another side
男はスタンガンを握ったまま、酷薄でもなく、平然ともしていない奇妙な不自然さでそこにいた。半端に笑顔が浮いていた。
本人自身、どういう態度をとったらいいのか、はかりかねているのかもしれない。
全身の筋肉が無理矢理ゾロを床に押さえつけているような感覚。
視界は鮮明とはいえなかった。しかし、落ちかかる瞼を閉ざすことだけはすまいと、ゾロはすべての力を眼球に込めて、男をにらみつけた。
その悪党は、すでに床に倒れたゾロの頭の脇にちょこんとしゃがみこんで、声だけは優しく語り掛けてくる。
10秒かけて選んだ言葉がそれなら、この男の脳みそは飾りなのだろう。
「実は俺さ、MじゃあなくてドSなんだって」
可哀想に、と。そんな視線。
今は、本気で言っているのだろうか?この男は。
許せる訳がない。
ゾロは視線に殺傷能力が備わることを切に願ったが、勿論そんな都合のいい力が秘められている筈がなかった。
「……だからさ、テメェの視線はマジ、居心地悪かったんだよな。断言するけど、お前が俺の事を鬱陶しがる以上に、俺の方がお前の側にいるの苦痛だったんだぜぇ?信じる?なあ、信じるか?」
かちり。
スタンガンのスイッチをようやく切って、男はゾロの顔を見下ろした。
視線が合う。ゾロは舌を動かそうとしたが、喉から妙な音が漏れるだけだった。
「さっき言ったな?『テメェは何でも出来ると思ってんじゃねえぞ』、ってよ……テメェさ、俺がさ、馬鹿だと思ってただろ」
勿論、今もゾロはそう思っていた。全力で。ゾロの全存在をかけて。
体が動かないというのがこれほどに苦痛だったとは、今初めて知った。
「俺がお前みたいなのでさえ気にかけちゃうような馬鹿だから、正義感振りかざしてパスティスに突っ込んでくと思ってただろ。ハハ」
「…………」
「良いんだ。それで良かったんだよ。そのまま、そう思ってくれてりゃ良かったんだ」
何が言いたいのか、さっぱりわからない。
ゾロのことを罵倒する前に、わが身を振り返ってみればいいのに。
自分が──どれだけ滑稽か、わかろうというものだ。
「テメェも馬鹿だよなァ。クソ甘ェ考え方に、騙されてくれりゃ良かったのに。そしたら俺は、まるでヒーローみてェにカッコ良くテメェの前から消えられたよ。あんな奴も居たよなって、感慨深く語られちゃうカンジ──テメェの『アコガレ』って奴?多分、なれたと思うぜ」
だって、テメェ、俺のこと信じてただろう?
そんな胸糞悪い台詞が男の唇から出る段になって、ゾロは男を殴ろうと腕を動かした。
動かした気になっただけだ。痺れのことも忘れていた。やはり無理だった。
わずかにうごめくゾロをなだめるように、男は殊更柔らかい声をだした。
それがますますゾロの神経を逆なでするということを、おそらくわかってやっているのだろう。
こんなに気に触る男のことなど、ゾロがヒーローにするわけがなかった。
「うわ、寒ィな。やっぱ、誤解は解いてからいくべきだな。予定じゃ。放っとこうと思ってたんだけどさ、やっぱ、ヤメにするわ」
男の服に染み付いた紫煙を、最近では特に意識することもなかった。
この部屋自体、もはやヤニの臭いに侵食されていたからだろう。
……どうでもいいことだが。
「それ位の礼儀はあるんだぜ、俺にもな」
誤解?
ゾロは男を何か誤解していたのか?
先程から、ゾロの頭の中には疑問符が浮かぶばかりだった。そして残りは純度の高い怒り。
「一般市民が不当に害されるのを見過ごしちゃあおけねェとか。クソ野郎パスティスぶっ潰すとか」
──そんな。
そんな、胸を張って言える様な。
正義感、使命感に踊らされる道化の役割を、ゾロは相手に望んでいたのか。
考えがまとまらない。思考は拡散し、手のひらからすり抜ける。
男は困ったような笑顔のままだ。
何故、こんな時にも笑うのだろう?
