貴方の目の前に、大きな箱があります。
 中には何が入っていますか?


 珍しくもない心理テストの文句を、サンジは思い出していた。尋ねられたとき、サンジはなんと答えたのだったか? それは忘れてしまったが、今ならこう答える。
 人間が詰まってる、と。













『STONE FENCE』














 順に確認していこう。

 まず、あるものは床だ。
 ひたすら冷えていて、ひたすら固いだけの、サービス精神のない床。
 それに、その固い床にぺったりとくっついている薄い尻の肉。血流が悪くなり、痺れている。尾てい骨も固い。
 背中の後ろに他人がいる。
 湿った空気が皮膚に張り付き、爪先は壁にぶつかっていて窮屈である。
 薄く、生ゴミのニオイがしている。
 雑巾風味の唾液が、左右の頬をうろうろしている。
 竦めていた首を伸ばすと、髪の毛が天井に触れた。
 目の上に、布のようなものが巻きつけられている。
 背中の後ろに他人がいる。
 口の中に、スポンジが詰め込まれている。
 そして、両手首に重い金属の感触。後ろ手にまわされた腕同士は、手首でぴったりとくっついて、どう力をこめても離れない。手錠だ。
 死んだ魚の目の中のようにとっぷりとした闇。何も見えない。
 背中の後ろに他人がいる。

「────」

 サンジは、バカではあるが知能派でもあるから、己が今、拘束されていることはすぐにわかった。また、パニックにもほとんど陥らなかった──自分が拘束される理由に心当たりが多数あるからである。
 サンジは札付きの海賊だし、朝飯前にはクソ野郎をいつも5,6人オロすし、女性のハートをいくつも奪っているはずだし、そういえばこの間、ナミの使用済みタオルをうっかり発見して頬ずりしながら抱き締めて眠ったから、バレたらタル漬けにされる理由もある。

 次に考えたのは、もちろん、背後の人物は誰なのだろうということだ。
 サンジは反射的にぎりぎりと首を捻って振り向いてみたが、強張った首筋が吊りそうになっただけだった。視界は尋常でない密度の黒だ。光というものが一切感じられないのは、目隠しをされているせいだけではない。この場所自体、サンジの体のてっぺんからつま先まで、闇の中にあるのだと理解出来る。

 ただ、振り返った動きのせいで、サンジの肩や指先が相手の体にさらに触れた。指は指のようなところに、肩は肩のようなところに、肘は肘のようなところに、曲がった背骨は曲がった背骨のようなところに。それで分かったのは、背後の人物がサンジと同じように座り込み、お互いに背を向け合っているということだった。

 手の甲が相手の手の甲に触れる。後ろ手にした腕を引っ張ろうとして、ひっかかる。
 どうやら、背後の人物の腕も、サンジの手首のあたりにくっついているらしい。
 想像するなら、丸い輪を4つ、縦2列横2列にくっつけたような手錠に、お互いに手首を突っ込んでいる状態なのだろう。つまり背後の人物も、虜囚だ。

「ぉん」

 呼びかけようとした声は、潰れた小さな唸り声にしかならなかった。本当に小さな音だ。自分の意志ではア行も言えない。
 口腔一杯に詰め込まれたスポンジは唾液を吸ってすっかりと膨張し、我が物顔に舌を押し退けていた。口の筋肉が上手く動かせず、溜まった唾液を飲み込もうとすると、気管に入りそうになった。放置された唾液はすえたようなにおいがして、気分が悪い。息苦しい。

 こんな状態でむせ返ったら、喉にスポンジを詰めて死んでしまうんじゃないか、そんなことをサンジはちらりと考えた。ゲーだ。

(ゾロ?)

 サンジは声に出す代わりに、心の中で問いかけた。
 それは、背後の人物の存在を認識したときから思っていたことだった。背後にいるのは、緑髪の剣士ではないか?

 まず、性別は絶対に男性だった。理論を超えたところで、サンジはそれを直感的に判別できる自信があった。これを外すことがあったら、サンジは禁煙してもいい。
 それに、同じような虜囚という立場になりやすいのは、同じ行動を採っている仲間達だ。自分は仲間と一緒に、海軍にとっ捕まっている。それが一番、すんなり納得できる。

「────」

 クルーの誰かだとしたら、消去法で答は自ずと決まってくる。
 まず女性陣を除く。チョッパー、フランキー、ブルックは、その身体的特徴が本当に特徴的なので分かりやすいが、背後の体は毛玉でもロボでも骨でもない。腕が伸びないのでルフィではない。ウソップなら、彼のファンキーな天然パーマがサンジの首筋をくすぐっていなければおかしい。結果、緑だ。

