用の剣を鞘に収めた。
 緋陽が率いる軍ではないが、南軍に攻められ街が一つ陥落したらしい。
 そこを奪い返すようにとの命がエースの隊に下ったのだ。

「何でテメェが………」
「そう言うなって。オマエんトコよりは、被害も少なかったんだ。それに、他の隊も手一杯だってわかってるだろ」

 国境付近で乱発する小競り合いに、隊のほとんどは出払っている。
 それにしたって、という台詞をゾロは飲み込んだ。
 王とて、好きでこのような命令をするわけではない。危ない戦というわけでもない。

「…………気を付けろよ」
「誰に言ってんだよ。あ、サンジによろしくいっといてくれ。挨拶してく時間ねェんだ」
「ああ、わかった」
「そんじゃ、留守番よろしくな。心おきなく筋肉育成に励んでくれ」
「………アンタ、言うことがあの野郎に似てきてねェか?」

 エースは苦笑すると、くるりと身を翻して廊下を歩いていった。
 その背を黙って見送り、ゾロもきびすを返す。
 自分も、また次の戦のために鍛えなければ。
 ―――明日から、隊の練習量を増やすことにする。
 今日はもう自室で寝るつもりだったが、気が変わった。街に出よう。

 ゾロやエースは、宮殿に自室を持っている。
 ほとんどの将軍や高官は、都に自宅を持っているのだが、まだ所帯を持つような歳でもないし、何より行き来が面倒臭いので一部屋貰っているのである。部下達は、もちろん家庭があるのでそこに帰っていく。
 ゾロはいったん自室に戻り、身軽な服装に着替えると、これだけはいつも身体から離さない三本の刀を携え王宮を出た。





+++ +++ +++





 日が落ちると、街は途端に人通りが少なくなる。
 まだ深夜というわけではないが、そろそろ寝る人間も出てくるのではないかという時間帯。
 日中は下手に歩けば必ず誰かの肩を引っかける大通りも、すいすいと通りやすくなる。
 ゾロは『エリカ』を目指していた。下手に知らない場所へ行こうとした場合戻れなくなる危険性があるので、ゾロは一人で街に出るときの目的地ははほとんどエリカだった。ルフィもいるだろうし、サンジに伝言も伝えられる。

「っ!?」

 通りを一つ越えれば到着、というところまでさしかかったゾロの首筋に、ちりっとした感覚が走った。
 思わず刀に手を掛ける。

(気のせいか…………?)

 僅かに、ほんの僅かにだが、不穏な気配を感じた。
 殺気、かどうかはわからないが、嫌な気配だ。
 自分に向けられたものではない。それならばもっとはっきりしたことがわかる。
 本当に微々たる感覚だったので自信はないが、悪い予感がする。
 ゾロはゆっくりと辺りを見回した。
 気配がしてきた方向には、細い路地が口を開けていた。

「…………怪しいな」

 念のため、大通りを逸れてその中に首を突っ込んだ。

(これは…………)

 微かだが、血の臭いがする。ゾロは自分の気配を抑えた。
 ………何か物騒なことが起こっているのは間違いない。
 路地の中には闇がわだかまっている。
 ゾロは大通りの人間に目を走らせた。誰も、ゾロに注目はしていない。
 何気ない様子で、路地に踏み込む。呼吸と足音は殺した。

 路地は、数十メートルほど先で右に折れている。まわりの建物は塀に囲まれていて、灯りすら漏れてこない。
 ゾロは足早に進むと、壁を背にして曲がり角の奧を覗き込んだ。もちろん気配は消したまま。血の臭いは、はっきりと漂っている。

「!」

 路地の奧には、一人の男が立っていた。ゾロからの距離は三十メートル程か。反対方向を向いているため、顔は見えない。

 ――その背中から、月明かりを浴びて鈍く光るものが生えている。


 ぽたり、と白銀の先端から赤い雫が落ちる。
 ゆっくりと、体内に沈んでいくように見える刃先。
 それが完全に見えなくなったところで、男は地面に崩れ落ちた。
 その顔には、見覚えがある。
 王宮でよくすれ違う文官だ。しかしそんなことよりも――

 地面に伏した男の向こうに立っていたのは。

 驚きに、ゾロの表情が凍った。





 片手に持った、奇妙な形のナイフ。
 もはや動かない命の入れ物を見下ろす冷たい目。
 その頬にも、返り血が飛んでいる。


 月明かりに照らされたその姿は。


「お前………!」

 思わずゾロはそう口走った。
 気配を殺すことも忘れ、反射的に死角から足を踏み出してしまう。
 頭を殴られたような衝撃、というのはこういうことだったのかと、知る。

 心臓が、やけに大きく一回鳴った。



「……………………」



 ゾロが我に返る間もなく………暗殺者はゆっくりと顔をあげた。




       噂。 犬。 NOVEL