いいと思う。口説く。了承を得たら、抱く。振られたら、未練を残さない。
男の恋とは、かく単純にあるべきというのが、ゾロの意見である。










DE RIGUEUR









だからゾロの恋は、大体の場合は、三時間で終わる。
いいと思ってから口説くまでの時間はとくには必要ないし、言葉数が多いほうでもないので口説く時間も短い。返事までに数分掛かれば振られたと判断するため、三時間というのは、大半は性交の時間ということになる。

いつの酒の席だったか、恋愛観を皆で披露しあったとき、そんなゾロの恋に対するクルーの感想はてんでばらばらだった。
ルフィは、「いいんじゃねえのか?」とあっけらかんと肯定したし、ナミは氷のような視線をくれて「…………」とノーコメントだった。ウソップはうーんうーんと唸りながら、「一度はそんな風に言ってみてえなぁ」と腕を組んで悩んだ。サンジはゾロの話の途中で謎の奇病にかかったように暴れ始めたため、ルフィが巻き付いて拘束し、がーがー煩い口にはゾロが丸めた雑巾を突っ込んでおいたので何を言っていたのかは定かでない。「むぶごふぁえたむぶっ!!」を無理に訳すと、つまり『わたくしめは馬鹿でございます』ということだろう。異論はない。

新しい島に到着して、ゾロが一番最初に出会った女は、剣を佩いていた。
帯剣している女は珍しい。それが、海賊でも海兵でもなく、ただの酒場の女主人なら尚更のことである。

チンピラ顔負けの威勢のいい啖呵と共に荒くれどもを3人まとめて通りに叩き出した女は、30は過ぎているだろう年頃だったが、大きな口を開けて笑った顔が少年のように明るかった。
ゾロがその日の酒をその店に求めたのは、豪気な女だ、と、それを面白く思ったからだった。

女は、褐色の髪を長く伸ばしていて、先のほうは金色になっていた。目は、青みの強い灰色だった。肌は日差しをたっぷり浴びて濃く、爪は短く切ってあった。
名前は知らない。ゾロには、自分から名乗らない女の名前を聞き出す能力は無いのだ。

港に船を停めて二日目も、ゾロはその酒場に行った。
女は再び酒場に現れたゾロのことを憶えていて、酒を一杯だけおまけしてくれた。
そのときには、ゾロは女の手首に黒いリボンが巻かれていることに気付いていた。このあたりの風習で、未亡人がすることなのだと、本人から聞いた。

三日目も、ゾロは船から降りて、酒場に行った。
その日は客が少なかったので、女主人はゾロのテーブルについて、街の話をしてくれた。ゾロも何か話そうかと思ったのだが、女を面白がらせる話は見当も付かなかったので、結局は相槌ばかり打っていた。

女の酒場は繁盛していた。それなりに掃除も行き届いていたし、雰囲気も暗くなかった。しかし、ゾロはどうにも、酒場に居心地の悪さを感じていた。酒を飲んでも、つまみを食っても、思うように振舞えない。
それなのに、ゾロは毎日酒場に行った。酒場が閉まる時間には、女主人も手が空いて、ゾロにかまう暇もある。ゾロは女に対して、自分のこともぽつりぽつりと話すようになった。

女は、ちょっかいを出してくる酔漢をよく笑い飛ばす。「こんなおばさんに」、と。
しかし、女は『おばさん』なんかではない、とゾロは思う。ゾロが知る『おばさん』というのは、腹回りが樽のようで、笑い声がけたたましくて、遠慮が無くて行列によく割り込む生物のことだ。全然違う。一緒にしてはならない。

ゾロはその女を口説いていない。
だからつまりゾロは、その女を、別にいいと思っている訳ではないのだ。










今日もまた、酒場に行くために船を下りようとしたところで、ふと、こちらを見るサンジと目が合った。
にやあ、と、そんな擬音が相応しいくらいに、サンジの目と口は完全な三日月型になっている。何だ、その顔は。どういう意味だ。

