Saty og







びちゃびちゃと滴る血に指先を浸して床に絵を描きながら、サンジは濡れて役立たずになった煙草の事を考えていた。
廃屋に立ち込める陰気な空気、拾った餓鬼の思いつめた眼差しが鬱陶しい。

どっこいしょ、とまるで親父臭い掛け声と共に、正面の生ゴミがよろけつつ立ち上がった。
ぼとぼと、と何か汚らしいものが沢山零れ落ちる。おいおい、臓器のひとつやふたつくらい転がったんじゃねェのか見苦しい。

「行くのか」

ゾロは答えず、ぐるりと首を回した。
サンジは嘲笑う声音で続ける。

「テメェ刀折られただろうがよ、このクソ負け負け剣豪」
「煩ェ、テメェなんか足ィ折られてんじゃねェか負けコック」

背筋が途轍もなく冷えている。
酷く寒くて、指を浸している己の血の池の方が熱い。

「俺の魂は足じゃねェし」
「屁理屈だな。それに──見てたぞ、テメェ腕もやられたろ、馬鹿が」

舌打ちを寸前で噛み殺して、サンジはうそぶいた。動くかどうか今必死で確認していると言うのに、この男には気遣いが足りない。

「錯覚だ」
「そうか。じゃ俺も錯覚だ」
「……そりゃちょっと無理あんだろ」

腹が痛いのに笑わせるな、そう思いながらサンジは溜息を吐いた。
ゾロの腰にいつもぶら下がっている、もはや部品の一部だとみなされていた三刀は、影も形もない。完膚なきまでに粉々になって、何処かの泥の上に落ちている筈だ。

「問題ねェ」

ゾロは一歩踏み出した。
ばたた、と雨粒のように血が床を叩く。同時にばらまかれる生臭い臭い。

「人を殺すのは刀じゃァねェからよ」

まあ、そうだろうな。サンジは納得した。
そんな危険なものを持たないで、とゾロに泣いて縋る女を見る度、いつも忠告したいと思っていることだ。

武器は勝手に動かない。災いはそこにあるのではない。
何故なら、敵の死因は、刀傷ではなく──

「俺だ」

その殺意だ。

そのまま外に出て行く背中を見送るなんて無駄な事はせずに、サンジも上半身を起こそうとした。
ぐちゃりぐちゃりと体の中で何か潰れる音が、不快感を煽る。
滝のように滴る脂汗が顎から床に染みを描いた。

「む、無茶だよ、アンタ!」

小声で叱責してくる餓鬼の手を払いのけながら、サンジはもう一度試した。
ロロノア・ゾロは止めなかった癖に、自分のときだけ心配するとは無礼極まりない。

「ぐ、……」

動く指先で壁を探り当てながら、ずるずると這い登るようにして、姿勢を整える。座っている体勢には何とか持ち込めた。
片足が動いていないのは、腱が切れているからだろう。また船医にどやされる。

「ちょ……ホントに死ぬぞ!?あの兄ちゃんがせっかく囮になってくれたのに、」
「馬鹿か」

あのマリモにそんな脳があるかよ。

サンジは眉を寄せて、壁の溝に爪を引っ掛けながら、片足で立ち上がれる位置を探した。
自分の方が重傷だなんて、そんな屈辱を認めるわけにはいかない。

「奴ァただ単に、負けっぱなしじゃ居られねェだけだろ。断言するが、俺やテメェのことなんてコレっっっっぽっちも関係ねェぜ、あのクソ剣士にゃ」

ゾロが出て行ったのは、何かを守る為ではない。
サンジはそれだけ知っている。

「は?」
「んで俺は……こんなザマでも、お前よりゃ強ェしな」

片腕は、はみ出掛けたものを押し戻す為に腹に当てていた。破れたワイシャツの裾を結んで、なんとかその代わりに出来ないかサンジは先程から試行錯誤しているのだが。
全身の毛穴から吹き出ている汗は、既に透明ではない。赤だ。

我ながら亡者のような動きだと思いながら、一歩踏み出す。

「ちょっ……あんた達、おかしいぜ!?ヤクでもやってんのかよ!」
「…………」
「何で歩けんだよ、おかしいって……良いから止まれって!死ぬって言ってるだろ!?」
「…………」
「痛くねぇのか……?ホントに、人間かよ……!?」

気配が僅かに遠ざかったのを感じて、サンジは苦笑した。人は、理解できないものを見たとき、怯えるか、畏れるか──厭う。
霞む視界に映る、血の赤。

化け物。気違い。何度も言われる言葉だ。ゾロなど、きっと耳にタコが出来ている。
まあ、サンジだって、あの馬鹿を見ているときには良くそう思うけれど。

本当はそうではないことだって、知っている。

「はっはーん。テメェも……ヒーローにゃ痛覚はねェとか思い込んでるクチだな?」

どんな危機的状況でも、にやりと笑って立ち上がれるのは、何故か。
どんな怪我をしていても、諦めないのは何故か。

がくがくと震える足を、前に出せるのは?

