KISS IN THE DARK.









KISS IN THE DARK






ぐったりとした狙撃手を背中にくくりつけ、ついでに伸びきった船長を左肩に担ぎ上げ、ゾロは右腕を空けた。
人を庇い、更に半身を拘束されての戦闘は不可能に近い(はっきり言ってしまえば普通は無理だ)が、常人の範疇には納まらない男なので、サンジは心配しなかった。
チョッパーと二人で船に居るナミの方が余程気がかりだ。今海軍にメリー号が襲われたらひとたまりもない。

「急げよ。迷ったらぶっ殺すぞ」
「善処する」

ウソップの顔は青黒く変色している。眠っているのではなく気絶しているのだ。
酷く忙しないくせに、細い呼吸。毒の種類がわかるものはこの場には居ないが、危険だということは見ればわかる。
ルフィも大差ない。打ち込まれた太い鉤針は手術でもしないことには取り出せないだろうし、この力の抜けようからして十中八九海楼石だ。

指の震えを止めるために全力で地面を掴まなければならない。

サンジは海兵の走り回る表通りを顎でしゃくった。何の間違いか人間扱いされている藻類が無事に船まで帰り着くには、複雑なルートなど選んでいられない。
そのために、ゾロは片腕を空けたのだ。

「良いか、真っ直ぐ、真っ直ぐ、真っ直ぐだ。少しでもこの方角から外れやがったらぶっ殺す」

船の泊まっている入り江までの道を説明するなどという愚策は犯さない。
サンジはこの天然純度100パーセント迷子の扱いは多少心得ている。

「障害物は斬れ。家とか壁とか全部斬れ。とにかく真っ直ぐ行かなかったらぶっ殺す」

ゾロは頷いた。
さらりと刀を抜くと、険しい眼光で前方を見詰める。

「急げ。急げよ。急がなかったら」
「ああ、大人しく殺されてやる」

そう言うと、ゾロは薄暗い路地裏から一気に飛び出した。
獣のように姿勢を低くし、刺突の体勢に刀を構えて、矢のように一直線に。

たちまちにあがる怒声。警笛。
手持ち式のサーチライトが夕闇を切り裂く。
剣戟と断続的な銃声、人々の悲鳴を聞きながら、サンジは安心して指を震わせた。

約束だけは守る男だから、きっと船に辿り着くだろう。
ナミとチョッパーは無事だろう。治療は間に合うだろう。

気付いたら指どころか腕まで痙攣していた。
気の抜きすぎだ。サンジは苦笑した。

約束だけは、守る男だから。

ぐにゃりと歪む視界には、もうその背中は映っていない。
迅速な行動、その態度は珍しくサンジの気に入った。

寄りかかっていた壁に名残惜しく別れを告げて、身を離す。
手だけは薄汚れたそれを辿った。恐ろしく気分が悪く、全身が凍るように冷たかった。
指先は壁との温度差を無くしている。
よろよろとふらつきながら足を踏み出した。何て情けない。

(……こんな所で)

意識の混濁。痙攣。
内臓が腹の中でひっくり返っている。

「ぐげえ」

レディには聞かせられないカエルのような音を発して、サンジは口を抑えて身体を折り曲げた。
生暖かく饐えた臭いの吐瀉物が指の間をすり抜けていく。

「…………ぐぅ、う」

それをべたりと壁になすりつけ、サンジはもう一歩踏み出した。
そう、やってみれば何でも簡単な事なのだ。
一足歩けたのだから、二足だって歩ける。それ以上だって。船までだって。

動けば動くだけ症状が重くなることはわかっている。
でも今は指の震えだって素直に晒す事が出来るのだから、大分環境は改善された。

嘔吐のせいで滲んだ涙を肩口で擦り取り、再び前を見る。
今はあの男のような、普段のような派手な手段は選んでいられない。海兵に発見されれば一巻の終わりだろう。

ふう、と一息つくと、出来るだけ平静を装ってサンジは歩き出した。
壁にすがって歩いては怪しいことこの上ない。何より、そんな姿を見られることが不快だった。






+++ +++ +++






沸かしたお湯をボウルに入れて運ぶ、単調な作業。
ナミはそこから立ち上る湯気にそっと頬を寄せながら、キッチンのドアを開いて外に出た。

夜。
ボウルを支える熱いほどの指先と、夜風が心地よいむき出しの肩。

ナミは階段を踏み外さないようにそっと降りた。
湛えた湯が揺れる。一段ごとに僅かにこぼれ、スカートの裾を濡らし、瞬間は熱いがすぐに生温く冷える感触は不快だ。

最後の一段を降りると一息ついてボウルを抱えなおす。

「具合は?」

後ろからかかった声には振り返らず、ナミはそのままで答えた。
今は暇ではない。ボウルから目を離すと、こぼしてしまう。

「ルフィの傷はそんなに深くないわ。問題なのは素材だから、取り出せば一週間もせずに傷はふさがるって」
「そうか」
「ウソップもまあ、大丈夫みたい。毒が体中に回りきる前に処置できたって。かなり強いものだったみたいだから、もう少し遅かったら」
「……命が危なかった、か」
「遅かったら、ね」

