ヒーイズノットクール。
another side
霧雨の気配が鼓膜に纏わりついて、目の前の男の手から滴った雫の着地音すら聞こえない。
どんなに長い間構えていても震えない銃口など、あるのだろうか。
彼に唇を開かせるな。
わかっている。それが自分を抉る何よりの凶器だと。銃口より、震わせてはいけない人差し指。
ぱん
乾いた音と振動だけが、はっきりと体に突き刺さる。
目が痛い。けれど涙は出なかった。
+++ +++ +++
引き金を引く。右で一回、左で一回。
弾ける標的。後ろから刺さる何か言いたげな視線。
『………………』
何を言いたいのかなどわからない。きっと、向こうだって何が言いたいのかなんて本当はわかっていない。
だから言ってこないんだろう?
ゾロにはそんなことに構う暇も余裕もなかった。銃を仕舞い、目の前の光景に対する感想も切り捨てる。
『制圧』
『──制圧』
僅かに遅れる言葉。これもいつもの事だ。
ゾロは振り返って、周りには相棒と目されている他人を見た。というよりは、自然に目に入った──コンクリートの壁や安い蛍光灯と同じに。
男は精一杯の無表情を顔面にはりつけて、ゾロが作った肉塊を見下ろしていた。
一般人が見れば精々冷酷に見えるのかもしれなかったが、ゾロは彼が死者に向かって短い黙祷を捧げているのだと見抜いている。
(……好きにすると良い)
とんだ茶番なのではないかと、いつも思う。
ゾロは謝らない。祈りもしない。
そんな事をするくらいなら、元々しなければいいだけの事だ。
自分を殺した、その相手に謝られたり、十字をきられたりして嬉しいだろうか。
もしゾロがその立場だったら、たまらないだろうと思う。殴り飛ばさずにはおれまい。
後悔するなら、しなけりゃ良いじゃねぇか。
──勿論、世の中がそんな風に単純に出来ていてはくれない事くらい、ゾロはもう子どもではないので解っている。
只、自分が厭なだけだ。そんな欺瞞は。
(好きにすると良い)
優しい男なのだと思う。
多分、自分と一緒にいてそぐわないくらいには。
そう言っても無駄──むしろ何度かは実際言ったので、もう口にはしない。
男はゾロの内面には無遠慮に踏み込まず、それでも包み込もうとするような努力は見せている。
勿体無いな。そう思う。
もっと、有意義な事を気にかければ良いのに。
そう言ったら本気で怒ってみせる事は予想が付く。面倒なので胸に仕舞っておく事にしている。
仕事は終わったので、足を前に踏み出す。すれ違う瞬間に、名を呼ばれた。
『ゾロ』
『何だ』
零コンマ三秒の空隙。
『…気にするなよ』
微妙に引き攣った声音でそんな事を。
ゾロは一瞬だけ眼を閉じ、もう一歩足を出した。
それは、優しさのつもりなのだと思う。
(安心しろ。悪いのはテメェじゃないさ)
男が、ちっともゾロの力になれないからといって、ちっともゾロの生き方を変えられないからといって、それは男の責任ではない。
ゾロは男に苛立ちはしなかった。男は控えめで、軽口を叩いてゾロのそばに寄ってきても其処には気遣いがある。
すたすたと出口へ向かう。
男が、擦れた声で何か言った。
それは多分、ゾロに聞かせるはずではない言葉だったのだろうけれど、鋭敏な耳は事もなくその振動を捉える事に成功している。
『……仕方ないじゃないか』
ゾロは足を止め、くるりと振り向いて、男を見た。
その背後に横たわる、ゾロがした作業の後も。見開いたままの眼も硝煙臭い血溜まりも。
見た。そして微笑んだ。
