『寂しがり屋の魔。』








一ヶ月。日付け感覚にうといゾロはきちんと数えてはいないが、ほぼ一ヶ月である。
いい加減しつこ過ぎるのではないか、とゾロは頭を抱えたくなった。

(何かの呪いか。呪いなのか?)

気がおかしくなりそうだ、いや、もうなっているのか。
黒服の男の姿に向かって荷物を投げ付け、実体のなさを知らせるのはもう飽きた。
運ばれてくる食事を、急いで平らげるのももう止めた。どうしたところで、男が物を食べる事はないのだし。

彼の姿は一度として消えたりすることもなく、ゾロが何処に行くにもくっついてきた。
──非常にはっきりとしたしつこい、鬱陶しい『幻覚』だ。そのあたりは流石──

「…………」

ゾロはぷるぷると首を振ると、ゴミバケツの上の猫の鼻先を撫でている男を横目で見た。猫は無反応なのに、男の口元には薄い笑みが浮いている。

いつもそうだ。

大通りを歩くとき、船に乗って移動するとき。男は野菜を売る店の親父に愛想良く話しかけ、胸と唇の大きな若い女を口説いた。
その全員が、完璧に彼を無視した。返答を返さず、視線も合わせず、それどころか、男の体のある空間をすり抜けて移動したりもした。

己を認識しない相手に向かって無駄な値段交渉を続け、ハートを撒き散らし続ける男は間抜けなピエロだ。
勿論、ゾロも、彼の行動に反応を返したりはしない。

男は、背景だけがにぎやかな一人ぼっちの舞台で踊り続ける狂人のようだ。
猫を撫でる、というただそれだけの、本来なら微笑ましいはずの動作が、不愉快なものに感じる。
ゾロは自分の神経は太い方だと思っていたのだが、流石にこうも情けない劇が続き、終わりが見えないとなると、胃がキリキリと痛むような気がした。

『気だけだろ』、と男が口を動かしてわかったようににやりと笑ったので、ゾロは縫い針と糸を買って来て、今まで一度として試したことの無い裁縫に挑戦してみようかと思った。勿論、余計な動きをする口を縫い合わせるのだ。

殺気に、ぶみゃあ、と猫が濁った悲鳴を上げてゴミ箱の上から逃げていった。

「──ロロノア・ゾロだな」

わかりきったことを聞かれても答えなければならない、それが会話というものの面倒なところだ。
ゾロは頷くと、取り囲む海兵に向かってすらりと剣を抜いた。会話はもう充分だ。

船を下りたといっても、賞金首でなくなるわけではない。ゾロは立派な『札付き』で、海軍に捕まれば斬首刑だ。
間抜けなピエロが自己の存在を主張するように(そういえば賞金がかかっていたな、当然ゾロよりは安いが)海兵に向かってぶんぶんと両手を振っていたが、誰もそちらは注視しなかった。

「────」

ゾロが睨んでも退かず、意識を保つ所から見るに、皆それなりの腕利きだろう。能力者が混じっているとしたら厄介だ。

完全に囲まれる前に、ゾロは地を蹴って走り出した。
ぼん、と破裂するような音を立てて発射された鉛玉を抜いた刀で逸らし、海兵の真ん中に斬り込む。

「!」

ゾロの戦いにおいて最も重要なのは、気迫だ。
引いては畳み掛けられる。受身ではいられない。最初の海兵を剣ごとばっさりと両断し、力を見せ付けて相手を気圧す。

ひゅっ

飛ぶ剣閃が一塊の人間を吹き飛ばす。血潮。肉片。生の証を見せ付けて次の瞬間は彼岸。

「……『犀回』!」

前だけ見ていればいい。ゾロは、後ろに目など必要ない。
銃弾がやってきたとて、気配でわかる。今もそうだ。斜め後ろから刃の気配。

しかし、そんなものは──


ふしゅっ


やけに軽い音を立てて、ゾロの肩を刃の切っ先が切り裂いた。
しん、と世界が止まったようにゾロには思えたが、勿論そんな都合のいいことはなかった。反射的に刀を振り上げ、背後に殺到していた敵兵を薙ぎ倒す。

傷は、負うときは痛いが、一度血を噴いてしまえば痺れが残るだけだった。
痛みは問題ではない。問題なのは、斬られた、という事実だ。

「────」

ゾロにはわかっていた。刃の存在も。その軌跡も。
だが、防御しなかった。何より大事な、背の方向からの攻撃を。

──別に、傷を負ってもいいと思っていたわけではない。
そうはならないはずだったのだ。

だって、ゾロの後ろには黒服の、金髪の、

(……ああ、やっちまった)

ゾロは絶望的な気持ちで、とうとう認めた。
無意識のうちに、『そういうつもりで』いたことを。

混戦のなか、男の姿を探すことはゾロはしなかった。
どんな顔でいるのか見てしまえば、こちらこそどんな顔でいたらいいのかわからなくなる。

これはゾロの失態だ。指を差して笑えばいい。笑えばいいが、その顔は見たくない。
笑い顔以外なら尚更見たくない。

ゾロは無心に剣を振るった。
肩から流れ落ちる血には、とっとと蒸発して貰いたい。恥ずかしい。

「『砂紋』……!」

一際大きな巨体を斬り伏せると、その場に残るのは意識がある者の呻き声だけだった。
しかし、増援が来る前にこの場を離れた方がいいだろう。

ゾロは刀の汚れをぐいぐいと手拭いで拭った。
そのゾロの目の前に、黒服の男が立った。あっちへいけ、とゾロは思ったのに、無遠慮にその場にいた。

ちらっと目線をあげる。

金髪の男は、指を差してゾロを笑っていた。
それなのに、くるっと巻いた眉毛はへにゃりと垂れ下がって、ちょっと泣く寸前の顔のようにも見えた。まあ、多分、ゾロが悪いのだ。ゾロの目が。
そして金髪の男が──金髪の、黒服の、奇怪な眉の、いや、違う。そうではない。

