HIGH BALL









つんのめって転ぶ一瞬前の角度。

「ふんぬぁぁあああぁああああっ!」

それを維持しながら彼らは走っていた。
もつれそうになる足を細心の注意を払って動かし、最大の筋力を使って回す。細い綱の上を渡る危うさと、形振り構わずオールを漕ぐ力強さのその均衡。暴れ馬の上に直立しながら、手綱ももたずにバランスを取るような。
普通は落ちる。

ひやりとした一瞬の連続は既に、秒を超えて分の単位を数えていた。

「うぐぉおおおおおおぉぉおおっ!」

風圧で顔面が変形することなど何のその、ゾロもサンジも既に外面は捨て去って、面白いうなり声を上げながらとにかく走っている。
目の前を走る列車の、掴めそうで掴めないその距離。更に増していく速度。しゅ、しゅ、という蒸気の音はその間隔を短く刻んでいく。
切り付けるように降り注ぐ日差しが体を焼く。掻くそばから蒸発していく汗。

「この鈍足クソ剣士が、俺様の足引っ張んじゃねえェえええっ!」
「何処がだ巻き眉毛ぇえええっ!!言いがかりも大概にしろアホ王子ぃいいッ!」
「テメェが俺の横に居るだけで不快過ぎて不快過ぎて不快過ぎてあだっ、とにかく不快ワーストモードなんだよォォォオオオオっ!」
「へっバーカ、お前舌噛んでやがあだだっ!」

余力のある場面では全くないのだが、それでも憎まれ口は心臓の鼓動と同程度には重要である。
手を開いてぴったりと指を揃え、腕を一秒に三往復間隔で振りながら、彼らは全生命力の五割を走ることに、残りの五割を相手の無様を馬鹿にすることに使っていた。何より、相手に喋る隙があるのに自分にはないなど、認められるものではない。
結構余裕じゃない、と、麗しの航海士がこの場に居ればそう言っただろう。

「ぐあああががああああああ」
「だあああああうううああああ」

それでも汽車は無情に速度を上げていく。これ以上距離を離されては絶対に追いつけない。

「テメェ息が上がってんぜェェ、短い足でご苦労様でェェえす!」
「テメェこそ脳みそ軽ゥい癖にその速度かよォォ、貧弱過ぎてまいるなぁあああ!!」

更にダッシュ。
人類の限界?そんなものはクソ食らえ。

速度を一瞬でも緩めてしまえば、足の疲労はかさにかかって攻め立ててくるだろう。一秒前よりも、今よりも、加速、加速、加速していくしか道はない。
レールの溝に足を取られ、転べばそれで一巻の終わり。

限界まで力を振り絞って走っていた。呼吸さえこの際置いてけ堀だ。
手を伸ばせば触れる距離、けれど手を伸ばす隙を作れば離される。
乗り遅れるという選択肢はないのだ。乗るか、乗るか、それとも乗るかである。

サンジが歯を食いしばり、体が僅かに前に出た。流石に、走る速度では一長がある。
気分は良いが、けれど、本来の目的はゾロとの走りっこではない。このままではジリ貧である。やっとのことで追いかけてはいるが、この先まだまだ列車は速度を上げるだろう。

サンジは賭けに出た。

ぐっ、ぐっ、と、太股、すね、かかと、つま先からポンプのように力を送り出し、一気に破裂させる。
最大限力を込めた足で、地を蹴った。

「っ……ぉるぁぁあああああ!!」

10.00。
審査員にも文句のつけようもない完璧な飛び込み。

右手のつま先が手すりに触れた。
つるりと滑って宙を掻いた。
その一瞬後、クロールのように振り回された左手の人差し指が鉄棒に巻きつく。
じたばたと空中を泳いで、サンジは列車にしがみついた。

「おおおっしゃらああああああ」

そこから指一本を支えに腕の力で体を引き寄せる。
そして、タラップに足を掛け、手すりをしっかりと掴みながら後方に体を傾けて、腕を伸ばした。

既に列車の速度は上がり、ゾロは引き離されかけている。
汗が飛び散ってきらきらと尾を引いている。
一瞬一瞬がコマ送りになり、これが最後というタイミングに滑り込む。
今しかない。
瞬きの後では遅い。

サンジは限界まで腕を伸ばして手を差し伸べた。



「跳べっ!」




頷く余裕もなく、前傾姿勢からゾロが、上というよりは前にジャンプした。
両手を突き出し、少しでも距離を稼ぐ。
サンジもぐっと更に指先を伸ばした。無意識に、口から滑り出る言葉があった。

「ファイトォオオオ!!」
「ファイトオオオオオオっ!!!」

こう叫べば、出来ないことはない。

ほら、現に、
あと手のひら分、
指先分、
爪先分で──

届く。

届けば、それを握って引き上げるだけ。
握って引き上げるだけ。

──握って?

「おっしゃあああっ!」








……何を?







「うわ」

反射的に、サンジはひょいとその手を引っ込めていた。
昨日、思わず虫の卵に触りそうになってしまった時に上げた声と非常に良く似ていた。






ずばべしゃっ!
ごろごろごろがらごろんっ! ぽてん。





「あー……」

引っ込めてしまった手をにぎにぎと動かしながら、サンジは何を言おうかと迷った。
犯情を考慮するなら、無意識だったという事は正当化理由になるだろうか。

「ヤ、わざとじゃねェんだぜ、うん」

後頭部をぽりぽりと掻きながら、サンジは自分で出来る最大限に「可愛らしい顔」を作って見せた。
流石に、ほんのちょっと悪かったかな、とは思っている。

「……多分」

そんな言い訳は、盛大に顔面からレールの枕木に突っ込んだ挙句、既にちっぽけな点になってしまっているゾロには勿論届かなかったのではあるが。









HIGH BALL ハイ・ボール
正確な定義はないが、ウイスキーをソーダで割り、ステアした飲み物を指す。
かつてアメリカの鉄道会社は信号機の棒の先にボールを取り付け、列車が遅
れている場合にこれを高く上げて運転手に知らせた。つまり「ハイ・ボール」は
「急げ」の合図なのである。転じて「急いで作れる、簡単な飲み物」を意味する。