another side





──気付けば、夜の街を走っていた。
響き渡る銃声。血の臭い。迷路のように曲がりくねる道。崩れかかる廃屋。闇を僅かに切り裂くライトと、人の足音。

誰が見ても明白に、追い込まれている。囲みを突破しても、すぐに捕捉される。
ゾロは低い唸り声を上げた。こんな、こんな状態には耐えられない。

「……オイ馬鹿。このままじゃジリ貧だぞ」
「テメェに言われなくてもわかってんよ、気ィ散るから黙れ」
「わかってんなら、降ろせ」

ゾロは、ここで庇ってもらっても、全く嬉しくなかった。
それどころか、そんな呪いは真っ平だった。
そんな風にしてもらって、ゾロはこれからどの面下げて生きていけばいいというのだ?
こんなに簡単な事が、どうしてわからないのだろう。見ない振りをしているとしか思えない。

ゾロは、血を吐く気持ちでこう言った。

「テメェの命なんざ、俺は背負う気はねえぞ……!」
「────」


男の足が、止まった。





小さな路地の途中で、どさ、と乱暴に放り出されて、ゾロは心底安堵した。
お荷物はなくなった。これで、包囲網は随分と抜け易くなるだろう。

痛みと熱に朦朧とする意識の中、ゾロは男の蒼い目を見上げた。
勿論、暗闇の中、ところどころに立っている街灯と、サーチライトの光だけでは、色彩がわかるはずもない。だがゾロは、その目の色は既に知っているのだから、蒼く見えるのだ。

ゾロは、ぽつりと言った。
言う気なんか全く無かった言葉なのに、口が勝手に動いたのだ。
ゾロのせいではない。



「死ぬな」



男の目が見開かれる。
時間にして数瞬だろうが、酷く長く感じられた。

その後、凄く、凄くうれしそうな顔で、彼は笑った。



「──ああ、約束だ」









がっ

衝撃。
そう、彼が唐突なのはいつもの事だ。
自分のみぞおちに突き刺さったつま先に、ゾロはそんな事を思った。

こちらが油断した所を、欺き、嘲笑う。
なんて酷い性格だ。これが本当に本性では、人に好かれる筈がない。




一瞬にして遠くなった意識。
ゾロは、最後になるであろう景色を焼き付ける為に目を凝らした。

蒼い瞳が笑っている。
泣いているような顔で、笑っている。


そして、彼は。
身を翻した。

路地の奥の暗がりに進むのではなく光るライトに向かって。









いろいろなものが、ぶつんと千切れた気がした。









その短い間に、ゾロは沢山の事を思った。
頭の中は真っ白に染まったというよりは、むしろ空虚だった。一瞬で出来た大いなる空白に、それでも、ゾロに可能な限りの思いが流れ込み、溢れた。