「ホント、そんな理由なら……良かったよなァ」
それは──誰にとっての話だ?
眼球が無性に乾く。けれど、ゾロは目だけは閉じたくなかった。
こんな、乾いたガラスのような青い瞳は初めて見る。陰りがない、といつだったか思ったことがあった。けれど、陰りすら存在しない、というのでは随分と意味が違う。
「俺はまったく、酷ェ男なんだよ」
そんなことは──知っていた。
俺は知っていたんだ。お前が非道い奴だなんて事は。
本当に……知っていた。
なのに何故そんな顔をするのか、ゾロにはまだわからない。
胃の奥が痛んで、頭の中には霞。
ゾロは声を出そうとしたが、無理だった。痙攣は治まる気配を見せず、意識を保つのがやっとだった。
男は、軽いため息をつくと、しゃがんでいた体勢から、ぺたんと尻を床につけた。
そして、綺麗でも素晴らしくも感動的でもない動機を、僅かに寂しげに語り始めた。
+++ +++ +++
「なあ……B級エンターテイメントによくあんだろ。悪役Aが善玉Bに感化されて改心するって奴」
「悪役はさ、実はそんなに悪役でもないワケよ。
やむを得ない事情で世の中を憎むしかなかったとか、そんなのでさ」
「でさ、まったく違う生き方してる善玉Bをさァ、最初は馬鹿にしてるんだけどよ。
そいつの体当たりなコミュニケーションでなんかホダサレちゃうワケですよ。
ついには一緒にいることを許容したり、依存したり?そんなんなっちゃって。
最初の尖ったカンジはどこ行ったのよアンタ誰、みたいな」
「衝突したり諦めたりしながら、距離が縮んで、丸く丸く丸くなる。誰かため、とか臆面もなく言えるようになる」
「……王道ストーリィだぜ」
「スバラシイ」
「まったく、スバラシイ。ハッピーエンドも夢じゃねェ。……俺、結構好きなんだけどな?そういう話」
「実際、そうそうねェんだよ。ハッピーエンドってよ。
みんなが満足して、全部丸く収まるのって、軽く奇跡なんだわ」
「俺みたいなヤツにとっちゃ、尚更。奇跡だ」
「だから──落とし穴は、見えねェけどいくらだってある」
「これ以上落ちるところがない場所から、ひょいっと救い上げられて、ぱっと手を離されたりする」
「なあ?」
「……楽しかったか?」
「なァ……殴りあったり罵倒しあったり──飯食ったり、買い物行ったりさァ。結構、色んな事、したろ」
「まるで『フツウ』みてェによ。笑ったり……したろ?まあ、怒った方が百倍多いとしてもよ」
「ハハハ。ウケる」
「それが、善玉Bが用意するエサなんだ。野生動物を手懐けるタメの、さ」
「まあ、善玉はンなこと計算しねェから善玉って言うんだろーけどよ。じゃあ何かって?
そりゃあ、裏切り者Bだ」
「警戒心強い奴のさ、懐に潜り込むのが得意なんだよな。Bはさ」
「落とし穴を掘るんだ」
「コツコツと」
「自分は何やってんだろうって思いながら」
「俺はな、パスティスのスパイだよ」
「ずっとだ。俺の根っこは、『パスティス』の──『アルマニャック』の方にあるんだ」
「だからさァ、ロロノア・ゾロ。テメェ俺の仲間をぶっ殺しちゃったりしてんだぜ?結構盛大になァ」
「どうだ?驚いたか?」
「テメェさ、元は素直なピュアボーイだから、騙されてきっと黄金のFEN-SUIセットとか買わされるぜ?