「ゾーロちゃーん」
「黙れ眉毛」
「まだ何にも言ってねェじゃねェか」

目は口ほどに物を言う、だ。
サンジはつっけんどんなゾロの態度にも怒らず、いっそわざとらしいくらい爽やかに笑いながら、ぐ、と親指を立てて見せた。

「頑張れよ。応援してるゼ!」
「だから黙れっつってんだ! そんなんじゃねぇ」

ゾロの額の青筋を見ないふりで、サンジは知ったかぶった風でうんうんと頷く。
ついでにゾロ言葉を全くの言い訳と取った態度で、ぱたぱたと手を振った。

「あーあー、わかってる。『そんなん』じゃねェよなー。じゃ、俺がそのレディにお会いして口説いても宜しい?」
「誰のことだ。……いいか、俺は単に酒を飲みに──」
「あーあー、わかってるっつってんだろクソ鈍ちん野郎。酒好きのクソ飲んだくれ太郎だもんなゾロちゃんは。じゃ、俺がその酒場に行って酒飲んでも結構で?」
「斬るぞ」

ゾロは歯を剥いて凄んだ。
しかし、どうせサンジは本気でなかったのだろう。あっさりと引き下がると、上手くやれよ、と余計なことを言った。ゾロは黙った。何を言っても、墓穴を掘るだけになりそうだったからだ。

どうしたらこの勘違いを訂正出来るのだろう。
サンジの思っているようなものとは全く違うのに。

ゾロが見るところ──そしてサンジの語るところ、コックの恋は大体このように定義される。
女である。いいと思う。褒め称える。目をハート型にする。褒め称える。物をやる。褒め称える。食わせる。褒め称える。守る。褒め称える。崇め奉る。尽くす。振られる。号泣する。未練を残す。

一番と二番の間がほぼ無条件であるし、三番から十二番までの間は振られるまで無限に繰り返される。しかも、振られた後まで続くから時間が掛かる。その間のサンジは背骨がくにゃくにゃしたり足の先が解けたりして、よく言ってもただのアホだ。みっともない。潔さとは程遠い。

だから、サンジは誤解しているのだ。
ゾロは別に、恋なんてしていない。恋をしたら、ゾロはすぐに口説いている。迷わない。男の恋とは、かくあるべきなのだ。

そして、どうせ、ログが溜まる2日後には船は出港する。この島に戻ることは、二度とないだろう。
だから──そうだ、恋なんてしているなら、尚更ゾロは、あの女を、もう抱いている筈だった。

「頑張れよ」

煩い、とそう返す気力もなく、ゾロはそのまま船を下りた。
顔さえ見なければ、サンジの声は、冗談ではなく本気でそう言っているように聞こえた。









アホが変なことを言うから、腰の座りが悪い。

安いエールを樽ごと注文し、自分で酌んで飲みながら、先程自分で思ったことを再認識する。
明後日には、ゾロはこの島を出るのだ。ということは、このカウンターに座って酒を飲むのは、今このときを含めなければ後一度。

ずし、と胃の中に鉛の玉を呑んだような気分になった。

難しい顔してるねぇ兄ちゃん、と酔っ払いがゾロの背中をばしばし叩いて後ろを通り過ぎたが、ゾロは彫像のように動かなかった。
自分の腹が何故こんなに重いのか、ゾロにはよくわからなかった。後一度だから、何だというのだ?

女主人は、良く動く。
そして、客の冗談には、あの少年のような笑顔で快活に笑う。大きな口を開けて──そう、ナミもたまにこんな風に大口を開けて笑うが、ちょっと違う。どこがと言われると、ゾロには上手く表現出来ないが。

それを見る機会も、後一度だ。今日の夜は、もうあと一時間くらいで終わってしまう。
ずしずしずし、と鉛の玉が増えた。酒が悪いのかもしれない、とゾロは疑った。悪酔いしているに違いない──酒は飲んでも飲まれるな、とゾロは自戒した。そして、ジョッキを干す手を止めた。

酒を飲まないとなると、することはない。
ゾロはぼんやりと、酒場の喧騒の中で笑う女主人を見た。ゾロの視線に気付いた女は、心得たようにウィスキーのボトルを運んできた。

いや、そうではなかったのだが──そうではないと女にいうことも出来ない。見ていた理由を告げなければならなくなるからだ。
どうしたらいい、と途方に暮れたゾロは結局ボトルの蓋を開けた。剣を佩いた女。夫を亡くした女。ひとりで働いて、それでも明るく笑っている女。毎日、せっせと食い扶持を稼いでいる女。自分の事は自分で守れる女。

