それは丁度、ゾロが通りに出したテーブルに肘を突いて、喉の渇きを癒す三杯目の酒をかっ喰らっていたときのことだった。
ゾロの緑の頭の上に、鳥が落とした荷物がぺそっ、と乗っかった。そう、唐突な不幸はこうやっていかにも気軽に訪れる。












『寂しがり屋の魔。』














一瞬硬直したゾロだったが、眼前に垂れ下がってきた白いものは糞ではなかった。
軽くて小さいが、それは確かに小包だった。ゾロが睨む前に、カモメ便は、つーいと空を飛んで去っていった。

ふらりふらりと放浪するゾロに対して届く荷物だ、その送り元に心当たりはたったのふたつしかない。随分随分前に発った故郷と、随分前に下りた船。
小包の荷札を確認すれば、差出人は気のいい海賊達の方だった。今も遠い海の上で笑っているだろう彼らのメッセージは、ぱらぱらと、忘れかけた頃に降ってきてはゾロの心の隅を少し暖かくする。
ああ、これではまるで、あれだ──しわくちゃの婆ちゃんからカボチャと芋を送られる、都会に出た孫のようだ──そんなたとえが思い浮かぶとは、それこそ自分に似合わない。俺はまだまだ可愛らしいのか、ロロノア・ゾロよ。

ゾロはジョッキを空にすると、固い指先でちまちまと小包の皮を剥いだ。
中には手紙と、煙草が一箱入っていた。

「────」

手紙の内容を読むと、煙草の意味は大体わかった。遺品だ。
あの、シンジだかサンチョだかいう(いや、別に、手紙に名前は記してあったのだが何となく)バカコックがとうとうお亡くなりになったらしい。
享年はいくつだ? ゾロと同い年だったような気がするが、そういえばゾロはいくつだったか。

(……それにしても、驚いた。それなりに強かった筈だが……奴が一番乗りとはな)

いくら馬鹿とは言え、ゾロよりも長生きするかと思っていた──何処となく厳粛な気持ちになって、ゾロは煙草に向かって手を合わせてやった。冥福なんかは祈る柄でも祈られる柄でもあるまい、迷わず地獄へ行ってくれ。

ゾロは手紙と煙草を腹巻の中に突っ込むと、勘定を済ませるためにウェイターを呼びつけた。
はい、という端切れの良い返事を聞きながら視線を元に戻すと、いつの間にか丸テーブルの真正面に、別の客が座っていた。
相席を許可した覚えは無いが──

黒スーツの長い足を組んで、その男は椅子に横座りしていた。テーブルの上に片腕を乗せ、通りを横切る若い女の胸を見ている。金の髪、巻いた眉、垂れた目元、顎の辺りにしょぼしょぼと生えた髭。

「…………あ?」

凝視する視線に気付いたか、男はゾロの方を向くと、よう、とでも言うように軽く片手を上げた。

「────」

ゾロが硬直していたのは、大体二秒ほどだった。

それから、ゾロはやってきたウェイターに金を渡した。次に、席を立って通りを歩き始めた。自然な成り行きで、そうした。それ以外はしなかった。構う必要は無い──何故なら、ゾロに相席するようなふてぶてしい奴は、いる筈がないのだから。

やはり、昼間から酒はよくないのだろうか。もう無茶は出来ない、そういった歳になってきてしまっているのだろうか。

ゾロは片手を三本の刀の柄の上に乗せ、出来るだけ早足で歩いた。
角を曲がり、もうひとつふたつ曲がり、わざとぐるぐる回ってみたりして寄り道を試みていたら、何故かすんなりとゾロがとった宿の前に出てしまった。何故だ。

着いてしまったものは仕方が無い。
ふう、と一度大きく呼吸をし、二、三度肩を上げ下げしてから、ゾロはゆっくりと振り向いた。

見えたのは空、薄汚れた看板、木箱の上で寝ている猫。
勿論、それだけで問題ない。

いつの間にか緊張していた背筋を解して、ゾロは宿の扉を開けた。預けていたキーを受け取って、二階の一室へと戻る。

「…………」

ドアを開けた瞬間、ゾロは肩を落とした。
何となく、そんな気はしていたのだ──酔いがそんなに簡単に醒めるわけがない。

部屋にはスプリングの緩んだ寝台がひとつ、それに一人掛けのソファがひとつ。
そのソファに腰を下ろして、金髪の男が長い足を組んでいた。彼はゾロを見て、ひらひら、と片手を顔の横で動かした。何のアピールだ、何の。

