another side





震える唇は、ゾロが思うよりずっと、ずっと簡単に開いた。

「泣くな」
「煩ェ。テメェが俺に指図すんな」

てか泣いてねぇ、と、涙も拭わないまま男は堂々とのたまった。

「……泣くな」
「だから泣いてねェっつってんだろ!」

テメェの野暮さは表彰モンだなこの野郎、などとキレかけられたので、ゾロはそこで大人しく頷いておいた。
そして今まで言ったことのない台詞が、無造作に転がり出てくる。

「……嫉妬、してんだ」

ぽかんと開けた口が間抜けだったので、ゾロは笑顔らしきものを浮かべようとしたが、彼の表情を見る限り失敗したらしい。ゾロはかまわず続けた。こんなに喋るのは何年ぶりなのか、自分でも良くわからなかった。

「本当の所、俺は──お前が妬ましかったんだと、思う」
「はァ?」
「おう。きっとそうだ。だからムカついた……」

ゾロは自分が少年漫画のキャラクターになったような気がした。
随分と恥ずかしいことを言っている気がするのに、まあ良いかと思えるのは、目の前の男の方がもっと恥ずかしいことをしているからだろう。

それも甘えなのか?
ゾロは声を上げて、笑った。

「実を言えば、今もムカついてる」
「そりゃ良かった。俺もだ」

霧雨は、勢いを増し、既に二人ともずぶぬれと言える。
ゾロは空気に触れて粘度の高くなった自分の血が、雨に溶けてゆっくりと流れていくのを見ていた。男の目に向かって話をするのは、今はちょっと出来そうにも無い。

「お前のそれは偽善に思えて、どうしようもなくムカつくんだ。はっきり言えば、勝者の余裕に思える」
「……勝者、ね」
「だってお前、相手に殺されるかもって時に手加減できたら、そりゃ手加減しても殺されねぇくらい強い奴だけだろ。小銭も持ってねぇ奴が、募金箱に近寄れるか?」

恵んでやる、と。

「相手に優しく出来んのは、同情する余裕がある奴だけだろう」
「テメェにしちゃ頭を使った例えじゃねェか」

男が否定しなかったのは、お互いにとって僥倖だった。
ここで「そんな事はない」などと言われたら、あんまりにも酷過ぎる。それは何処までも自分の位置を高める為の台詞に思えて。
つまり──自分は、卑屈なのだろう。ゾロは多分、それくらいは前からわかっていた。

「……お前が、野良猫に餌でもやるみてぇに、俺を甘やかすのが嫌だった」
「うん」
「お前にとっては簡単な事が、俺にはどうしても出来ないのに。それを認めるのも嫌だった」
「うん」

痛いな。
手が痛い。きっと目の前の男も痛いだろう。その事実には、素直に頷けるのに。
それは、負けたくないと言うこと。

俺に同情するな。
俺を見下すな。
俺は、可哀想なんかじゃない。

ゾロはいつだってそう叫んでいた。
だから、何に対しても無感動で、強靭な意志を、見せびらかすようにちらつかせた。

俺は好きでこうなんだと。
一人で居させてくれ。

慰められるのが一番嫌いだった。
それは、俺が傷ついてるって事だろう?
勘違いをするなと、大声で言ってやりたかった。
その気遣いこそが、俺をこの上なく苛立たせる。

君の力になってあげるよ、なんて何様のつもりだ?

「俺が助けてやる、なんてヒーローみてェな面が嫌いだった。説教なんて聞いたらぶん殴ってやりたくなった……実際、今だってお前の顔面ヘコませてやれたらスゲェ気持ち良いだろうなんて考えてる」
「うん」
「ムカつくんだ、お前」

ゾロは寄りかかっている壁に拳を叩き付けた。
彼に向かってそうしなかったのは、もう殴り飽きたからだ。殴っても──へらへら笑うからだ。

「畜生、お前こんな事しなくたって生きていける癖に、何だよ、野良犬に餌やる為にここにいんのかよ。そんで自分の手ェ噛まれて使いモンになんなくなっても全然平気だなんて、その態度が一番許せねぇ」

