貴族にとって、社交の場を設けることは、呼吸と同じく「当たり前」のことである。
生産階級ではないのだから、消費階級でなければならない。

貴族は宴を開き、王は戦争をする。どちらも一大消費活動である。
クルガンは戦争のほうには馴れていたが、宴のほうはそうでもなかった。人の多いところはあまり好きではない。
行儀作法、社交儀礼、形だけ学んではいるし、誰もがそれに欺かれてくれるが、クルガン自身は、それが全て偽りであることを知っていた。「貴族的」である──いくらそう言われても、クルガンは貴族ではなかったし、貴族になろうとしたわけでもない。

ただ、人に追いつこうとしただけだった。

「────」

楽の音が夜の闇を滑るように満たし、広間に設えられたテーブルの上には、数える気もおきないほどの種類の料理が並べられている。皆、食べて、飲み、踊ってからまた食べ、飲み、話してからまた食べ、飲んだ。
飽きるまで、いや、飽きても、そうしなければならない。貴族の宴は長い──三日三晩続けることも珍しくない。

貴族の消費を責める声もある。だが、彼らの食欲(あるいは、儀礼欲とでもいえばいいのか?)が全く失われれば、富の再分配は行われない。要と不要は、食べられる食べられないよりもひどく難しい線引きで、皆、よく判断していられるものだと思う。
翻るドレスの房飾りや、煌くシャンデリアの灯りが、人間の活動の複雑さというものを伝えようとしてくるが、クルガンには難しかった。

だからクルガンは、明白に不可欠であるものしか求めない。
ほかは、わからないのだ。

「────」

最上段に設えられた特別な席から、既にルカは姿を消していた。
彼に対して捧げられた宴など、ルカ自身にとっては嫌悪するだけのものなのだろう。消費は専ら、捧げられる側ではなく、捧げる側にとって重要なようだった。

舞踏の誘いを失礼にならないように断ってから、形だけ持っていたグラスを置き、クルガンは宴から離れた。