サンジは横倒しになって転がったままだった。天井と床の間は100センチ、何も変わらない。起き上がることはできない。それよりも、やらなければならないことがあった。

 サンジは床に付いている頬を僅か浮かせると、がん、と音がする程こすり付けた。いつの間にか切れていたこめかみの傷口が捲れる感触がし、ぬるりと血に滑った。力任せに擦り続けるが、目隠しが緩まる気配はなかった。苛立ちのまま、また、がん、と床に頭を叩き付けた。

 サンジは首を持ち上げると、床とは反対方向にねじって最大限振り向いた。どれ程振り向いても、顔を真後ろに向けることはできないが、それでも出来るだけ鼻を近づけた。すん、すん、と吐き気のするような臭気を一杯に吸い込み、嗅ぐ。しかし、するのは腐臭ばかりで、獣のような汗のにおいがするかどうか、判断する事はできなかった。

 その間、サンジの指のほうは爪先を反らせるようにして背後を探っていた。拘束された手首は手の甲が後側に向けられているため、手のひらを使って死体の感触を確かめることは不可能だった。反らせたサンジの爪先は、ふわふわした毛糸のようなものに触れている。左右の指で挟むようにして摘み上げれば、それは引っ張られて伸びた。毛糸の腹巻だといわれれば、そうであるような感触だった。サンジの指先は、その色が緑であるかどうか、わかるようにはどうしてもなっていない。

 どくり、どくり、とこめかみのあたりで血流が蠢く音がする。反対に、胸にあるはずのサンジの心臓はちっとも動いているような気がしなかった。サンジはさらに、試した。

 首を後ろに仰け反らせ、後頭部で死体の後頭部の感触を探る。長い髪が首筋に触れたりしないかどうか、あるいは、髪の毛がうねって巻いていたりしないかどうか。ちくちくとした短髪でなければそれでよかったが、サンジ自身の髪の毛の感触がして、掴みきれることはなかった。

 頭を死体にこすり付けるその仕草の中で、ふと、サンジは思いついた。
 後頭部で強く押すようにして、死体の頭を勢い良く動かしてみる。そうしながら、頭と頭同士、布の擦過音、そんなものの中に何か聞こえないかと、サンジは耳を澄ませていた。

 ちり。

 小さな金属音だった。しかし、サンジにとってそれは、鼓膜に針が突き通されるような音だった。
 認め難く、サンジはもう一度、今度は後ろの頭を床から掬い上げるように後頭部を動かした。無理な動きだったが、6度か7度目の挑戦の後、サンジは死体の頭を1センチほど持ち上げ、落とすことができた。ちりり。金属のぶつかり合う音。
 ゾロのピアスの音に、良く似ている。

「────」

 しかし、ピアスをし、腹巻を着けていたからといって、それがゾロであるという証明にはならない。三連のピアスも、腹巻も、着脱可能なものだ。あえてそれを選んで着せておけば、ゾロに良く似た死体を作ることはできる(何のためにそんなことをする必要があるのか、その理由を思いつくことはできないが)。

 サンジは再び、においを嗅ぎ始めた。飢えた犬のように必死になりながら、嗅覚を必死に働かせる。洒落た香水のにおいでもすれば、あるいは、僅かシャンプーの香りでもすれば、そんなものはロロノア・ゾロではないということができるのだ。しかし、やはり、何もわからなかった。

 いや、たとえ、どんなにおいがしても、証明にはならない。死体に香水を振り掛けることだってできるし、髪を洗う事だって、できなくはない(何のためにそんなことをする必要があるのか、その理由はやはり思いつくことはできないが)。

 変えられないものは何か、とサンジは考えた。ゾロから引き剥がすことはできないものは何か──無意識に、サンジの指はまた後ろを探っていた。人差し指と中指の先で、サンジは強張ったその皮膚に触れた。手の甲の辺りを通過して、なぞりながら、手のひらのほうに爪先を滑らせる。

 指は、人体の体の中でも触覚の集中している部位だ。サンジの指は確かに、触れるものの感触を見極めることができた。
 人間の皮膚以外のものだと勘違いするくらいに、分厚くて固い手のひら。石が埋まっているような感触のタコが、小さな山脈を形成している。沢山の切り傷のくぼみは川だ。
 ──まるで、何万回も、何億回も、重たい棒を振り回して素振りを繰り返したみたいな──