唇を動かせ。
怒鳴れ。
何でもいいから、動け。

頼むから。
今。
引き止めろ。
何を犠牲にしてもいい。
この瞬間、一声吐いた後に死んでもいい。

今でなけば意味がない。

「────!!」

俺は、逃げろって言ったんだ。
囮になれって言ったわけじゃない。
身を捨てて助けてくれなんて、誰もそんな事を願っていない。

好き勝手をした、散々人を殺した、これが報いか。
ならば、ゾロは随分と世の中を甘く見ていたようだ。

こんな瞬間に、なんで思い出したくもない台詞ばかりを思い出す。

『結構何でも出来たりすんだ』

本当だ。
お前が、女じゃなくて野郎まで庇う事が出来るなんて知らなかった。

胸が痛い。痛くてたまらない。
こんなのは嫌だった。
血を吐いてどうにかなるなら、ゾロは今内臓ごとだって掴み出すだろう。

『何か、大切なモンをさ。守ってみろよ』

馬鹿野郎、
そんなの、

どうやってやれっていうんだ。

自分から走り去っていくものを、どうやって。


『しあわせになれっていってるんだ』


…………これは、あまりにも、酷すぎる。






ゾロが覚えているのは、そこまでだった。











夢を見た。

あの声が、いつもと同じ風に呟いた。
聖なる句だかなんだかだ。


神よ、わたしを、
あなたの平和の使いにしてください


ゾロは聞き流した。
意味がさっぱりわからなかったからだ。




神よ、わたしに、

慰められることよりも慰めることを、
理解されることよりも理解することを、

愛されることより愛することを
望ませてください。

与えることによって与えられ、
すすんで許すことによって許され、

人のために死ぬことによって、


永遠に生きることができるからです






……糞ったれな話だと思った。
そんなもの、やっぱり、なり損なった方がいいのだ。

誰にでも平等にやることなんて、誰からも平等な価値しかもらえないのに。見返りも求めないのか。
そんな博愛に、一方的に執着してしまったら、こんなに惨めな事はないだろう。

どうにかして勝手に幸せになれなんて、無責任極まりない話だ。






























目を開けて、ゾロは、呆然とした。
……あの野郎、人を、ゴミ捨て場に棄てていきやがった。

しんとした空間は、ゾロに何も伝えない。
勿論、誰も居ない。

「────」

ほら諦めろ、と、頭の後ろで冷静な声がした。
どうしようもない。この世にはどうしようもない事が意外に沢山あるという事を、ゾロはちゃんとわかっている筈だ。
割り切ればいいのだ、いつものように。
別に特に問題はない。

(ほら、冷静になれよ三秒で)

全てのものが何処か遠くの世界で自分とは関係ないと思い込むのなんか、ゾロには容易いだろう。
ただ、単に、こう考えればいい。

腹立たしい男が居なくなっただけだ。
居なくなった?

馬鹿馬鹿しい。
ゾロは思った。別に、ショックを受けるような事ではない。
──元から、いなかった。前は一人だった。
孤独なんか、感じる暇もなく。

たった二年。二年だけだ。
人生の長さに比べれば、大したものではない。瞬きする間に、同じくらいの時は過ぎ去る。

ふざけてる、とゾロは思った。

なんて意地の悪い男だ。
ゾロの全てを滅茶苦茶に引っ掻き回した挙句、根こそぎ奪って──

(なあ、どうすんだ)

奪ったまんまだ。
残っているのは、泣き喚く寸前の迷子の子供だけだ。

(なあ、どういう絵面なんだよいい歳した野郎がよ。指差して笑えば良いのか?誰が?やったら殺すぞ?)

ああ、そうだ。ゾロは渋々と思った。
認めよう。ゾロは変わった。変えられてしまった。

ゾロは、酷く眩しい朝日を見ながら、目の痛みをこらえた。

世界が綺麗なほど、ゾロは傷付く。
瞼を閉ざしてしまいたい。こんな結末は、嫌だ。

誰が、望んだ?
少なくともゾロではない。
これで満足なのは、きっとあの、悪気なく傲慢な男だけだ。

(畜生)

目に浮かぶあの背中を、ゾロは粉々に引き裂いた。

(きっと今、俺はテメェが死ぬほど憎い)

(……殺したいほど、憎い)

この手で縊ってやったらどれ程気分爽快か!

ゾロは吼えた。
これ程何かを激しく叫んだことはなかった。

こんな惨めな思いをこの俺に。

馬鹿野郎。
馬鹿野郎。
テメェなんか死んじまえ。

ゾロは咆えた。

なあ、出て来いよ。
そしたらきっと俺は、あの時あの女にしたみたいに錯乱してテメェをめちゃくちゃに刺して、殴って。

気を晴らしたあと、急いで医者に連れてくだろうから。


(出て来いよ)



「あああああああああああっ……!!」




ゾロは吠えた。
今ここでなら、声を上げて泣いてもいい気がした。


今なら、声を上げて泣ける気がした。








『星を眺める気分→』