気ィつけろよ」
「オマケにさ、馬鹿だから。結構重大な仕事任されたりすんのに、ちっとも頓着しねェ」
「ちょっとカマかければ、いくらでも引っかかっちまうし」
「思いっきりカモだ」
「──やっぱ組織にゃ、向かねェよな」
「でもテメェは警戒心は強ェし、それに……怖ェヤツだったから、それなら全然問題なかったんだろ」
「今の今までは、だけど」
「テメェは怖ェヤツだったよ。『命知らず』で『冷血』な、人殺しマシーン。ウチの奴らもね、結構ビビってた」
「なァ、『デアデビル』」
「俺ァ、テメェを篭絡するつもりだったんだ」
「思いっきり、甘やかして、飼い殺しにする」
「命を惜しませる」
「おかしいったらねェよ。テメェ、思いっきり道化だ」
「ハハ……テメェもう、自分のこと放り出して、任務一筋になんざ生きられやしねェよ?」
「弱くなったんだ」
「鉄砲玉にゃ、もうなれねェ。自分を使い捨てにする気にゃ、なれねェだろ?」
「無様なモンさ。どっちかっつーと、カッコ悪ィ役だ」
「実際、気付いてたか?テメェ、人を殺す数、減ってるんだぜ」
「騙されてよ」
「組織の情報だって、ホイホイバラしちまうし」
「嘘っパチ言ったって」
「信じるし」
「全くよ」
「馬鹿だよなァ」
「……馬鹿だ」
「俺は」
「馬鹿だ」
「こんな夢が……ずっと続くワケねェんだ」
「……もうテメェ、怖くねェよ」
「きっと人生だって、楽しめるし」
「しあわせになれるさ」
「好きな女だって出来るし」
「飯にもこだわる様になるし」
「『死にたくない』って思えるようになるし」
「自分を甘やかせるから」
「ハッピーエンドだって、不可能じゃねェ。こんなクソキャストでも」
「テメェは真っ直ぐに馬鹿だから」
「きっと」
男は、ゆっくりと立ち上がって、
「ずっと……続かなくても」
「……俺は、楽しかったんだ」
「信じるか?信じないだろうなァ。まあ、俺も、今更信じてくれって頼むほど厚顔じゃねえつもりだよ」
立ち上がって。
「……なんで今更こんな事テメェに言ってんだろうなァ。クソくだらねェ」
「あーあ」
男は、背中しか見せずに言った。
「それが何でか、テメェにはわからねェんだろな」
「……死ぬなよ、Baby」
振り返らずに、肩越しに手だけ振った。
「Good Bye」
+++ +++ +++
ゾロは目を開けた。
全身が痛んだが、どうにかこうにか指先が動いた。いや、肩も動く。
自身の体温が移って気持ちの悪い床から一秒でも早く身をもぎ離そうと、腹筋に力を込める。
その動作の途中で、冷たい何かが手に当たった。
ひゅっ
ゾロはそれを見もせずに、その上にこぶしを振り下ろした。
ぐしゃり、と鈍い音がして──多分、ゾロの手の方が歪んだ。そんなことは、誰も気にしなかったが。
痛みよりも、その存在を許しておく方が苦痛だった。
ブーツのかかとを、それにたたきつける。完膚なきまでに破壊するために。
がぢ、がぢ、がぎん!
プラスチックの黒い破片が飛び散り、床に当たって軽い音を立てた。
ちっぽけすぎる。
「は、ハハハハっ、」
ふざけるなよ、とまずそれだけが浮かんだ。
俺が、お前を許すとでも思っているのか。
痺れが残る体を引き摺り、ドアに向かう。
忘れてはいけないのは──そう、銃弾が足りない。持てるだけ持っても、多分足りない。
銃弾の雨の中を歩いてやろう。
命を惜しむ?馬鹿馬鹿しい。本当に馬鹿馬鹿しくて、やっていられない。
ハッピーエンドなんて虫唾が走る。
ゾロの血は、冷たいままだ。でなければ生きてはいられない。
ゾロは、あの男のことなぞ過大評価はしていなかったし、自分を過小評価もしていない。
思い通りになどなってやるものか。
この胸糞悪さだけは、自分ではどうにも出来ないけれども。
防弾ジャケットを着込む。
ピラカンサ。雹月。そしてスミス&ウエッソンの代わりに、手榴弾。
夢物語が終わったというなら、ゾロにはもう未練などない。
『→みっともない涙』