お前の大切なものを、何故捨てられる?
俺が、そんなに助けを必要としているように見えるのか。

せっかく作り上げた強がりを、懇切丁寧に、扱いの難しい楽器を手入れするように気を使って、見事にへし折るその傲慢さが。
そしてそれが、完全に相手の為だと思っていて、そこに嘘が無いそのお綺麗さが。

まだ──まだ、自分の強さを見せびらかす為にそうしてくれた方が、良かった。
聖母づらして目の前で微笑まれると、気が狂いそうになる。

人を救ってやるなんてそんな大言壮語、神様が言ったって許せそうも無いのに。

「テメェは──俺の前でだって簡単に泣ける。そういうの、全部晒したって、余裕でいられる……!」

弱さを見せても痛くも痒くもないなんて、そんな強さを誇示しないでくれ。
それは、相手を塵ほどにも脅威に思ってないからだろう?
この、俺の前でさえ。

「畜生。何で俺には出来ない?」

堰を切ったように、言葉が止まらない。

「──俺は十になる前に、人を殺した」

男が口を開くのを恐れるように、ゾロは間を取らずに続けた。
別に、その事実としては、今更夢にうなされるようなものではない。

「早いだろ。でも俺は間違っちゃいない」

ゾロはそのことはとっくに知っている。
自分が悪いわけではないのだと。

「自分が助かる為なら良いと思った。そうだろ、そりゃ正当防衛だろ、法律的にだって許される。誰も俺を責める事なんて出来ないだろう!」

怖かった。

「俺は悪くなかった。そもそも未成年だし、パニックになってたし、女は警察に追われてた。俺を人質に取りやがったんだから、俺は悪くなかった……俺は」

そうじゃない。

「違う。正当だとかそうじゃないとか、責任とか、そういうんじゃない。只」

事実として、ゾロを傷つけるのは。
只。

「その女の銃に、弾は一発も入っちゃいなかった……!!」



ごめんなさい、と。
謝られた。

──それは同情か?



「俺が殺したのに!俺が殺したんだ!!良いんだ、俺は生きる為にそうしたんだ!それが勘違いでも、何でも、俺はその時、俺のために、俺のために、俺のために──ナイフを振るったのに」

錯乱しているのかもしれない。
唇が、舌が、喉が、声が止まらない。
何を言っているのかもわからない。

ひりひりと疼く。からからに乾く。

「でも俺は」

あの目が忘れられない。

「後悔……」

したんだ。
正しいとかそうでないとか、仕方なかったとか、そんな事じゃない。
他人に何を言われようが、動かせないことがある。
慰めて欲しいんじゃない。開き直りたいわけでもない。

「……泣きたいんだ。お前みたいに」

混乱のまま、さっきつかんだばかりの答えを取り出す。

「俺は泣かなきゃいけなかった」
「────」
「それが自己満足でも、何でも良いから、俺は泣きたかった。あの女の為に泣きたかった。泣くべきだった」
「────」
「なのに何で……俺はまだ人殺ししてる?もう」

俺が生き延びる為にでもないのに。

「何でだ。オイ、答えろよ」

一度暗闇に入って、もうそこで過ごすしかない。
だから強くなろうと思った。間違いだったのか?
生きる。何の為に?呼吸する為か?

「何でだ……!」

ゾロは震えた。雨が肩に重過ぎて、眠ってしまいそうになる。
呆れたように、その男は言った。

「──テメェは本物の馬鹿だな。ベストオブ馬鹿。むしろ光ってる馬鹿」

ぼかり、と頭を殴られた。
生暖かい血とやわらかい千切れた肉の感触がしてかなり気持ちが悪い。

「無理して泣こうとすんじゃねェよ。何だよソレ、面白い系の苦行か?俺なんかを羨ましがりやがって、畜生はこっちの台詞だ。この馬鹿」

男は不機嫌だった。いつものように、と言ってしまえばそれまでだが。
少なくとも、大人しく話を聞いてくれたのではないことは確かだ。

「ふざけんなふざけんなふざけんな、さっきから黙って聞いてやったけどクソふざけんな。俺は、野良犬に餌ァ遣らなきゃ生きて行けねェんだよ。悪いか?ソレが悪ィってのか?何様のつもりなんだこのマリモマンがよォ!」