「……馬ー鹿」

痛いよ。当たり前だろう。
どれ程の強さがあっても、痛いものは痛い。
斬られ、殴られ、それでも立ち向かうのは、痛みを感じないからじゃない。特別に出来てるからじゃない。

「俺ァ今……泣き喚きてぇんだよな、実際」

サンジはそう確認した。
今、動かずに寝ていられる権利を得るために、それなりのことをしても良い気分だ。

本当に、自分がどうやって歩いているのかわからないので。
食いしばった奥歯が砕けかけているのは、千切れた爪先が震えているのは、辛いので。
餓鬼に振り返って余裕の笑みを浮かべてやる事は省略してしまうくらい──針の先に立っているような、この危うい精神のバランス。

「ホントは、今度こそ死ぬんじゃねェかって……クソ怖ェし」

いつだって、楽な道も見えている。

「もう、動けないフリして行かなくても良いんじゃネェの?とか思っちゃうし」

そこへの道のりだって知っている。
選ぼうと思えば、選べる。
楽な喧嘩ばかりしていれば、クールに決めるのは簡単だから。

「ハハ……」

多分、ゾロにだってそれが見えていることを、サンジは薄々気付いている。
──賢く生き延びることが出来る、平坦な道が。

けれど奴がそれを選ばない事もサンジは知っているから、見てみぬふりをしてやろう。
選べるけれど、選びたくないのだ。
本当は──

「……ダッセェなァ」

誰だって、サンジだって──ゾロだって。
死ぬのは怖い。
振るえる程に。
命乞いだって出来そうだ。許して下さい、と鼻水を垂らしながら神に縋るような。

「夢ァ、消えたか?」

こんな格好悪ィのが、海賊王の船のクルーだなんてよ。
そう呟きながら、サンジは唇を噛んで苦痛の声を殺した。

ずるり、ずるりと動く限りは足を引き摺る。
足が切れたら腕で這いずる。
腕が落ちたら。
歯で噛んで進もうか。

「……ホント、見てられねェザマだろ」

先に出て行った男は、もう死んだだろうか。
それとも、サンジが──首だけになっても這いずって行くまで、待っているだろうか?

違うな、とサンジは苦笑した。奴は待たない。死んでも、そんな事は期待しない。
──その仮面の、奥底を指摘するのは止めておいて、そういう事にしておこう。

「……、……」

垂れ落ちる命の雫が、醜い痕を木の床に残す。
いずれこの床は腐れ落ち、腐臭を発するようになる。

一皮むけば、なんだってそんなものだ。
潔さなんて、サンジは全く信じては居ない。綺麗な夢だって同じだ。色々なものを振り切って笑うあの船長だって、何も考えずに生きていく事は不可能で。

簡単そうに見えるのは、簡単なことにしておきたいからで。
その裏側に必死に隠している汚さだって、サンジは知っている。己に覚えがあるからだ。

諦めたら楽だとか。
痛い思いはしたくないとか。

そんな脆弱さ、嫌と言うほどわかっている。

「……ああそうだ、格好悪ィんだ、俺ァ」

ぼんやりと霞む意識の中で、サンジはもう誰に喋っているのかもわからないまま、呟いた。
きいきいと煩い餓鬼の声は、既に考慮の外だ。

この血の赤さと熱さと痛みを投げ捨てる事は出来ない。
けれど、涙は流さない。

「クソ格好悪いから──だから、メチャクチャ格好つけたいんだよなァ」

なァ、クソ剣士。
俺ァテメェの行動原理なんざ理解したくねえし理解する気もねえし実際理解できてねえけど。

それだけわかっちゃうんだよなァ?


「クソオトコノコだからよ」


扉を開けた途端、眩しい日差しが目を灼いた。
ずらりと並ぶ敵の輪郭を見渡して、サンジはスマートに見えるように笑った。

後、何秒見栄を張っていられるかなんて、そんなの知ったことではない。









Salty Dog ソルティ・ドッグ
ウォッカにグレープフルーツジュースを少量加えたカクテル。
ソルティ・ドッグはイギリスで船の甲板員を指すスラングで、
「塩辛い奴」の意。ドッグという事で元々は蔑称。スノースタイ
ルの塩とグレープフルーツのほろ苦さが、彼らの生き方を現
している。