肩から力が抜けた。いい女だ、と今は素直に認めることが出来た。
口説いてみようか、とふと思う。時間は、後ほんの少ししかない。

ゾロが口説いたら、女はどうするだろうか。いつものように「こんなおばさんに」と笑い飛ばすだろうか。
冗談だと──受け取るだろうか。

そう思うと、ゾロはどうしても、口説いてみることは出来ないような気がした。ゾロにとって、女は『おばさん』ではなく、単なる女だと、女が信じなかったら──そう思うと。

苦しかった。

あの馬鹿コックだったら、上手いことを言うかもしれない。いや、本心から、女を褒め称えることを生きがいにしているような男だ。嘘だと思わせず、どんな女にも貴婦人の気持ちを味わわせることが可能かもしれない。初めて、それを評価しようと思った。それは、大した能力だ。

ゾロの口にする言葉だって、嘘ではない。女主人はいい女だ。
──ただ、上手く口に出せないだけだ。たったそんな、サンジとは違うやり方のせいで信じてもらえなかったら、ゾロはどうしたらいいのか。


振られたとして、号泣することも出来ない。

「────」

ウィスキーのボトルを片手に、ゾロは店を出た。代金は、カウンターの上に置いた。
またどうぞ、と客を送る声に、ゾロは振り向かないまま答えた。

「もう来ない」
「え?」
「明後日、島を出るんでな。……世話になった」

酒場から港は、正面に真っ直ぐ歩けばいい。簡単なことだ、元の場所に戻るなんて。

ゾロはもう、酒場に行く気はなかった。明日の夜はあっても、これっきりにするつもりだった。
ゾロには、あの女を口説けないことが、はっきりわかった。何故か、躊躇われた。

ならば終わりにするだけだろう。潔く、未練は残さない。だらだらと、機会だけ用意するなど見苦しい。


ゾロは単純な男だ。一か零かの選択を、迷ったり、繰り返したり、長引かせたりしない。
男の恋と同じように、男の生き方も、かくあるべきだ。

短い帰り道の間、ゾロは一度も振り向かなかった。ただ、固く酒瓶を握って、海のほうを真っ直ぐ睨みすえていた。









+++ +++ +++









出港の日の朝、ぼんやりと沖を見詰めるゾロにかまわず、クルー達はわいわいとはしゃいでいた。
皆、島が見えると喜ぶが、きっとそれ以上に海が好きなのだ。まだ見ぬ何かが、海の先にはある。

ゾロもいつも通り、帆を張る準備をするつもりだった。
船のへりに背を預けていたゾロは重い腰を持ち上げ、マストの方に歩み寄った。そのときだった。

「ロロノア・ゾロ」

後ろから掛かったのは、女の声だった。
間違えようも無い、あの女だ。二度と会うことはないだろうと、思い切ったあの女。ゾロが口説けなかった女。
女の声は固く、少し震えていた。

「────」

反射的に振り向き掛けた身体を、ゾロは気合を込めて停止させた。振り向きたい、と思ったが、振り向いてはならなかった。
ゾロ以外のクルーが振り向いた。何か用か、と船長の呑気な声が響く。馬鹿、無粋だろ、とウソップがそれこそ余計なことを言ってルフィをたしなめている。

ナミが気遣うようにゾロを見たが、ゾロはマストを凝視していた。何故女がここに来たのかわからなかった。
その理由がもしも、もしも──ゾロが期待したようなものだったら?




女は再度、ゾロの名を呼んだ。
そして、夫の仇、と続けた。

ゾロは、振り向かねばならなかった。




「────」

口を真一文字に引き結んで、ゾロは船を下りる。
早朝の波止場に、女の姿はしっくりと馴染んで見えた。腰の剣に軽く手を掛け、真剣な表情で近付いてくるゾロを見詰めている。

口を開こうとしたが、何も言うことは無かった。

(……酒に毒でも入れりゃ、簡単だっただろう)

その方が良かった。
だが、ゾロには答がわかっていた。女は剣士の端くれだった。剣の事は剣で決着を付ける。誰の事かはわからないが、きっとゾロに斬られた夫もそうだったに違いない。

(何故、最初に言わなかった)

その答もわかっていた。
女も迷ったのだろう。まさか、ゾロの手加減を期待して、情を植えつけようと思ったわけではない筈だ。きっと、ゾロが店に来るたび、どうしようかと悩んだに違いない。