ぶおんっ

空気を鋭く切り裂いて、瞬殺の蹴りがいきなり襲ってくる。
ゾロは目を見開いてそれをよけた。どうしてこういう展開になるのかさっぱりわからない。多分、馬鹿同士だからだろう。

「知らねぇよ同情だとかそうじゃねぇとか、そんなんテメェが勝手に決めて落ち込んでるだけだろうが勝手にどん底に穴掘ってまだ追及しやがってよ!ああ哀れんでるのかもだよな、知らねぇっつっただろテメェがどう感じるのかなんてよ!ソレが悪ィのか?ああじゃあ悪いってことにしてやるよどうも済みませんでした!ボケ!」

それはどう見ても謝っている態度ではない。
三発目の蹴りが壁にめり込んだ。ゾロは雹月を抜くか本気で迷った。

「只、余裕こいてるってのは訂正しろ、余裕があるから俺はテメェに餌を恵んでんだと?軽いスナップで骨投げてると?そう思われるのは我慢がならねぇ」
「……じゃあ何だって言うんだ。俺が、命知らずの『デアデビル』だから、それを放っておけずに」
「うだうだうだうだ理由を付けたがりやがって、クソ馬鹿が!自意識過剰なんじゃねぇのか?テメェを特別視するのはそろそろ止めろ、うざってえ」

男は、するりとゾロの懐に入ると、蹴りを入れると見せかけてゾロの腰から『ピラカンサ』を奪った。

「!」
「仕方ねェじゃねェか!」

彼は、追い詰められたチンピラのように無様に怒鳴った。

「そうしなきゃ俺でいられねェんだから!交差点でトラックに巻き込まれそうなガキ助けるのは、ソイツが俺より弱いからか?大人だったら助けねェのか?例えばテメェだったら何とかするだろうって、俺は放っとくのか?俺が、守れるかもしれないものを(・・・・・・・・・・・・・・・)?」

セーフティはいつものように掛かっている。
彼はそれを慣れた手つきで外して見せた。取り戻すために殴りかかるが、距離を取られる。

「それが俺の死だ!何でそうするかって、そうしなきゃ俺が生きて行けねェからだ!」

まるで餓鬼だ。
そうか、これがさっきまでの自分の姿かと、斜め後ろで妙に冷静な声がした。

「誰が好き好んで痛かったり面倒臭かったりの場面に首を突っ込む?大事な手をボロクソに扱う?俺が生きられる理由ってのがあるなら」
「────」
「俺は……この世の全てのレディが、腹空かせてる奴らが、それから、それから――俺と、俺が守れるものがなきゃ、駄目だ」

そういって、彼は。
その金髪に迷いなく、銃口を押し当てた。

「この銃が俺に撃てるか撃てないか、試してやろうじゃねぇか」








パフォーマンスなんかじゃあ、ない。
本当にぎりぎりで、余裕なんか残さずに。

全てを、賭けて惜しくないと?


やっぱりコイツはキチガイだと、ゾロは思った。








「馬っ……!!」

ごがあん!!


ああ。
こういう風に必死な自分は、あまり見たことがない。













「……ほら、助けたろ?」

にやりと笑う口元を、ひねり潰したくなる。
つかみ上げた手首に、生暖かい液体が零れる。
混ざる、と何故か思った。

「俺が可哀想だから、助けたのか?」
「…………」

人の神経を逆なでする才能を、目の前の男はフルに発揮している。

「それとも哀れんだから?弱いからか?」
「……黙れ」
「だから自意識過剰だっつったろ。テメェが嫌だからだろうが。それ以外に理由があるか?」

ゾロは、長い指先から乱暴に自分の銃をひったくった。
どうしても、乗せられている気分が抜けない。

「俺は、自分がスゲェ我が侭だってのは知ってるし、上手くやれねぇ事の方が多いって、知ってる」
「……お前は」
「テメェは俺が羨ましいとかほざいたけど、俺は人格者じゃあねェぞ。聖職者でもねェ。優しい言葉が聞きたいなら教会にでも行ってろ」