ナミはにこりと微笑んだ。
ゾロが動かない二人を担いで帰ってきたときは本当にびっくりしたが、慌てふためいて手当ての用意をしたのもつかぬ間、今は安心できる状況だ。

「でも、間に合ったんだから。やれば出来るじゃないの」

いつも迷子だ方向音痴だと馬鹿にされているが、流石に仲間の命がかかっていたということか。
借金の利率を下げてやっても良い、稀に見る寛大さでそう思うと、ナミは感慨深く溜息をついた。

「アンタが迷わず帰って来れるなんてホント奇跡よねぇ」

からかうように言ってボウルを床に一度置き、今は手術室である男部屋に続く蓋を開ける。
自由になった身体を振り向かせて、ナミはいつものように甲板の手すりにもたれて座る剣士を見た。

「そういえば、サンジ君は?一緒じゃなかったの?」
「……途中で別れた」

真っ直ぐ、真っ直ぐ帰ってきた。
後ろは振り向かずに。

「後から来るさ」

そう、と言ってナミはゾロから視線を外した。
その表情は、闇に遮られて見えない。






+++ +++ +++






じゃり、と音を立てて道を塞がれる。
判で押したように似通った下卑た笑みを浮かべ、威圧するようにおおっぴらに凶器を携える男達。
ゴキブリのように何処の町にでもいる、まっとうな手段では稼げない類の人種。

平たく言えば、ごろつき。

自分より弱いものと見れば、かさにかかって攻め立ててくる。
対処方法としては簡単で、その辺の壁でも地面でも一度蹴り飛ばしてやれば良い。ストレス発散の為でもなければまともに相手をすることもない。

「ハロー、兄ちゃん。何処へ行くんだい?」

ハロー、雑魚ども。
そう呟いたつもりだったけれども、あまり大きな声にはならなかった。
汗の掻きすぎで水分が身体から失われ、舌が乾いている。
全身が瘧にかかったように震え、傍から見ればまるで精神異常者だ。

「…………おーい、起きてるか?」

爪の間に土や何かが挟まった汚らしい毛の生えた手が、襟首を掴む。
ぐいと引き寄せられ、臭い息を無遠慮に吐きかけられる。表情で不快は伝わったと思うが、それで開放されるわけがない。

腕が思うように動かない。
痙攣で腕を攣らないようにするのが精一杯だ。
太陽が沈んだせいで、顔色がわからないのは救いだろう。多分、ゾンビよりも酷い事になっている筈。

喋り続ける声が近くなり、遠くなり、時折只の雑音にもなる。
マーブル模様にゆがむ視界。
締め上げられている喉、その内側の食道がむずかっている。
まずい。

「うわ、汚えな」

嘔吐の気配を感じたのか、男がわざとらしく飛び離れる。
サンジはどうにか自制した。口元までせり上がって来た胃液が、反抗しながら戻っていく。

代わりに、ふ、ふ、と笑いにも近い呼気を吐き出す。
足元の感覚がない。

(……真っ直ぐ、真っ直ぐ立たなきゃ、ぶっ殺すぞ)

「──そうだよなァ」

言った言葉には責任を取らなければならない。
サンジは、うっすらと笑った。
場にそぐわない微笑みに、一瞬男達が怪訝そうな表情を見せる。

「俺ァ今絶好調に絶不調なんだけどよ。ちょい見逃してくれるとクソ嬉しいぜ?」
「はっは。兄ちゃん、正直は確かに美徳だがよ。この状況で通じると思うのは只のバカだぁな」

わざとらしい揶揄に、集団が湧く。

「……金は持ってねぇ」
「そりゃ残念だ」
「ちっともそうは見えねェけど?」
「ははははは」
「見逃しちゃ……くれねえみてェだなァ」

一息で笑いを収め、男は見せ付けるように錆びたナイフを翳した。
わざと手入れを怠っているのであろうそれは、余計な痛みと跡を残すためのもの。

「贅沢は言わねぇ、テメェが苦しんでくれるだけで、俺達ぁ満足なのさ。その様子じゃ、毒でも喰らったか?」
「…………」
「何て幸運だ。弱ったアンタが一人でこんなトコフラフラしてるなんてなあ。道理でさっきから騒がしかった筈だ」
「…………」
「安心しろ、海軍には突き出さねぇよ」