「…………」

生憎、ゾロは、幽霊だとかそういった現象は信じていない。死者の想いが現世に残るなど、子供のための夢物語だ。
ゾロはそれほどロマンチストではない。

幽霊なんていないのだ。いや、いるべきでない、のか。

だからゾロは、床の隅に置いてあった荷物をわざわざ取り上げて、ソファの上に放った。
どさ、と軽い音を立てて、荷物がソファの座面に載る。勿論、荷物は男の腰と太股の辺りをすり抜けて突き出ていて、彼はソファに腰掛けているようには見えなくなった。正確には、「人間がソファに腰掛けているようには」見えなくなった。

男の眉が少しだけ下がった。ゾロは、それを見なかったことにした。

部屋に戻ったら湯を浴びようと思っていたのだったが、そういえばタオルは荷物の中だ。取りに行く気は起きず、ゾロは壁の方を向いて寝台の上に寝そべると目を閉じた。

猛烈に腹が立っていた。次に目を開けてもまだ金髪の男がそこにいたら、その辺りの賞金首を無意味に根絶やしにしてしまいそうだ。奴らとて、妻も子もいるだろうに。

だから失せろ、と胸中で呟き、ゾロはその後二秒で眠りに落ちた。





+++ +++ +++





ずっしりとした重い眠りから覚めたゾロは、そのまま瞼を開けないでじっとしていた。
数秒後、ごろりと寝返りをうつと、薄く目を開けて部屋の様子を覗き見る。

ソファの上に、金髪の男はいなかった。ゾロの荷袋がだらりと口を垂らしているだけだ。
そのまま静かに眼球を滑らせると、窓際に立つ黒いシルエットが見えた。まだ居た。

「────」

ゾロの部屋は角部屋で、窓のついた壁がふたつある。
金髪の男は、寝台から遠い窓の傍に立って、外を眺めていた。朝の光が彼の前髪をけぶらせていたが、その後ろに伸びるはずの影は床の何処にも落ちていなかった。

斜め後ろから見ているせいで、彼がどんな表情を浮かべているのかはわからなかった。
凝固したように動かずじっと窓の外に向き合うその姿は、顔が見えないせいもあって、服屋の店先に飾ってある人形のように感じられた。

「…………」

一夜が明けてしまえば、酒のせいにも出来そうになかった。

そもそも、本当に、ゾロは滅多に酔うことなどないのだ。酒は飲むものであって飲まれるものではない。

ゾロが無言でむっくりと起き上がると、途端に男はゾロを振り返った。その顔は楽しげに笑んでいたが、どうもゾロは、彼が先程までは違う表情でいたのではないかと思った。
振り返った男と視線を合わせることをせず、ゾロはぐあっと大きく口を開けて欠伸をした。ぼりぼりと腹と胸、それから尻を掻き、寝台から足を下ろす。

金髪の男は、いかにも『むさ苦しいから止めろ』と言うように面白い形の眉を吊り上げたが、ゾロは殊更にそれを無視した。
彼の反応はあまりにも当たり前のもののようで、それが余計に気に障った。そんなに生きているふりをされても、困る。

(何がしたい)

自分で言うのもなんだが、ゾロはあまり人の意図をいうものを汲めない方だ。はっきり言われなければわからないし、はっきり言われたとしてもやはり大体わからない。
それなのに、喋ることすら出来ないのではどうしようもないだろう。恨み言があるというなら、聞いてやってもよかったのだが。

苛々していたが、溜息ひとつでも吐いてしまえばゾロがその男の存在を認めた事になる。
ゾロはずかずかと階下に降り、店の主人に朝食を要求した。

小さなテーブルには二つずつ椅子がついている。蹴飛ばしてどうにもひとつに減らしてしまいたかったのだがそれは出来なかった。
ゾロは厨房の方を向いて座った。もう片方の椅子には、誰かさんが座った。

運ばれて来た朝食は、目玉焼きと、野菜の切れ端を煮込んだスープだった。
用意された皿は一人分で、店の主人は当然のようにそれをゾロの前に置いた。

別に特に腹は空いていなかったが、ゾロは皿を抱え込むようにした。
お前の分はない。突き刺さる視線に対し、ゾロはそう主張するように猛スピードで朝食を貪り喰らい、雫の一滴も残さずに碗を空にした。そうしてから、自分が舌を火傷したことと、碗にスプーンが添えてあったことに気付いた。

