テロリストの女。






another side




「止まれっ!止まらんと撃つぞ!!」

人間というのは、非常時にはセオリーどおりの台詞しか出てこないものだ。
例えどんな陳腐な映画を観て、『今時こんなの言う奴いるかよ』と野次ったところで、その本人もそうなったらきっと言ってしまうような。
これもありふれたその中のひとつ。
犯人を追いかけるときには待てといわなければならないし、それでも相手が止まらなければ撃つといわねばならないのだ。

女は追い詰められていた。

「待てっ!!」

私服警官が数人、彼女の後を追ってくる。
このまま止まらずにいれば、やがて本当に撃ってくるかもしれない。

女はテロリストだった。付け加えれば、ちんけな。
ビルやレストランを吹っ飛ばすほど過激ではなく、しかし国家君主の家に爆発物をたまに送りつけるくらいの。
若いなりに情熱をたっぷり注いで理想を育て、同じような理想を持つものと惹き合い、まるで模範的な学生のように、テロリストだった。

彼女のグループはスラムに拠点をいくつか持っていて、その一つに今日捜査が入った。
何処から漏れたのかは知らないが、彼女と彼女の仲間たちは散り散りになって逃げた。
いや、逃げている。それは今のことだ。

いくらスラムを熟知しているとはいえ、女の足で複数の追手を撒けるはずも無い。
苦しい呼吸が喉につまり、なぜ自分はこんな子どもの追いかけっこのように単純に逃げているのか、わからなくなる。

本当なら、もっと。
周到な罠と計画を張られ、鮮やかに抵抗する間もなく捕らわれるか。
警察が来たときにはアジトはもぬけの殻、夜の闇に紛れ死角に滑り込み、嘲笑うように彼らを翻弄するか。

そういうのが、正しい在り方ではないのだろうか?

こんな真昼に。
こんな風に、勢いよく走り続けるのは。
どうも、腑に落ちない。

なぜか女はそんなようなことを考えた。


でも答えはわかっている。
人間は、こんなときに。

頭なんてうまく使えないのだ。


もう、数分もしないうちにつかまってしまうだろう。
そう思いながら、彼女は昼なのに薄暗い路地を右に曲がった。

「あっ」

どん、と。
急に何かにぶつかって、それでも勢いづいていた彼女は止まれずに、それを巻き込んで前のめりに倒れた。
詰まったような悲鳴が胸の辺りで聞こえる。

ばっ、と身を起こして、女は自分が下敷きにした人物を見下ろした。もう五秒もしないうちに警官が彼女の足に飛びつくだろう。
アジトを飛び出してから初めて見た仲間と警察以外の人間。

染めているのだろうか、汚れてくすんだ緑色の髪をした子どもが、彼女の体と地面に挟まれたまま、子ども特有の大きな目をさらに大きく見開いている。
緑色とはなんとも珍しい髪だ。女はとっさにそう思った。

ストリートチルドレン。
子供の浮浪者。襤褸をまとい夜は地面で身を寄せ合い眠り、残飯を漁る。
引ったくりや万引きの常習なので一般の人にも軽蔑や嫌悪の視線を向けられる。

彼らのような境遇の者を増やしたくない、というのも、女の意見だった。
ストリートチルドレンの生活保護にもっと予算を。爆発物とともに送りつける要求のひとつだ。

女を追い立てる足音が致命的までに近づいたのを察して、我に返る。
この状況を抜け出す手段は一つだった。

「止まりなさい!!」

先ほどとは逆に、今度は女が警官に向かって要求を突きつける。
男たちは女の状況を目に留めると、戸惑ったように足を止めた。

女テロリストが、通行人を人質に取っている。

しかも非力な子ども。
女は非常に興奮しており、うかつな行動は人質の生命を危険にさらすであろう。

と、マニュアル的な状況整理が彼らの頭の中で行われた。
女は隠し持っていたらしい拳銃を突きつけ、子どもを羽交い絞めにしている。

「追ってきたらこの子を撃つわよ!」

女はヒステリックにわめき、じりじりと後退した。
ああ、これこそいかにもありそうな在り方だ、と、ちらりと思う。

警官たちはどうすることも出来ずその場に立ち竦んだ。
先ほど女を追いかけているときに撃つとは言ったが、警官らはまだ銃を抜いてはいなかったのだ。

女は三度叫んだ。

「下がりなさい!」

警官たちは気圧されたように二、三歩下がった。
女はそのまま後ろ向きに下がり続け、警官たちが注視する中、ひとつの細い路地にだっと駆け込んだ。
数秒後、慌てて走ってくる足音が聞こえたが、問題ない。

女がよく知る路地のひとつだ。

「騒ぐんじゃないわよ」

腕に抱えたままの子どもに抑えた声で言い聞かせる。
次に何処の路地を曲がるかさえ見られなければ、逃げ切れる自信があった。
足音を立てないように、しかし出来るだけ急いで角を数箇所曲がる。