だが、女の青みの強い灰の目に、既に迷いは無かった。
先延ばしにすることはやめたのだろう。ゾロの出港の日を聞いてしまえば、もうそうすることは出来ない。知らないうちに旅立った、と、そんな風に片付けることは出来ない。その気持ちは理解出来る。

ざ、と音を立てて、ゾロは足を肩幅に開いた。女に真っ直ぐ向き直り、刀の柄に手を掛ける。
「ゾロ!」とナミが声を掛けたが、ゾロは全く反応しなかった。

(────)

女は確かに、一端の剣士だ。全世界の三十頃の女剣士をずらりと並べてみれば、平均的な位置にいるだろう。
だが、それだけだ。
ゾロとの力の差は、虎と仔猫ほどもある。酒場の酔漢はまとめて叩きのめすことが出来ても、ゾロを倒すのは無理だ。そのことを、ゾロは正確に理解していた。

剣を一合と打ち合わせる必要も無い。
女を倒すなど、ゾロにとっては酒の瓶の蓋を開けるくらいに簡単なことだ。

背筋が冷えていた。
ゾロがぼんやりしている間に、女は剣を抜き、正眼に構えている。きちんと見ろ、とゾロは自分を叱った。

(────)

剣士としてゾロに剣を向けたなら、ゾロは剣士として応じなければならない。
つまりは、斬るということだ。

裂帛の気合と共にこちらに駆け寄ってくる女の動きが、ゾロにはスローモーションに見える。
褐色の髪の、色が薄くなって金色の先の、灰色の目の、青みがかって雲の切れ目に見える部分の、日に焼けた肌の、傷が付いて白く浮き上がった筋の、女の顔の──

ゾロの目に焼き付いたあの笑顔はもう浮かんでいない。
何かを悟りながら、ゾロは刀を抜いた。女の隙は、ゾロには百も見えていた。目に力を込めてまた見直したが、隙はどれも変わらなかった。簡単に斬り込める。ゾロが見ている髪も目も肌も笑顔も全て、

「ロロノア・ゾロ!」

全て、斬らねばならなかった。

ここでゾロが斬らないのなら、今までゾロが斬ってきた剣士に、どんな申し開きが出来る。
剣の道は、修羅の道。剣を持って向き合えば、命を取るか取られるか。そこに私情を挟んでは、ゾロの野望が成り立たない。
心臓が引き千切れるように痛んだ。振りたくない、振りたくないと勝手に騒ぐ腕を、ゾロは意思の力で抑え込んだ。

未練など。迷いなど!
俺は、女の夫も斬った!

獣のような吠え声を上げて、ゾロは刀を振りかぶった。圧倒的なゾロの剣気に押され、それだけで女の体がよろめいた。
木の葉のように弱い、ゾロの何倍も脆い──剣を持った女を、ゾロは斬る。



びゅっ



女の髪が、風に舞った。
女の体の方は、ゾロの剣と同じ速度で後ろに下がっていた。振り切った剣を構え直し、ゾロは低く唸った。

「何のつもりだ……真剣勝負の邪魔をするな」

サンジは、いつもゾロを制するときと違って、ゾロの腕を蹴らなかったし、ゾロの剣を止めなかった。
ただ、女の体の方をさらって、十歩の距離をすっ飛んでみせたのだ。呆然とする女を背の後ろに押しやるサンジの顔は、真っ青だった。

血を吐くように気合を込めて、ゾロはサンジを睨みつけた。

「邪魔をするな……!」

化け物の殺気と怒気に、サンジを通り越した向こうの女の顔に恐怖と怯えが浮かぶのが見えた。人間ではないもののように、ゾロを見ている。鬼気にがくりとひざが折れ、女が尻餅をつく。
その様子に胸を痛ませても、ゾロの表情に変化は無い。だから、女には、ゾロの気持ちはわからないだろう。
だが、仮にゾロが泣いていたとしても意味はない──斬り捨てる覚悟を決めた女に対して、何が言える。


「退け」

これはゾロの信念だ。こうしなければ、ゾロは拠って立つ魂を失う。
サンジの顔に怒気はなかった。ただ、サンジは、無表情なゾロと比べて百倍も苦しそうな顔をしていた。ゾロには出来ない、みっともない顔。