『仕方ない?そうか、仕方なけりゃ良いのか』
初耳だ。
+++ +++ +++
見据えれば、蒼い眸はきっと笑っているだろう。
それに耐えられない。
引き金を引く瞬間、ゾロは眼を閉じた。
もういないあの男に向かって呟く。
彼の眼は何色だっただろうか?確かに一緒にいた筈なのに、もう思い出せなかった。
仕方ないのか。
(……だったら、これも仕方がねぇ事だろう?逃げりゃ良かったんだ)
湿気て頭皮に張り付くような髪。
自分の利き手か相手の命を奪うトリガー。
要らない手間はかけない。
躊躇するつもりも時間も、ない。
(───だって俺だって、 いんだから)
ぱん
真っ暗になった視界。
手に鋭い衝撃が走った。
(暴発か)
瞼を開きかけながら、事実を把握しただけの言葉が脳裏を過ぎる。
無理もない。半ば覚悟していた事だ。
それより、この後の始末をどうつけるか──
「……全く、この記録的馬鹿が」
あまりにも近くで聞こえたその声。
はっきりと開けた瞳に映ったのは、生々しく赤い血と怒りに燃えた蒼。
感じたのは、手の平の熱。
喉が詰まった。
状況がわからずに、阿呆のように口を開けて間抜け面を見せる。
「クソ野朗が。テメェで無様晒して指差して笑って欲しかったのかよ?何とか言え、コラ」
痛い。暖かい。
眼に映るものを必死で判断してみる。何度見ても答えは変わらない。
爆ぜ割れた銃身を握り込んだままのその指は、大事にしていたものではなかったか。
弾けた鉄の塊を握る二つの手。
同じように赤い血が混じって、アスファルトへと滴る。
皮膚が焦げる異臭が鼻を突き、やっと我に返った。
「──何してっ」
「煩ェ」
銃身から白い湯気が上がる。周囲の霧雨が熱で蒸発しているのだ。
目前の男が空いた手でこめかみを擦って、舌打ちをする。破片でもぶつかったのだろうか。
「湿気てなけりゃ、ヤバかったな」
眉を顰めて、そんな風な言葉を吐く。火力が弱まっていた為、手首を吹き飛ばされずに済んだのだろう。
ゾロは混乱した。何の為に、そう、本当に何の為にこんな事をするのかがわからなかった。
「ふ」
べり、と音を立てて、ゾロは原型を留めぬ鉄の塊から手の平を引き剥がす。
痛みはちゃんと感じた。今はどうでもいい事だ。ずる剥けた拳を握り、思い切り振り回す。
「ふざけんな!!!」
狙い違わず叩き込む。
男の頬がゾロの血で赤く染まり、しかし彼は倒れず踏みとどまった。
──いつかのようには、倒れてくれなかった。
(意味がねえだろう)
こんな事には。
ゾロは唇を噛んだ。噛み切ってしまいそうだった。
黒いスーツの袖で流れる血を拭い、男は拳を振ったのが見える。
だがそれを理解する暇はなかった。
がっ
てっきり靴が降ってくると思っていたゾロは顔の真ん中にそれを食らい、一瞬脳裏に火花が散る。
「ふざけんなはテメェの方だ」
せせら笑う声音で、でも表情が裏切っていて。
蒼い炎のように、その視線がゾロを焼く。
「テメェ、落ち込んだ時いつもこンなコトしてんのか?ワーオ、なんてお約束なんだマゾ野郎」
男のヒステリーは見苦しいぜ。
ゾロは壁に寄りかかったまま、その罵倒を受け止めた。その通りだと言う自覚は有る。
だが。
「……そのマゾに付き合って血ィ流してちゃ世話ねえだろうが」
拳に張り付いていたSmith&Wessonの破片を払いのけ、ゾロは震える唇を開いた。
痛い。痛い。痛くてたまらない。
逃げ出したくて、たまらないんだ。
「うぜぇんだ。失せろよ」
「ヤだね」
