食べられる、と、食べられない。
彼の世界には、そのふたつの違いしかない。



昨日仕掛けておいた罠には、何も掛かっていなかった。壊れていたものは直したが、多分、もう使えないのだろう。違う方法を考えなければならない。
もっと遠くに行くことができればよいのだけれど、彼の手は小さく、また、足は短かった。弱い生き物だ。大型の獣が住まうようなところからは、戻ってこられない。

戻って来られなくともよいのではないか、とたまに感じる事はあった。
けれど、

「────」

寒い、と思う事はある。痛い、と思うことも。そのほかのときは、一日中、食べ物のことばかり考えている。
じゃぶじゃぶと音を立てて細く浅い川を渡った。

林の、薄暗く湿った箇所を覗き込む。大きめの石をひっくり返せば、思ったとおり、太った幼虫が蠢いている。日の光の熱を嫌って逃げ出そうとするそれらをつまみあげ、木の碗の中に投げ込む。あらかた採り尽くすと、次はもうすこし違うところへ行かなければならなかった。

彼の行動範囲は狭い。
その狭い中では、「食べられる」は毎日見回るたびに減っていく。中々、増えることはない。「今の後」のために取っておくというのも難しい話だった。「今」食べないとすれば、おそらくその「後」というものは来ないのだった。いつでも、彼にあるのは「今」だけだった。

枯れていない草を辿るようにしてさ迷い歩く。青い柔らかい芽は見つける端から口に入れた。舌を刺す辛さ、痺れるような苦味は、「食べられる」を感じられるという意味での快楽の証だった。

白い花を見つけた。
影になった斜面の草の緑の中に、すっくりと立つ凛とした姿の花。

「────」

彼は己の肩まである背の高い草を掻き分け、肌を葉のふちで切りながら彼はその白い花の頚に手をかけると、ぐっと絞めながら引き抜いた。
そして、邪魔な部分の茎から上を錆びたナイフで切り離すと、大きな球根を傷付けないように泥を払い、水場に行くのも待ちきれず、黒土の間から顔を覗かす白い衣を重ねたような根を一枚剥いで、口に入れた。果てしなく続く空腹感に、一滴、水を注ぐ。

黄色い花粉が、ざあっと風に乗って散った。
機械的に咀嚼を繰り返す餓鬼の顔に、表情はない。美も無残も解さない。