プロローグ。






GO or STAY! another side





霧雨が降っていた。


霧雨の癖に何故かやたらに体を冷やす。生意気だ。
ゾロは固くて温度のないコンクリートの壁に背を預けて、目を閉じていた。
夜。
月明かりの他に、肩がつかえるほど狭苦しい路地に吹き込むものはない。それなりの頻度で(多分二百メートルごとには)建ててある筈の街灯は、例外なく壊れている。
今日の仕事は、そんなにきつくはなかった。勿論、ゾロにとっては、だけれども。
ゾロは大抵、一人で仕事をするのが好きだった。けれど、物事はいつもそうそう上手くいくような気安さを持っているわけではなく、選り好みが出来る身分でも、勿論ない。
ゾロに決まった相棒はいなかった―――けれど、一人きりでする仕事などはほとんどないのが実状だった。そんなのは、例えばそう、暗殺くらいしかない(ゾロには、むしろ好んでその仕事を請け負うという風評があったが)。それにしたって誰かと組まされることは多い。一度何故かと問った事がある。お前が自力でターゲットの居場所まで辿り着く可能性は異様に低い、知り合いは口を揃えて言い放った。とても嬉しくない。
おざなりに濡れ始めた短い髪。頭皮にまで浸透する湿り気。ゾロはぴくりとも動かないで、聴覚と触覚と嗅覚だけを開いていた。
皮膚に染みついた血と硝煙を振り落とさないと、暖まる気にはなれない。勿論、ことごとくそれらが消え失せることなど、自分が土に還るまで有り得ないのは知っているが、それこそ今更だ。どうしたところでまた汚れるのに、人は手を洗い、髪を洗い、服を洗うだろう?
血の臭いが好きなわけではない(そんな変態性欲は持ち合わせていない)から、洗い落としているだけなのだ。頭から熱いシャワーを浴びる方がよっぽど理性的な行動だ、ということも知っているが、何となく気に入らない。例えば、ホットコーヒーを膝にこぼしたならゾロも素直にバスルームに向かうけれど、冷えた硝煙の臭いを落とすのには雨の方が似合う気がする。…………いや、多分そこまでは考えていなかった。つまりなんとなくだ。
まあ少しだけ、特殊な事情もあるような気がする。
そう言えば、と考えた。ゾロと組んで仕事をすることが(比較的)多かった男が、つい先程終わったミッションで、ゾロの目の前で死んだのだった。
―――ああ、この血の臭いはそれか。
普通は返り血などあまり飛んでくるものではない。大抵の場合、人差し指に力を込めればそれだけで、その先でどさりと音がする。後はまあ、くぐもった悲鳴も。(どうだろう、それは直接相手の頸動脈をかっきるよりも、現実感がない行為だろうか?)
―――男の名前は、覚えている。
お節介な男だった。ゾロの印象に残るくらいには、強烈に。大抵の人間は、ゾロの一睨みで追い払えるが、その男は臆せずにいた。だからか?一緒に組まされることが多かったのは。

ゾロはその男が嫌いではなかった。
ちょっと笑えるくらいに一生懸命、ゾロに手を差し伸べたから。
ゾロはその男が好きではなかった。
「お前は可哀想だ」と、その目が雄弁に語っていたから。

顔はもう思い出せない。けれどその瞳ははっきりと覚えていた。
目を閉じてはやらなかった。そんな暇も感傷も、なかったから。
それだから、まわりからは冷酷非情だと思われるのかも知れない。ゾロは別に、自分が冷酷だとか非情だとか、そんな風に思ったことはないのに。

がちゃり、と音がした。背中に振動が伝わる。
ゾロが背にしている建物の、ドアが開いたのだとすぐにわかった。
ステップを降りる、無駄に軽やかな足音。路地の入り口に立ったのだろう、人の気配。

「…………雨、降ってるぜ?」

妙に気取っている、そう思わせる声音。
馬鹿でもわかる事実を、そいつはわざわざ口にした。つまり、馬鹿なのだ。
同じミッションに参加していた(ついでに生き残った)男だ。それ以前の面識はない。多分新人なのだろう―――頑丈とはほど遠い体格だったと記憶している。
よくもまあ死ななかったものだ。感想はそれだけ。
ゾロには、その男に対する興味が全くなかった。男は酒臭く(さあ、任務の成功を祝って乾杯?)次の行動も知れた。
部屋に入って暖まれ、と言うつもりだろう。その気があるならとっくにそうしている、ということに気付けないほどの馬鹿か、それとも、どんな集団にも必ず一人はいる雰囲気の読めないお節介か。
ゾロは微動だにしなかった。瞼を降ろしたまま視線もくれなかった。溜息すら、吐いてはやらなかった。面倒臭すぎる。
数秒の静寂。ゾロの意図が知れるには十分な時間だ。