ちらりと皿から目線を上げれば、向かいに座る金髪の男は揶揄うようにニヤニヤと笑っていた。唇が開き、ぱくぱくと何事か喋っているように動く。

『クソマリモちゃんはやっぱり、頑固に意地張っちゃうよなァ』

そんな台詞が想像出来てしまって、また気分が悪くなった。





+++ +++ +++





場所が悪いのだ。あるいは方角。もしくはそう、運勢的なものが状況的なものと偶然調和して不吉な感じに云々。
ゾロはそう思いこんで、とっととその島から離れることにした。

しかし、次の島への連絡船のへりにはやはり黒服の男が背をもたせ掛けていて、ゾロの浅はかな希望をあっさりと打ち砕いた。
大体、昼日中から夜夜中まで常時姿を消さないとは卑怯である。

仮に──仮に男が心霊現象めいたものだとしたら尚更、もう少し遠慮があっていいはずだ。いや、ゾロは幽霊の存在など信じてはいないが。

無意味に進んでしまった島で、ゾロは久々に挑戦を受けた。
剣士としてのゾロに戦いを挑んでくるのであれば、若い力とやらを見守る楽しみがある──というわけでもなく(大体、ゾロはそんな風な大人げを装備してはいない。まだ若い、筈だ)、単にゾロの首を金に換えようという有象無象を掃除するよりは張り合いがあるというだけの話だ。

(……まあ、志と実力が比例するってもんでもねぇがな)

ざしゅっ

名乗りを上げて剣を構える男を一刀の元に切り伏せ、ゾロは和道一文字の血糊を拭う。
ゾロは鷹の目のように酔狂ではないから、今も躊躇なく相手の急所を切り裂いた。

剣の道は修羅の道、負けの代償は死だ。殺意と殺意だけが交わされる暗い道。

ただ、それでもゾロは今回、相手よりもとても強かったために、苦しませずに命を絶ってやることが出来た。まあ、上出来、と言っていいのではないか。経験とともに、己は気遣いというものを備えて来ている、とゾロは内心自画自賛する。

刀を鞘に納め、来た道を戻ろうと振り返れば、後ろで眺めていたらしい男は『処置なし』という顔で肩を竦めていた。おい、どういう意味だ、それは。

男が、長い人差し指をすっと差し出して、ゾロの背後を示す。

その仕草に従えば、彼が見えているということになる。だから、ゾロはそれを無視して歩を進めた。背後で今何が起こっているか、そんなことは──

がぁん!!

脇を掠めた銃弾は、ゾロの腕に熱の筋を残した。
狙いが外れていたわけではない。体を倒して、ゾロが外させたのだ。

殺気を纏った鉛玉の気配など、目を瞑っていてもわかる。

「…………」

痒くなった腕をがりがりと掻きながら無言で振り向くと、銃を構えた女が恐怖を湛えた目でゾロを見ていた。

何だその顔は。幽霊を見ているわけでもあるまいに。

がくがくと震える白い指先が反射的にまた引き金を引いたが、一度撃った銃は弾を込めなければ使えない。

はあ、とゾロは溜息を吐いた。
後ろで見ていた女の存在になど、ゾロは果し合いをする前から気づいていた。ゾロが斬った剣士の仲間か、恋人か、あるいは家族か、その全てか。

だから女の行動は敵討ちだ。あるいは単なる感情の発露。あれは、修羅の道を歩む者ではない。殺す必要も無い。

「────」

ゾロは、軽く視線に力を込めてやった。
途端に女はふっ、と白目を剥いて地面の上に崩れ落ちる。ゾロと相対する胆力もない、か弱い人間だ。

女にはわからなかったのだろう、剣士の戦いがどういうものか。
それは仇だとか、誰が悪いとか、そういった次元の問題ではない。どちらかというと運命の類だ。ゾロが斬らずとも、男はいつか誰かに斬られた筈だ。剣士であるのなら、そうなる定めである。

男は剣士としてゾロに斬られた。それが覚悟だと、何故理解しない?
逆恨みにも程がある。

だが──

(……そういやルフィも、俺が負けた後は鷹の目に殴りかかっていきやがったな)

そして、そう、あの時のゾロも、仲間の誰かが戦いに敗れたなら、黙って眺めていることは出来なかったかも知れない。たとえ結果的には動かずとも、怒りに身を震わせ拳を握り締めたかも知れない。
道理よりも衝動に身を任せ、泣き喚いたかも知れない。敵討ち、復讐、そんなものを考える──未練。我侭な思い。

今から考えれば、未熟で愚かだ。
だが、あれ程幸福だった日々もなかった。


金髪の男が、目元を隠して、肩を震わせるようにして笑った。