パン屋になりたかった。






another side




つまり、重要なのは。
強くあることだ。







ぱんっ

気の抜けたような音が上がり、盾にしていた瓦礫が弾ける。
まさかその破片が目に入るなどと思ったわけではないが、反射的に少しだけ目を眇めた。
風雨に褪せた薄汚れた壁。ところどころにひびが入ってはいるが、鉛玉くらいは防げる。よほど運が悪くなければ、だけれども。

弾除けの影にうずくまり、首だけ出してターゲットを見据えた。途端向けられた銃口に、さっと首を引っ込める。それは元から予定していた動きだったので、ゾロの頭ははじけずに済んだ。当たり前だ、これ見よがしに体を的にする気はない。

しかし埒があかないな、とゾロは少し眉をしかめた。

時には根気が必要なことくらいは理解しているが、無駄な時は何をどうやったところで無駄なのだ。勿論それは保身の為ではなく任務の成功が目的で発揮しているのだろうが、こういう場合に尊ばれるその慎重さというものが、時に酷く気に障る。
ここにこうして隠れている限り、事態の進展は望めない。ゾロは勝手に断定した。

───実は、そんなことはないのだろう。伺っていれば、機はいつか巡ってくる。それを逃さなければいいだけなのだ。
ゾロは無意識にでも、理解はしている。むしろ、そのほうが正しいとわかっているから逆らおうとしているのかもしれない。真に気に入らないのではなく、ただ反抗したいから反抗するという反抗。ジュニアの生徒と同レベルだ。

なんとない、衝動なのだ。

一気に、片を付けたい。
何故自分はこんなところにいる?

ターゲットとの間にあるのは壁だけだ。ゾロはそれに身を隠しているが、相手は隠していない。
だから、ここからしっかり相手を確認して、一発撃てば銃弾はゾロの期待を裏切らない結果を示すだろう。
ただ単に、相手を仕留めようとここから身を乗り出した瞬間に致命的な隙ができるというだけで、むしろゾロは有利なのではないか?

そんな気がしてきた。

頭の中で、鬱陶しい誰かの声が聞こえる。
危険を顧みない奴はただの馬鹿だ。
自らの力を過剰に捉える奴はただの馬鹿だ。
相手を見くびる奴はただの馬鹿だ。
自分は死なないと思っている奴は、ただの馬鹿だ。

そんなどこかの誰かがそこらでいつでも吐き散らしているような教訓を、今更持ち出されるのは気分が悪い。
やりたいときに、やりたいようにすればいい。それが自分だ。


───いちかばちかの賭けに勝つということは、そんなに大事だろうか?


もう、自分の人生の岐路はとっくに過ぎ去ってしまったというのに。
こんなちっぽけな判断であれこれ迷いたくはない。

ふと、無造作に立ち上がった。
ざ、と一歩踏み出す。完全に体は壁からはみ出た、これ以上ないほどの的だ。

突き刺さるのは驚愕の視線。
男は口をOの字に開いて、あっけに取られた。見るからに間抜けな表情。

そんなことをしている暇があったら、さっきみたいに引き金を引けばいい。
『考える時間』などを行動の間に挟んだら、待つのは終わりだけだというのに。


本当に、間抜けな表情だ。この世に馬鹿がいることを考えていない。


そして、自分が馬鹿だということもわかっていない。
当たり前だが、ゾロはその一瞬の隙を逃しはしなかった。


「…………」

がぁんっ!がぁんっ!!

至極無造作に、引き金を引く。左右で、二回。
びりびりとした痺れが両腕を這い登ってきた。もうその感覚には慣れきっている、電話をかけたらベルが鳴るくらいに自然なものだ。

痺れは無視して(そもそもそれを殊更確認などしていない)、ゾロは銃を構えたまま倒れ付した男を見下ろした。
じわじわと砂埃を浮かせて広がっていく赤い液体。取り落とされた、同じような殺傷のための武器。
なんだか、まるで『出来すぎた光景』だ。

そうだ、さっさとこうすればよかった。楽なことだ。単純でもある。

照準は付けたまま、まだ外してはいない。
ゾロは、もう二回だけ引き金を引いた。人差し指に力を入れて、親指に力を入れて。今度は左手でまたその繰り返し。

そう、息は吸ったら、吐かなければならない。
そして吐いたら吸わなければならない。

がぁん!
がぁん!!