「―――ロロノア・ゾロ」

癖のある発音で、その男はゾロの名を呼んだ。
誰が名前を呼ぶことを許可した?そんなことを言うつもりはなかった。費やす時間が勿体ないし、そもそも自分はそこまで傲慢でもない筈だ。確信は、持てないが。
もしかして、この新人に誰かゾロについて吹き込んだのか?ゾロが、この仕事中に死んだ男と仲が良かった(と見られていた)のだと?
要らないお節介が多すぎるな。
それとも何も知らない新人を、ゾロにぶつけて反応を楽しむつもりなのかもしれない。それを肴に、中で賭事でもしているか。
ゾロは自分の外見と雰囲気がもたらす効果を、それなりに承知していた。日常生活においては無駄なほどに備わっている威圧感。ゾロには、人の目を惹きつける何か特別なものがあったけれど、自然に……あるいは意図的に撒き散らされる近寄り難さが、いつもゾロのまわりに静寂をもたらしていた。使い古された表現だが、野生の虎と同じ事だ。
自分がすこしばかり他人の関心を引きがちなのはわかっていたが、直接関わらなければどうでもいい。憐れみでも憧れでも、どちらにしろ鬱陶しい。
―――だから自分に話しかけるな。お前などに興味はない。

「………………」
「ああ、そうか」

男は、反応を返さないゾロを見て、一人で何やら納得したようだった。
あっさりときびすを返す音がして、扉が閉まった。
不愉快な気配がなくなったのも束の間、また扉が開く。
ゾロは微かに溜息を吐いた。煩わしさが顕著になってきたのだ。
何なんだこの男は、煩わしい―――

ばしゃり。

ゾロの思考はそこで止まった。
ゆっくりと目を開け、二、三度瞬きをし、壁から身を離す。ぽた、ぽた、と音を立てて、前髪から液体が滴り落ちた。
もちろん雨ではない。
ゾロはその底冷えのする視線を、ようやく男に向けた。
闇の中に、くすんだ輝きを浮かべる金の髪。ニヤリ、と擬音がつきそうな、片方だけ上がった口角。背景に溶け込んだ黒いスーツ。規格より大幅に長い足。ついでに、手に持っているのは大ジョッキ。つい先程までそれを満たしていただろう中身は、たった今ゾロの頭に給仕されたばかりだ。
男は悪びれた様子もなく笑っていた。そう、これ以上ないくらいガキ臭く。

「いや、水足りてねぇのかと思って。その緑頭」

がぅんっ!

その台詞が終わらないうちに、男が手にしていたジョッキが砕けた。同時に、コンクリートが弾ける音も微かに重なる。
ぱ、とガラスが散った。その破片の一つが、男のにやけた頬を掠って飛ぶ。つう、と赤い筋が綺麗に辿った。
それを見届けてから、ゾロは銃を降ろした。セーフティを掛け直し、しまい込む。

「……………ヒュウ」

男は意外にも全く狼狽せず、口笛を吹いた。間抜けにもそれだけ残ったジョッキの取っ手を、投げるでもなくぽとりと地面に落とす。
やることがいちいち芝居がかっていて気に食わない。これ以上苛つかせられるのなら、これからのゾロの予定に「この男を足腰立たなくなるまで叩きのめす」が追加されるのは確実だ。

「――――何の」

用だ。とか、つもりだ。とゾロは続けようとした。叶わなかったが。

「っていうか、退け」

軽い言葉と重い衝撃。空気がしなった。
とっさに引き上げた腕でガードするが、浸透するショックにかかとが浮く。
油断した。ゾロはそう思った。
アップになった革靴の向こうに、にやけた顔が見える。ゾロは押された勢いで二メートルほどとびすさった。狭い路地に肩が擦れる。先程仕舞ったばかりの銃を、一瞬で取り出す。

「……………………」

男は蹴りの姿勢で止まっていた足を、すっと降ろした。
ゾロの殺気を込めた視線に構わず、横を向く。
そのまま、がちゃり、と無造作にドアノブを捻って―――ドアノブ?
狭い路地につかえるようにしながら扉を開き、男は身をよじってその中に消えた。独り言なのか知らないが、ぶつぶつ呟く声が聞こえてくる。

「――――ダウンタウンって奴ァ、何だか知らねェけど巫山戯た造りになってて困るよなァ。いちいち外から―――面倒臭ェ―――」

かちゃかちゃと、ベルトを外す音。
その後、男ならほぼ全員が毎日聞くであろう音―――
ゾロの眉間にしわが増えた。声は、まだ続いている。

「――――ああそうだ。ちょっとした善意の忠告だけどよ」

ゾロは銃のセーフティを再び外した。弾倉を確認する。
さっき一発撃った。五発あれば充分だろう。
脳天気な声は途切れない。

「今度から、トイレの横でカッコつけんのは止した方がいいと思うぜ?」

ゾロは何故か、かつてないくらい凶暴な気分になって、引き金を連続して引きまくった。全くもって無意味だが、銃声が気に障る声をかき消した。


出会いはいつだったかと問えば、それがまあ、最初だ。





→『テロリストの女』