びしり、と目の前に指を突きつけられる。

「間違っても、俺がテメェを甘やかしてるだなんて幻想は口にするな。俺が、許すだとか癒すだとか、ンな神父様みてェな台詞言った事ァねェだろう?」

男は、疲れたように肩を落とした。
それを見て、ゾロは、自分は何を期待していたのかと思う。

別に、彼はゾロの上に居たのではなかった。そんな上等な人間では。
上手だと、思い込んでいただけなのか。

「そんで……テメェだってタダの男だろ」

しばらくの沈黙を挟んで、男がぶっきらぼうに言った。

「別にカミサマなんかじゃねぇだろ」
「……確かにな」
「だから傲慢なんだぜ?俺は出来なきゃいけねぇなんてのはさ。泣いたりとか、目標持ったりとか、吹っ切ったりとか、テメェそんな器用に世の中渡って行けると思うなよ」

わかんねぇかな、と言って、男は濡れた前髪をぐしゃりと掻き揚げる。
咥え煙草の口元で。


「しあわせになれっていってるんだ」


それだけでいい。
無理に泣かなくてもいい。

「馬鹿みてぇに、テメェ自分のコトなんか全然考えてねぇ」

いつも、無造作に投げ出して。自分を卑下しながら苛めて、落ち込んで。
いっそ曲がってしまえば良いのに、何故か真っ直ぐに。

「見てて苛つくんだよ馬鹿。なんでそんな前向きに後ろ向きな生き方してんだよ」
「だって俺は──別に」
「積極的に呼吸する気がねぇってんだろ。ああ、テメェは理由大好きちゃんだったな」

なんだか、そういう風に言われると頭に来る気がする。
ゾロはぶるりと体を震わせた。雨と出血に体温を奪われて、凍死も可能ではないかと思える状況。
──多分、目の前のムカつく男もそれは同じなので、絶対に自分が先に弱音を吐いたりはしないけれども。

「テメェが何の為に生きるかって言ったな?さっき」

殺すのはもう、自分の為でもないのに何故と。
何の為に?何をして?本当にしたいこともないのに。

男は一言で、全て完結させた。

「知るかそんなん。クソボケが」

理由なんて、そんなもの、誰だってはっきりとはわからない。何を言ったって、それは言い訳でしかない。むしろそんな事、恥ずかしくて素面じゃ言えもしない。
只、嫌なことは嫌で、好きなものは好き。

「生きるために、生きろ」


しあわせになれる、はずなんだよ。







それから彼は、別人のように優しげにわらった。

「守れよ」
「……何を」
「全てじゃなくていい。何か、大切なモンをさ。守ってみろよ」

大切な、もの?

「自分の命だって惜しくなるさ」

ふわり

伸びてくる指先。
抱きしめるように首にまわされそうになった腕に、一瞬体が警戒する。

「っ……!」

振り払おうと。
しかし、ゾロは力を抜いた。

ここで何を言っても、また百倍になって返ってくる。
ゾロが好き勝手するのを、許せないと好き勝手する我侭をどうして論破出来ないのか、多分押しの強さだろう。

馬鹿馬鹿しい。もう面倒くさい。どうしようもない、この頑固者。
……好きにすりゃあいいじゃねぇか。



ごすんっ!



そして眼を閉じかけたゾロを、衝撃が襲った。
完璧に無防備だったみぞおちに突き刺さる膝。目の前でにやりと笑ってみせる口元。

青い目が、悪戯に成功した子供のように笑う。

「テメェ、もしかして俺が暖めてやるとか思ってたんじゃねぇだろなァ?クソ寒ィぜその思考」

畜生め。
霞む意識の中で、ゾロは悪態を吐いた。

穏やかな声が、その瞼を閉じる。



「Good night, baby」




ああ、容赦のない受容とはこういうものだろうか。








→『なり損ない聖人君子。』