迷路のようなこのスラムで、一度姿を隠してしまえばこちらのものだ。

逃げること数分。
女はようやく安堵の吐息をついた。

抱えていた子どもを見下ろす。
その体は緊張と恐怖に固まっていた。限界まで目が見開かれたまま、はじけるような鼓動が密着した背中から伝わってくる。

怯えていた。

当たり前だろう、いきなり捕まって生命の危険にさらされれば。
女は子どもの口を塞いでいた手をはずし、突きつけたままだった拳銃をおろそうとする。
その瞬間。

「うわぁ、あああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!」

子どもは壊れたように首を振り、体をばたつかせて女の腕から逃れた。
叫びながらめちゃくちゃに手を振り回し、逃げようとする。

女はその声を止めようと、子どもに向かって手を伸ばした。

「あああああああ!!!」

伸びてくる手。

それが臨界点だったのだろう。
子どもはもう、悲鳴さえも途切れさせた。

何時の間に抜いたのか、その幼い手には。


ぼずっ


子どもは逆に女に向かって飛び込んだ。
膨らんだ布団に顔を埋めるような音を立てて。

ナイフをその腹に突き立てた。

ここではこんな子どもですら。
こんなものを振り回さねば生きていけぬのだと。

女はそんなようなことを考えた。






子どもは恐慌状態だった。
両手で構えたその刃を、突き上げる勢いで上に振り切る。びしゃ、と何かが彼の顔面をぬらした。
火傷したかのような勢いでナイフの柄から手を放すと、女の右手に飛びつく。
そこに握られた銃を、指が折れるくらい無理にもぎ取る。

早く、早く、早く!!
この手が自分の首を絞める前に!

子どもは、手に余る重い道具を胸に引き寄せた。
二、三歩だけ逃げる。振り向く。
唇を引きつらせたまま、持ち上げ、構える。

倒れこむその女、驚いたように目を見張っているその女に向けて、無我夢中で引き金を引いた。
狙いをつけるなどという余裕も考えも無い。ただ、目の前の脅威から逃れたいだけだ。

「来るな!!来るな!!!来るなぁあああああああああああああ!!!」


ああ。
こういうときも。

ありふれた台詞。




がちん。




がちん、がちん、がちん!
子どもは繰り返し繰り返し繰り返し引き金を引いた。

弾が出ない!
少年は、操作の方法といえば引き金を引くだけしか知らなかった。

捕まる、捕まる、捕まる!!それから…………!!

がくがくと膝と肘と体中の骨が震える。
引いて引いて引いて、それからやっと気づいた。
頬を痙攣させて、ようやく女の、その顔を見る。

女はすでに立っていなかった。
地面に腹をつけたまま、首だけを持ち上げてこちらを見ている。
青ざめた唇が、こう綴った。




「怖がらせ…………?」

その目には薄い膜が張っていた。
子どもの動きが止まる。

赤く染まった手が、ずるずる地面をこすりながら引っ込んだ。

「ごめ…………」

本当は、君たちを助けたかったんだけど。



がくり、と。

首が外れた人形のように、子どもは手元に視線を落とした。
役立たずの銃の、その理由が。ある。

銃倉は、からっぽだった。ただのひとつも、弾は込められていなかった。

緑髪の子どもはぶるぶると瘧のように震えながら首を振った。
違う種類の恐怖が、その心を満たして。押し流してしまった。


次に見たときには、女の息は、もう止まっていた。


それは、彼にとって、決定的な。

張り付いたように、手のひらから銃を離せないまま、彼は走った。
わけのわからない叫びを上げて。

自分が殺したんだ。
ナイフは女に刺さったまま。

彼は逃げた。

彼は逃げ続けた。
戻れない道を。





余談だが、女は最期の時間にこんなことを考えていた。
怯えと絶望の色に染まった子どもの目を見ながら。

自分は、なんでこんな馬鹿なことを言ってしまったのか。
なぜこんなとき、人はありふれた台本通りの台詞を言ってしまうのか。

テロリストは、悪のテロリストとして死ねば良かったのに。なぜ謝ってしまったんだろう。
なんで自分は、この子に後悔させるようなことを言ってしまったんだろう。

その事こそ、官邸に爆発物を送りつけるより、余程悪いことだ。

先ほどの発言を訂正したかった。
畜生、このクソガキ、殺してやる。そう言ってあげればよかった。


どうしてだろう。
でも答えはわかっている。
人間は、こんなときに。

頭なんてうまく使えないのだ。


ああ、自分はテロリストには向いていなかったんだな。
そう思いながら、女は目蓋とともにその二十と少しの人生を閉じた。




→『ゴミ捨てをするヒーロー。』