 もちろん、全く見も知らないどこかの誰かという可能性もある。だから、ゾロではないか、という程度の話であり、サンジは取り合えずその思考を棚上げした。現状把握はまだ終わっていない。

「────」

 サンジの長い足は胸に触れるくらいに窮屈に折り畳まれている。足を伸ばそうとしても、爪先は硬い壁に押し付けられて頑として動かなかった。結果、僅か左右に開いている膝、右膝のほうも何か硬い壁に触れている。嫌な予感とともに左膝をもう少し倒してみると、そちらも壁に触れた。

 床から天井までの間は約100センチで、尻から前方の壁までの間は約70センチ。右の壁と左の壁の間は約100センチ。つまり、壁と壁と壁と床と天井と人間の背中による箱詰めだ。

 サンジは慎重に爪先に力を込め、前方の壁の強度を測った。
 ぎゅううーん、と押し蹴るようにすると、サンジの尻がずずっと1ミリくらい後ろに下がって、背後の人物の曲がった背骨がサンジの背骨の脇にみしっと食い込んだ。キツい。

 それでわかったのは、壁は大分硬いもの(コンクリート?)で、サンジの後方に広がる空間も、サンジの前方に広がる空間と同じように狭いということだった。サンジが足を伸ばそうとしても、サンジの後ろの人物が平たいノシイカにならない限りつっかえてしまう。
 ゾロだったら、ぺったんこにしても浮き輪の空気入れか何かがあれば元に戻るだろうから構わないのだけれど、他の人間だったら大惨事だ。サンジは自分の脚力がコンクリートを破るのが早いか、人間を潰すのが早いか実証してみる気にはまだなれなかった。

 サンジは鼻で精一杯の息をしてみた。
 箱が密閉されているとしたら、窒息の時間はすぐに来る。しかし、吸い込んだ空気はどこかひんやりとしていた。相変わらず生ゴミのにおいはするが、すくなくとも、男性2人と一緒に狭いコンクリートの箱に詰められっぱなしでいた、人間だったら顔色を真っ黒にしているだろうストレス下にある気体ではなさそうだった。ちなみに今、サンジの顔色は黒いはずだ。
 窒息の危険が、すくなくとも間近にはないということを確認して、サンジはほっとした。

 空気は入ってくるのに、光は入ってこない。
 それはどういうことかといえば、箱の外もまた暗いということだろう。

(なァクソ剣士(仮)、これってどういうことだと思う? やっぱり、ナミさんのお仕置きじゃねェよなァ)

 緊張が僅か緩まれば、体の状態に気が向いた。尿意を覚えていて、それを我慢しなければならないのが不快だった。窮屈な姿勢で折り畳まれた体は、スーツの布にそぐわない部分が沢山出ていて、肩や肘や膝のあたりを布が拘束しているようで不快だった。ずっと同じ体勢でいる肉は強張って、筋肉の中に細かな泥が混ざっているようでこれまた不快だった。じっとりと湿った汗が布と肌の間で醗酵しているのであちこち掻き毟りたいが、その指が拘束されていた。サンジはまるで、塩で煮たリンゴのような状態だ。不自然に料理されている。

「、」

 はっとしてサンジは鼻呼吸を止めた。

 視界をふさがれると、その他の感覚が鋭敏になるというのは本当らしい。サンジの耳は、人の声を聞きつけていた──背後の人物ではない、箱の外から聞こえてくる声だ。

「……、…………」
「………が、…………に…」
「……」
「…………ン……」

 話し声は遠く、そして、息を潜めているようで、何を話しているのかサンジには全く聞き取れなかった。ただ、会話のようだった。
少なくとも、2人以上の人間がそこにいて、人間が入った箱に近付こうとも、中の人間を助け出そうともしない。では、何の為にそこにいるのか?
 何となく、ぞっ、と背筋が寒くなった。嫌な予感がした。

(なんかヤベェぞ、オイ)

 サンジは首を後ろに傾けて、後頭部でどんどんと背後の人物の肩をノックした。
 この状況では背後の人物にも何も出来ないし、そもそもサンジの言いたいこともろくに理解できないには違いなかった。しかし、コミュニケーションをするというのは人類の基本的本能だ。相手にもその基本的本能が備わっていたのだろう、後頭部が触れた肩から、こくり、と相手が首を頷かせる振動が伝わった。

「────」

 こんな状況にサンジ達を落とし込んだ何者かが、こちらに好意を抱いていないことは明白だった。
 だが、こちらはコンクリートの箱の中だ。生かすにしろ殺すにしろ、いずれ蓋が開かれるときは来る。両手が拘束されていて、目隠しをされていても、サンジの足は健在だ──動くことのできる空間が生まれれば、何とでも対処できるはずだった。