返答は迅速だった。
闇に混じらない金色が、気取って横に振られる。
足元が不安定で、ゾロは少しよろけた。
どんなに考えたところで、理解できない。
「テメェは、気でも、違ってんのか……?」
血に塗れた利き手を、ゆっくりと開いて顔の上に乗せる。表情が隠れて、相手の顔も見えないから丁度良い。
本当にわからなかった。こんな行動の理由。
マゾのヒステリーに首を突っ込んで自分から大事な手を潰して。
ゾロを情けなくさせる為だけにそうしたなら、余程の馬鹿だ。効果抜群の、捨て身の嫌がらせだ。
男は苛立たしげに鼻を鳴らし、視線を尖らせる。
「そりゃテメェだ。クソマリモ。……自分の手ェ吹き飛んでたらどうするつもりだった」
「……そんな事は」
「───考えてなかった、か?それともどうでもイイか?」
男は、唇を歪めた。笑いではなかった。
「血が出たって構わねェか?撃たれたって気にしねェのか?何処まで格好つけやがる……ハ!クソふざけんな!」
潰れかけた指の隙間から、視線が交錯する。
熱くて冷たい、不思議な温度のそれ。
男は、泣き笑いのような表情で言った。
「……テメェは自分が死んだって、気が楽にしかなんねェのか」
頭がくらくらする。
胃が痙攣して、何かを吐き出そうとした。
痛い。何処かがどうしようもなく痛い。
「んで……」
言葉が続かない。
「……なんで!俺を放っておいてくれない……」
惨めだ。本当に、惨めだった。
いっそ、本当に指差して笑えば良い。
顔面に貼り付けた手の平に力を込める。
べたりとした自分の肉の感触。鼻筋を辿って落ちる雫。
唇の端から鉄の味が忍び込んで、痛みすら掻き消される。
ごっ
再び渾身の力で殴られて、ゾロは後頭部を壁にぶつけた。
視界がぐらぐらと揺れ、膝が笑う。拳を握って俯いた男の長い前髪が、その眸を隠す。
「……何の為、何の為って煩ェなァ。ンなに理由が必要かよ」
男は血まみれの手を持ち上げて、見せ付けるように囁いた。
馬鹿にはわかんねぇのか。じゃあ説明してやるから一発で覚えろ。
覚えなかったら……何度でも、殴ってやる。
ゾロは反論しようと声を上げた。
「だってテメェにゃ関係ねぇんだ……!」
「──そうだな」
冷えた声。
一緒にやってきた衝撃。びちゃり、と異音と共に拳が腹に突き刺さる。
吐き気が込み上げ、ゾロは軽くえずいた。
「テメェの痛みはテメェの痛みだ、テメェにしかわからねぇ」
男はゆっくりと拳を引いた。
ゾロの腹の上に残る、やはり赤い跡。
「ただな」
破れた皮膚の間から覗く肉。冷たい視線。
ゾロの内側で何かが疼く。耐えられない──こんな光景には。
「……テメェを見てると、俺が痛いんだ」
「ソレは、俺の痛みだろが!」
ぽた、ぽた、と。
雨でない雫が、落ちる。
言いたい事ばかり言う目の前の男に、ゾロは腹が立った。
でもそんな事よりも、もっと気にするべきことがある。
ゾロは呻いた。
本当に、本当に、この男は。
訳がわからない。
「……なんで」
血に塗れた赤い頬を辿って落ちる雫。
それを拭いもせず、恥もせず、真っ直ぐにこちらを見据えてくる蒼。
声が、震えた。
「なんで」
「俺の前で…そんな風に泣ける……?」
意地を張る自分の方が、まるで馬鹿みたいだ。
ゾロは渋々そう認めた。
見苦しく、気負いなく。
ガキみたいに無様に無防備に、只。
そんな風に、泣いてみたかった。
ずっと、そうだったのだ。きっと。
あの時から。
走り逃げ始めてしまった、あの時からずっと。
→『至って普通の目標』