Bosom Caresser









息も凍るような張り詰めた刹那、目に映る全ての映像がコマ送りになる。
ゾロの胸を突き破った剣が背中から抜け出る音。分厚い筋肉をぶちりと千切る生々しい音。

明らかな致命傷。

「っ……!」
「──さらばだ、ロロノア・ゾロよ」

冷静な声。吹き飛んだ体が、海中に没する。
その姿が波間に消えた瞬間、時間は元通りに流れ始めた。

そのときナミは、飛ぶように駆ける黒い背中を見た。
ルフィより、ウソップより、彼が飛び出す方が早かった。

「──サンジ君ッ!?」

蹴りかかるのか、とナミは一瞬勘違いをしたが、サンジは船上から見下ろす鷹の目には目もくれずそのまま海に飛び込んだ。彼は敵討ちを考えているのではなかった。

凍る温度の水しぶきがナミの頬に届き、反射的に目を閉じる。
ナミは桟橋に走り寄ると、暗い水面を覗いた。逆巻く黒いタールが溜まっているかのようで、その先は何も見えない。広がっているだろうゾロの血の色すら判断出来ない。

「光ッ……光を」

カンテラをかざして、食い入るように目を凝らす。
蝋燭のか細い光は、濁る水と夜の闇に対しては無力に近かったが、何もしないで居る事は出来ない。水面に近い水の中で、船を構成していた木材の破片が衝突しあっているのが見えた。
この中では、どちらが上でどちらが下かもきっと判然としないだろう。

声が届けばいい。
そう思い、ナミは呼んだ。咽喉が破れる事は構わない。

「サンジくーん!!サンジくーん!!」

ルフィが鷹の目に殴りかかる音、ウソップがパチンコを飛ばす音が遠くに聞こえる。

一秒がその何倍にも感じる中、正確な時間の経過はわからない。
長い時が過ぎ、サンジの息だとしても続かない筈だとナミが絶望を感じ始めた頃、水面に何かが顔を出した。

サンジだ。
流木が激突したのか、頭を負傷し顔面を赤く染めている。

「サン、」

サンジは肩に荷物を担いだまま、足の力だけで岸辺に向かって泳いで来た。
ざばっ、と濡れた音を立ててサンジがゾロの体を陸に押し上げたとき、ナミは背筋にひやりとしたものを感じた──胸を破られたゾロの死体は、まだ両手に刀を握り締めていたのだ。抜き身のまま。

「はッ……ハッ…ぜッ……ぜ、ひゅっ」

サンジは食べるように空気を吸いながら、自分も陸上へと戻ってきた。
海水と、腕や胸、腿に負った切り傷からの血をぼたぼたと滴らせ、一言も口を利かずにゾロの体を見下ろす。冷えた夜気の中、流れる血液からだけ湯気が立っているのが見えたような気がした。

「はぁっ……はッ……ハッ、っ」

どっ

サンジはゾロの体を蹴ると、仰向けに転がした。
次いで体の脇にしゃがみ込み、ゾロの頭を仰け反らせる。青紫色の唇の中に、同じく亡霊のような色をしている指を突っ込んで、ぬるぬるした血の塊を引きずり出す。

その間、サンジの指は殆ど曲がらなかった。その代わり震えていた。冷気に硬直し、拳を形作ることが出来ないのだ。

「ゼっ……ハッ…ふっ、……はあっ……」

サンジは大きく呼吸をしながら、海水で張り付いたジャケットを脱いだ。
何度か折り畳んでゾロの背中と硬い石畳の隙間に挟む。シャツもボタンを引き千切って身から離し、ゾロの胸にかぽりと開いた傷の上に当てる。

そろそろナミも気付いていた──サンジは応急処置を施そうとしているのだ。死体に向かって。
むき出しになったサンジの上半身は既に血色が失せていて、ゾロの剣に傷付けられた傷だけがむやみに赤く、サンジも死体の仲間入りをしているように見えた。

「かはっ……っ…はっ…」

どんっ



サンジは握れないままの手のひらを、ゾロの胸に叩き付けた。



どんっ

どんっ

どんっ

ゾロの爪先はサンジが胸をたたくのに合わせてゆらゆらと揺れるだけだった。
剣を握る硬直した指は、開かれない。

当たり前だ。死体は生き返らないから、当たり前のことなのだ。
当たり前の事実がどんなに、人を傷付けるとしても。

「はっ……かふっ……」

前髪がぺたりと顔全体に張り付いたサンジの表情はわからない。どちらも塩辛いだろう海水と血が顎を伝って滴り落ちているが、泣いてはいない。
ただ、酸素を貪る呼吸の音が、戦闘音にも紛れず響く。

「ぜぇっ……ぜッ……」

今、処置をしなければならないのは、むしろサンジの方だ。血液が流れ出、体温が下がり、凍死の危険がある。

しかしきっと、そんな事はどうでもいいのだ。ナミが何を言っても、サンジは聞かないだろう。それがナミにはわかっていた。

どんっ

いつの間にか、振動にぐらぐらと揺れたゾロの首が横を向いている。
サンジは五回叩いた胸の上から手を離し、ゾロの首を挟み込んで真上に固定した。

血塗れの口を塞いで、自分でも足りない息を、呼吸を、酸素を吹き込もうとする。そこに躊躇いはなかった。

「っ」

唇が触れる寸前だった。ゾロがべしゃりと海水の混じった吐瀉物を吐き出したのは。
仰天するナミを尻目に、ゾロはそのまま僅かに咳き込んだ。肺が収縮を取り戻し、胸が上下し始める。

「────」

無意識でも苦痛はあるのだろう、ゾロの眉間に深い皺が刻まれた。
それをサンジは見下ろして、合わない歯の根の隙間から、かすれた音を搾り出した。






「も、お前、死ねよ……負け剣士」

いっそ死んでくれよ。

懇願するような声でそう言うと、サンジはゾロの体から離れて立ち上がった。正確には、立ち上がろうとしたところ膝が砕け体は横倒しになって、冬の波止場の石畳の上に転がった。
歩けなくとも出来るだけ距離を取りたいと言うように。まるで、身を凍らせてゾロの命を繋ぎとめたのが誰か、そんな事実を無かったことにするように。

ナミは慌てて駆け寄ると、乾いている己のコートをサンジに着せ掛けた。彼は既に気絶していた。












Bosom Caresser ブザム・カレッサー
オレンジ・キュラソーとグレナデン・シロップを加えて、
十分にシェイクして作るブランデーベースのカクテル。
甘口だがアルコール度数は40度と高い。
「Bosom Caresser」は直訳すると「胸を愛撫する人」だが、
「密かな抱擁」「私だけの愛撫」といった意味を持つ。