(もし、空気孔をふさがれたりしなければな)

 そんな事実に思い当たったサンジは、どうしてそんな事を思いついてしまったのかと自分に向かって悪態をついた。空気がなくなり、喉から舌を、眼孔から目玉をはみ出させて死ぬ。苦痛により床を掻き毟った指から爪がはがれる。それは嫌な想像だった。あるいは、空いた穴から水を流し込まれる。あるいは水ではなく、硫酸とか──皮膚が焼け爛れる硫酸プールなんて──

 ゲーゲーだった。
 サンジは胴震いして、その気色の悪い想像を頭から追い出そうとした。その拍子に、スポンジから生臭い唾液を僅か啜ってしまってさらに気分が悪くなった。

「……、」

 まな板の上に乗った魚の気分だ。そのまま放置されてもいずれ死ぬし、包丁を突き立てられればすぐに死ぬ。反撃の方法はどこにある?
 尋ねてみたくて、サンジは考えもなくまた後頭部で背後の人物を叩いた。今度は、反応が返らなかった。全くの想像だが、おそらく、彼も口の中にスポンジを詰め込まれているのだろう。

「…や……、…」
「……」

 全身を耳にして、サンジはそのやり取りを聴いた。
 しかし、やはり、何を言っているのかはわからなかった。やがて、しん、と静かになった。何の音もしない。

「────」

 ──何の音もしない?

 それは全くの偶然だった。もし、サンジの目がふさがれておらず、耳が鋭敏になっていなかったら。また、諦め悪く、まだ何か聞き取れないかと必死になって耳をそばだてていなかったら、息を止めていなかったら、その音は聞こえなかっただろう。

 それは、うっすらとした機械音だった。きりきりきり、と歯車が巻かれる音だった。そして、ごとっ、と、やけに重い物同士がぶつかって擦れ合う音が聞こえた。それも、ずっと遠くで。遠くの──はるか、上空のほうで!

(上!)

 その瞬間のサンジの頭の回転は素晴らしく速かった。
 まさに、火事場のバカ回転、というやつだった。箱の置かれている状況を俯瞰で眺めるように、サンジは、今まさに何が起きようとしているのかを理解した。




 潰される。




 歯車の音は、クレーンを動かす音だ。衝突音は、錘がクレーンの首とぶつかった音だ。何故ぶつかったかといえば、クレーンが止まったからで、何故止まったかと言えば、照準が合っ、あっ


 ひゅっ


 錘と空気の触れ合う音など、箱の中のサンジに聞こえる筈がなかった。だが、サンジの脳は確かにそれを聞いた。サンジは全力で体を横に倒し、壁に体をぶつけていた。肩はもちろん、ガン!と大きな音を立ててこめかみがコンクリートにぶつかり脳がシェイクされたが、それはどうでもよかった。ぐらりと箱が揺れた気がした。全身の力を振り絞り、サンジは間髪いれずにまた命を一塊にしてぶつかった。箱が傾き、斜めになってぐらりとどおおうあんあんがたん ごきっ

「!!」

 激しい揺れに、箱の中でふたつの体はありとあらゆるところをぶつけた。箱は横倒しになり、サンジにとって壁だったところは床に、天井だったところは壁になった。気付けばサンジは頬を床に付け、尻を壁に付けた体勢で肩から倒れていた。
 即席の地震が終わる頃、サンジはようやく恐怖を感じることができた。この尻の横、何センチか知らないが、そう遠くないところで、はるか上から落下してきた錘が床をぐしゃぐしゃに押しつぶしている筈だった。冷や汗が全身から吹き出た。

「っ、っ、っ、っ、っ、っ」

 荒い鼻息が、狭い箱を全て満たしている。殺される、ということをサンジは真剣に理解した。狭いだとか痒いだとか不快だとか、そんなことを考えている場合ではなかったのだ。

(オイクソ剣士!)

 サンジは心の中で絶叫した。これはヤベェ、これはヤベェぞ。どうにかして、逃げ出さなけりゃ──お前、殺されっちまうぞ!

 しかし反応はなかった。サンジの魂からの絶叫は物理的に空気を揺らすことはなく、同じく横倒しになっている背後の人物も、ぴくりとも動かなかった。
 ぴくりとも。

「っ」

 サンジはそこでやっと、気付いたのだ。閉じ込められている、拘束されている、そんな異常事態では気付かなかったこと。

 生ゴミのにおい。厨房に立ち込めているから、サンジはよく馴れていた。だからあまり気にしていなかった──何故、生ゴミのにおいがするのか?

 生ゴミのにおいは、食べ物が腐敗するにおいだ。
 命は、生きられなくなった瞬間から腐り始める。

 背後の人物は、もう死んでいた。はじめっからだった。