そう、ゾロはサンジのような顔は作れない。女を褒め称えるのと同じことだった。

ゾロの覚悟に横槍をいれ、泥を塗ったことを──こんな情けない顔をしたサンジが、それでも謝罪しないだろうこともゾロは知っていた。誰だって、したいことと、やらなければならないことは、違うのだ。

「……テメェの信念は……クソ程知ってる」
「────」
「だが……女を」

サンジは歯を食いしばり、身構えた。

「俺の前で、女を斬らせるわけにはいかねェ」

サンジの信念は、ゾロとは違う。
騎士道だ。勝敗ではない。弱きを助け、守るべきものを守り通す。ゾロが死んでも背は向けないように、サンジは死んでも女は蹴らない。

「やるなら、俺を殺してからにしろ」
「そうさせて貰う」

サンジの構えに、隙はあるかないか、ひとつしか見えない。
ゾロは剣を構えて突進した。

がつん、と剣を握る腕と靴の裏が衝突し、一瞬だけ均衡する。
振り切る剣から衝撃波が生じ、港湾施設を一部切り落とした。ゾロの耳の脇を掠めた蹴りが、ゾロの髪の毛を燃やした。

「っ……!」

自分の邪魔をする男を、ゾロは罵倒したかった。勝負の最中でなければ、そうしていたに違いない。

これは、そんなんじゃねぇんだ。
なんでテメェが、そんな顔をするんだ。

大砲の音のような戦闘音、巻き込まれた建物の崩壊音の中、サンジは女に向かって懇願するように叫んだ。

「逃げてくれ……!!」

頼むから、頼むから、と、同情を引き、まるでゾロと対等に戦っている男とは思えない情けない様子だった。


ゾロはもう、どうしようもなかった。サンジに斬り付け、斬り、蹴られ、地面の上に転がってはまた斬り付ける。憎しみめいたものを込めて、ゾロは剣を振った。

俺を哀れんだか。俺が言えないことを、代わりに言ったつもりか。
そんなことを、俺が感謝すると思うのか。思わねぇだろう。だからお前は、そんな顔をしてるんだろう。俺のことをわからねぇでいいのに、俺の痛みをわかったりなんてするな。反吐が出る。
お前は俺の母親か?

俺はどうしたって剣の鬼だ。
かまわないんだ。そう決めたんだ。なのになんだって、

「……なんだって、てめぇが泣くんだ」

ゾロは剣を下ろした。
いつの間にか、女の姿は消えていた。









逃げた者を追う必要はない。
出港予定時間はとうに過ぎている。ゾロはサンジを放って、船に戻ろうとした。マストに帆を張って、碇を上げなければならない。

ゾロの背中の後ろで、ず、と鼻を啜って、サンジがぽつりと呟いた。

「テメェの恋は……厳しい恋だなァ……」
「────」

ゾロはサンジのことなんてわからないでいい。だから、わかっていない振りをする。答えない。

お前は、俺が、『人並み』の恋をすればいいと、思ったんだろう。『マリモが人間の行動をようやく覚えるかどうかの瀬戸際だ』とか、そんな風に茶化してみせても、俺がそうすればいいと思ったんだろう。

化け物が人並みのことをするのが、こんな風に辛いものだと、思わなかったんだろう。
俺も、思わなかった。恋がこんなものだとは、わかっていなかった。

この後、女はどうするだろう、とゾロは思った。
剣は捨てるかも知れない。だが、あんな風に笑える女だ。きっと、これからも、酒場で働くに違いない。
あの笑顔が、もう二度となくなるなんてことは、ない。それは──嬉しいことだ。

何かが零れないように、ゾロは目に力を込めた。恋を失って涙するなんて真似は真っ平御免だ。

「……また、頑張れよ。男は百人に振られて一人前だ」

大きなお世話だ、とゾロは思った。お前は鬼か。












DE RIGUEUR  ドゥ・リギュール
バーボン・ウィスキー半分に、グレープフルーツ
ジュースと蜂蜜を四分の一ずつ加えたカクテル。
蜂蜜は冷たいものに混ぜ難いため、カクテルの
材料には不適当である。              
しかし、このカクテルの考案者はそんな事には
かまわず、絶対に蜂蜜を使うことを要求する。
ドゥ・リギュールとはフランス語で『~しなければ
ならない』の意味である。