単なるそんな風な男、ではなく。

「…………最悪だ」

ゾロはぼそっと呟いた。彼が、『そうだなァ』、と頷いた。彼も少し、堪えているみたいだった。
認めたくなかったが、認めてしまっていた。




──これは、あのコック、の姿だ。




「ふ……」

ゾロは肺の中から、息を搾り出した。
そして、じっと目の前の姿を見詰めた。一度瞬きをして、目を凝らして、ぎゅっと刀の柄を握り締めた。

ひゅっ

ゾロは刀を振った。刀は、足で腕を止めようとしたサンジにかまわず、その胸の辺りをすり抜けた。
サンジは困った顔をしたが、ゾロはかまわずもう一度斬り付けた。

「う……」

ひゅっ

「う」

ひゅっ

「うううううあああああ」

獣のようにゾロは唸った。親の仇のようにサンジを睨みつけ、斬り付けて、斬り付けて、斬り付けた。
サンジは最初の十回くらいは防御の姿勢をとっていたが、そのうち、棒立ちでゾロを見詰めるだけになった。そんなところも、とても『らしく』思えた。

「あっ、あああああ! うがああああああああ!!!!」

そうだろう。多分、きっと、サンジはこんなゾロを見たら、こういう反応をするだろう。こんな情けの無いところを見たら、それを勝手に取り繕おうとして、無かったことにしようとして、笑い飛ばそうとして失敗するのだ。
自分で思っているほど、ゾロを馬鹿に出来るほど、あの男は器用じゃない。

けれど、ゾロは正直、サンジどころではなかった。

「消えろ!! 消えろ消えろ消えろ消えろ消えてくれッ……!」

ゾロはざくりと刀を地面に刺すと、それに縋るようにして跪いた。
己の胸に手をあて、力を込める。心臓を圧迫し、何かを塞ごうとする。

今更なんだ。
今更、俺は、こんなことをわかりたくなんてねぇんだ。

(クソコックが言いそうなことだ。クソコックがやりそうなことだ。全部、全部、それは──俺が思った通りの)

幽霊なんて信じてねぇんだ・・・・・・・・・・・・
俺はそういうロマンチストじゃねぇんだ。

だから、この幻は、全部俺の、




(──俺がそう望んだなんて、認めたくなかった)




今頃気づいたって何も出来やしねぇ。

そして、気付いてしまえば、ゾロは心臓を抉り出したってそんな幻を見ることを自分に許さない。
ゾロは、そんな弱さは許せない。

どうしてだろうか。
今更になってどうして、上手に歩けないんだろうか。それともゾロは今までも、上手く歩いているつもりだっただけなのか。

そんな事にまで、今、気付かなければいけないのか。

「う……」

ぐ、と胸の上に爪を立てた。
そしてゾロは、瞳に焼き付けた姿を飲み込むようにぎゅっと瞼を閉じた。

ゾロは理解してしまった。
だからもう、ゾロにはサンジの姿は見えないだろう。

ゾロが消えてくれと頼んでも、本物だったら嫌だと言って、けして言う通りにはしない。──心底から願っても、そうはしないだろう。

だが、サンジは死んだのだ。

そうわかっていたのに、幻なんて作り出して、ゾロはまるで馬鹿だ。馬鹿丸出しだ。
死んだ後に直視して、何年見ていなくてもやりそうなことが再現出来るくらいで、失った後に気付いてしまって、こんなところで一人で肩に傷まで作って。

(知りたくなかった)

サンジが死んだことなんて。
それを自分が、上手く受け止められなかったことなんて。

「────」

随分長い間ゾロは目を閉じていた。肩に当たる日差しの温度が、夕暮れのそれになり、そして、その温度も消え、辺りが闇に包まれた後──

ゾロは目を開けた。
目の前には、何も無かった。













ゾロは通りの店でサイダーとマッチを買うと、波止場に出向いた。

サイダーなんて、子供の飲み物だ。むしろ、子供のときにだってゾロはこんなものを好んだ記憶はない。
けれどゾロは今、酒なんて飲めはしないのだ。

ゾロはどっかりと、波止場の先、波がすぐ真下にあるところに座り込んだ。
ごそごそと腹巻を探って、潰れた煙草の箱を取り出す。

しゅっとマッチを擦ると、オレンジ色の光が闇の中にぼうっと浮かんだ。海風にそれが消えないように手で囲い、紙巻煙草に火をつける。

「……不味い」

煙草の煙を吹かしながら、ゾロはサイダーの瓶の栓を抜き、それをちびりちびりと飲んだ。
煙を吸っては、サイダーを舐める。苦さと甘さは思ったようには中和されなかったが、ゾロはとにかく、煙草を一箱全て灰にするまでそこにいた。

「悪かったな。あのボケが化けて出るなら、女のところだ」

空になった箱に向かってそう呟いてから、ゾロはくしゃっとそれを潰して海に捨てた。それからごしっと一度目元をぬぐって、宿へと帰った。

寂しいだなんて、ゾロは、思わないのだ。
そういうことにしておいてくれ。