男の体がわずかに動く。勿論食い込んだ銃弾の反動だ。広がる血の速度が増したかもしれない。
それでもゾロは念入りに、今度は近づいていって男の体を蹴転がした。ごろりとあお向けになった男の顔を見やる。

勿論絶命していた。

ゾロは知らず溜め息を吐いた。
何に、とは考えない。そのようなことは、やはり考えないほうがいいのだ。多分ゾロは本能でそれを理解している。

いつものように、速やかに銃を腹巻の中に仕舞う。暴発防止のために、安全装置をかけて。
抜いた瞬間すぐ発砲できるように、セーフティはかけない奴もいる(というより、そうする人間のほうが多い)。それは知っているが、ゾロはいつでもきちんと安全装置をかけた。
何故なのか、はやはり考えない。これも、考えてはいけないことなのだ、きっと。

何のことはない、いつも通りだ。
す、と息を吸って、ゾロは低く呟いた。

制圧(クリア)
「アホかぁーーーーーーーっっ!!!」

ばきゃあっ!!

椅子の足でも折ったような音が首の後ろで響き、ゾロは一瞬だけ火星を見た。
次いでゼロコンマ一秒間ほどの間、閃光が世界を覆う。

「………っ!!」

がくん、と前につんのめりそうになったところを気合で踏ん張る。
白濁しかける視界を意志の力でクリアにしながら、ゾロは極限まで低い声で唸った。

「テ、メェ」

十分な助走で勢いを付けた、飛び蹴り。
常人なら首の骨が折れてしかるべきである。

勿論、それを仕掛けたのは金髪スーツの優男だ。
振り返れば、何故か怒りの表情でこちらを見ていた。

この男の行動は理不尽すぎる。
文句を言おうと口を開きかけて、止めた。

何もかもわずらわしい。
こんなことくらいで自分が言葉を費やす義理はない。


怒りを、覚える義理はない。


そうだ、何を躊躇っていたのだ。無視してしまえ、こんな男。
切り捨てて、振り返らなければいい。

馴れ合うことが出来るなど、勘違いさせておいたまま野放しにしていたのがそもそもの失敗だったのだ。
ゾロは首の後ろを一撫ですると、表情もないままで彼から視線を外した。

「待てよ」

そのままさっさと立ち去ろうとしているのに、肩を掴んでくる。
ゾロは溜め息は吐かなかった。一度決めたことは、迷ったりしない。

「調子に乗るな」

振り返りざま、硬く尖らせた拳を男の顔面に叩き込む。

「!!」

非情にあっさりと、まるで拍子抜けするくらいに簡単にそれは成し遂げられた。さっさとこうすればよかった、と少し後悔する。
人形のように、左頬を張り飛ばされて男が吹き飛ぶ。
背中から瓦礫の上に叩きつけられ、バウンドするその様を最後まで見届けず、ゾロは肩を払うと前を向きなおした。

そしてそのまま最後の施しに、一言忠告してやる。
最後通告、とでも言うのだろうか?

「次に俺に声をかけたら、殺すぞ」

苛々する。気に障る。前からわかっていたことなのに、新鮮に目障りだ。
派手な頭をちらつかせて、自分に寄って来ないで欲しい。

幾分か気分が爽快になった。
ゾロは一歩足を踏み出した。

「待てっつってんだろ………アホハゲ」

だが、当たり前のように声が追ってきた。まるで、本当に気安く。
耳がないのかもしれない、とゾロは本気で思った。ならば、何処かで息の根を止めて埋めてやるしか仕様がないのだろうか。

男は切れた唇を拭って、スーツの裾をはたいた。煙草をくわえて火をつける。
そうしたら、まるで元通りになった。頬はまだ、腫れるほどの時間も経っていない。

ゾロは真剣に聞いてみた。

「頭が悪いのか?」

男は真面目に返した。

「そりゃテメェだ」

深く長い溜め息を吐く。金色の髪がわずかに揺れた。
そして彼は細長い指を突き出して、一点を示す。

「更には痛覚もないときた。やっぱマリモだ」

その指の先をたどって、視線をめぐらす。自分の左肩にたどり着いた。先程彼を殴ったのは右腕だ。
そこは、先程石畳に広がったのと同じ色の液体でぬらぬらと濡れていた。それは自分の体温と同じなので、流れても気付きにくい。

ゾロは右手でそこを覆ってみた。すると鋭い痛みが走る。だが、それだけである。
貫通しているな、と思った。

痛覚はきちんと機能している、この男は馬鹿だ。痛みを感じないということがあるわけがない、無視できるだけだ。
多分先程の男が絶命する前に放った弾が命中したのだろう、だが致命傷には程遠い。放置しなければ障害も残らない。

ゾロは興味をなくして傷口から目を離した。

煙草をいったん唇から外し、彼が煙を吐く。
その薫りすら、いちいち癇に障った。ゾロの不快指数は増す一方で、一向に改善される気配がない。

過剰なストレス。
過剰な嫌悪感。
どうしようもなく、黒いもので胸がうずく。予感かもしれない。

自分の前から余韻も残さず消え去れ、と切実に願った。

「後な、さっきっから徹底的に勘違いしてるみてぇだから先に言っとくが」

かつかつと、硬い地面と革靴の踵が接触する音がゾロの鼓膜を妬く。
その存在の全てが、神経を逆撫でする。

目の前に立って、その男は呆れるくらいに普段通りの視線を向けてきた。

そして一言。紫煙と共に吹き掛けられた。



「キレるくらいに怒ってんのはテメェじゃねぇ。俺だ」



がっ!!