「────」

 それは、ゾロの手だったものだった。冷たくて、強張っていて、もう、物になってしまったが、過去には確かにそうだったのだと、確信できてしまう手だった。










 サンジはぼうっと転がっていた。それなりの時間が経ったかのように思えるのだったが、何故か、錘が再び頭上から落とされるようなことはなかった。やがて、サンジのこめかみの傷口から流れる血は止まり始めた。つまり、1時間か、2時間は経過したということだろう。

 箱の中には己の呼吸の音しかない。
 最初は静かだったそれが、だんだんと荒くなり始めた。その理由にサンジは気付いていた。ゾロが死んだ精神的ショックだとか、傷口からの発熱だったらどんなにいいだろうか。しかし、そんなウツクシイものではなかった。

 尿意だ。

「…………」

 サンジは唇を噛んだ。噛み締め過ぎて、ぶちり、とどこかから音がしたが、痛みは尿意を掻き消さなかった。膀胱は破裂寸前だった。どうでも良い豆知識その1、男より女の方が小便の排泄を我慢できるような構造になっている、なんて現実逃避のような思考がぐらずらと脳裏を駆け巡り、その文字がそれぞれタップダンスを始める。膝が震える。

 サンジはぎゅっと膝を閉じ合わせ、身を縮めるようにした。しかしそれは、はじけ飛ぶ寸前のような膀胱を圧迫するだけの行為だったので、サンジは慌てて身を伸ばした。尿意の波は、3、2、1、3、2、1、とふざけたワルツのように襲ってきて、丁度3呼吸ごとにサンジの気をおかしくさせた。
 炭素原子の進化の歴史。空き缶が三角定規。ステイグマのサラダ。それぞれ色の違う1ダースのトイレの前で、「さあ、あのコとワタシ、それからこのコ、どれを選ぶの? どれを選んでも地獄よ」。

 勿論、これは生理現象だ。仕方のないことだ。だから、たとえ死体であろうとも──ゾロの前で死んでも失禁したくないというのは、単にサンジの自尊心の問題だ(ちなみに、本当に死んでしまうとやはり糞尿が垂れ流しになるのでそれも却下だ)。

 もう一度確認するが、単にサンジの自尊心の問題だ。だが、もしも、男から自尊心というものを取り去ったら、それはただ足が生えてきて二足歩行するようになっただけの蛆虫だ。サンジは気色悪い虫の類が大嫌いだった。

 3、2、1、3、2、1、3、2、1、2、3、0?
 イヤだ。絶対にイヤだ!!!

 沸騰しているようにこめかみが熱かった。
 めくるめくハレーション。

「!」

 サンジは苦痛から逃れようと、体をばたつかせた。この手首の錠が外れれば、外れさえすれば──
 捻ろうとしていた、手の小指側の側面が床に触れた。そこには、不自然なくぼみがあった。サンジは無我夢中でそれを辿った。とにかく、この尿意を忘れさせてくれる何かが欲しかった。
 文字だ、とサンジは直感した。そこでサンジは複雑な風に関節をねじり、小指の先だけそのくぼみに触れさせるようにした。冷え切って悴んだ小指で、ちいさな、その引っ掻き傷のようなものを執拗になぞる。

 A

 すぐにわかった。次の文字は難しかった。Oか、またはDであることはわかる。だがその2つの文字の区別は中々微妙なものだ。サンジは、くぼみの隙間に爪を捻じ込むようにして、そのくぼみが角をもつのではないかということを何度か確かめた。多分、Dだ。

 DA

 IはAよりも容易かった。頭が熱かった。発火しているに違いなかった。額の脂汗と、背中の冷や汗が反発しあって、瘧のようにサンジは震えた。Iの次も容易い。その次もすぐ、ああクソ、Dにあんなに時間を掛けるんじゃなかった。もうすぐ答が、なのにその前に俺はもう、

 わかった、これは、LA VI──


 何故、錘は降ってこないんだ!!!!
 誰か今すぐ俺を握り潰して、肉片に変えてくれ。