その言葉が終わらないうちに、ゾロの拳が再び彼の頬を捉える。
先程よりも数段冴えのあるその一撃は、黒スーツを中身ごと地面に擦り付けた。

じん、とゾロの拳が痺れる。慣れた銃の反動よりも鮮明に。

この男の言葉など、聞きたくなかった。
蒼い瞳の中に闇など何処にもない。
いつも前を向いて胸を張って歩いて。

そんな男が側にいるだけで虫唾が走る。

───ましてや気遣う言葉など!!

「………………………」

伏した男の、唇が曲がった。
そして開く。

「───テメェさ、頭、オカシイよな」

気持ちが冷えていく。ゾロは一時的に表情筋の動かし方を忘れた。
金髪に混じった砂利を軽く落として、男が上半身を起こす。

ゾロを見据えて、わらう。

「いっつもさ、いかにもだよ。俺はクールでタフな殺し屋デス」

口の中に入った砂を吐き出して、男は笑い続ける。快活に、と表現しても間違いではないかもしれない。
ゾロは目を細めて、彼に近づいた。銃は一瞬で取り出せる。

「大事なモンなんかねぇんだ、干渉なんざ鬱陶しいか?体なら幾らでも傷付けて、その癖ちょっとでも侮られたら牙向いて。人殺した後はしばらく一人で鬱入ってんのも知ってる、自分は自分は自分は自分は本当にこれでいいのか、いやこれ以外に道はないって、もうお決まりの反復。それ惰性って言うんだぜ知ってるか?」

一歩。二歩。
男はしりもちを付いたまま動かない。
ゾロを見上げて、再び煙草をくわえて火を付けて見せる。先程のはどこかにいったらしい。

唇には、笑みを。
嘲笑か。冷笑か。それとも嗜笑か?

「テメェの手が血に濡れてるとか。痛みも感傷も麻痺しまくりで、ホント情緒が動かねぇとか。それがお似合いだっていう自虐とか」

は、と彼は鼻を鳴らした。

知ってるよ。そんなん。
だから全部投げ出してんだろ。他人だって近寄らせない。

そうしなきゃならない自分、ってのを作ってる。寡黙で、孤独で、罪深く、救われない。
そんな空っぽを弄んで、体裁取り繕ってんだ。

「もう執着もなんもねぇ。テメェのその体、いくら切り刻んだってテメェ惜しくないんだろ。だってテメェにとっちゃゴミと一緒だ。なあ、『殺し屋』って書いてゾロってルビ振ってやろうか」

暗い暗いところで。
もう何もかも諦めてる。一生懸命穴を掘り続けてる。これ見よがしに。

ゾロは最後の距離を詰めた。
男はそれを見上げて、本当に無邪気に笑って見せた。





「可哀想だな?ああ同情してやってんだ、俺ァ。嬉しいだろ」





目の奥が痛んだ。



無音の叫び。

おまえは!おまえは!!
望めば日のあたる所で生きることもできる、何を悩むこともなくて。

―――――くびり殺してやりたい、と。



ゾロは殴りかかった。

目の前から塵ひとつ残さず消え去って欲しくて。
出来ることなら自分の脳から記憶すら消したい。

鈍い音が響く。
傷ついた左腕もかまわず振り上げた。

何度も、何度も、何度も。
本当に、まるで狂ったみたいに。

殴りつけて殴りつけて殴りつけて、殴りつけた。


この感情を、なんと言うのだろう。
憤怒と嫉妬?羞恥も混じっているかもしれない。そして焦燥、嫌悪。


ここまで憎いと思った人間を、他に知らない。


鋭い歯に当たって拳が切れた。
蒼い目が、こちらを見ている。

彼は、まだらに腫上がった顔で、気軽に言い放った。

それは、微笑だった。

彼は、優しいとすら言える響きで、ゾロを傷付けた。




「惜しくもねぇ命を粗末にするなんざ、百万年早え」





重要なのは。
強くあることだったのに。

それ以外の事など、願っては。





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