ああ、そうかい。
男の目のぎらつく光を見て、サンジは納得した。
その他大勢の顔を覚えておくほど脳みそに無駄なスペースはないのでわからなかったが、どうやら自分に恨みのあるものたちの一団らしい。

寒気を感じて、サンジは口元に手を当てた。
その様子を見やり、男は歓喜の表情を浮かべた。無遠慮な野次が飛ぶ。

「ゲロっちまう程怯えなくたって良いんだぜえ。血反吐は吐いてもらうけどな」
「『助けてー』って叫ばなくていいのか?もしかしたら白馬の王子様が来てくれるかも」
「小便ちびんなよ、今からそんなぶるぶる震えちまってさ」

好き勝手な事を言いながら、こちらを囲んだ円の半径を狭めてくる男たちの目に浮かんでいるのは復讐の狂気と興奮。
サンジは袖で軽く唇をぬぐって、顔を上げた。

そう、何処かのありふれたストーリーなら。
絶体絶命のピンチに、何処からか颯爽とヒーローが現れて。
格好よく鮮やかに、思いつく限りの美辞麗句を並べたてられながら雑魚を蹴散らして。
振り返り、救った弱者に余裕の微笑を見せる。

面白い。面白い話だ。
そんな事は有り得ないから、夢を見ることが出来る。

現実では馬鹿みたいに苦労する。

「……助けなんざ、来ねぇよ」

聞こえない声で呟く。

「プリンスは俺だからな」

苦労しながら、俺は俺でいられる。
半端なプライドと卑小な自我を取り繕って、馬鹿みたいに。
誰かの腕に助けられるのではなく、自分の足で進める。

サンジは男達を睥睨して、自らの腕を持ち上げて見せた。
暗がりではわからないだろうが指先は細かく痙攣し、ぎこちない動作。

ふらつく重心をこらえて、サンジは笑った。
きっかり二秒、沈黙があった。

「……余裕じゃねェか。じゃあ遠慮なく行くぜ?」

サンジに抵抗の気配がないのを見て取ってか、誰かが鼻で笑う。

「朝まで持ってくれよ、サンドバッグちゃん」

輪を破って男が一歩踏み出し、先ほどのサンジとは比較しようもないほど素早い動作で、腕を振り上げる。
それに向かってサンジは視線を据えた。

「──俺を殴ったら、元気になってから三発蹴り返す」

ひたり、と男の動きが止まる。
息を詰める気配に、心細くなったのか仲間を見渡した。

「骨でも折ったら、内臓破裂」

狼狽する男から視線を外し、今度はその隣に向ける。
順に追って行きながら、サンジは彼にしては懇切丁寧に説明した。

「ダウンさせたら、後で入院三ヶ月フルコースだ」

その言葉に、一人のふらついた優男を囲んで今にも袋叩きにしようとしていた一団の気勢は確かに削がれる。
それはその光景のリアルさの為だ。この男はやるといったら、必ずやるだろう。
今の彼にはなくとも、本来そんなことくらい三分でやってのけてしまう実力がある事を男達は知っていた。

「──その覚悟はあるか?」

暗闇の中で、目だけがぎらぎらと光っている。
びくり、と一人が肩を揺らした。
誰からともなく、包囲網が少し広がる。

「…………くだらねェ脅しだな」

その緊張を破ったのは、最初に話しかけてきた男だった。
ひげ面を皮肉に歪ませ、無造作にサンジに一歩近寄る。

「っ!!」

ぱあん!

甲高い音。
グローブのような厚い手の皮が、サンジの頬を一瞬で張り倒した。

「……………」

あっけなく、本当にあっけなく無様にサンジは地面に転がった。
事態を理解するための数秒。

「は……ははは!」
「口ほどにもねェ!」

サンジの様子を見て、男達は一瞬でも戸惑った自分を恥じたのか、ことさらに笑い声を上げた。
男は転がったサンジに近寄るとしゃがみこみ、子どもに言い聞かせるような態度で語りかける。

「兄ちゃん、一つ選択肢が抜けてるぜ?」

とっても簡単な答えだ。男は笑いながら説明した。
サンジの襟首を掴んで引きずり上げ、傍の壁に叩きつける。

「此処でテメェを殺っちまえば後腐れもなくて万々歳じゃねえか」

賛同する声、声、声。
重力に従い壁に沿ってずるずると崩れ落ちる身体。
諦めた顔で、サンジは地面に尻餅をついた。

「……あー」

震える指を顔の高さまで持ち上げ、その間から怯えたように男達を見上げた。
沈痛の表情を作り、サンジはがくりと肩を落とす。

「選りにも選ってサイアクなの選んじまったなァ」

サンジの言葉を理解しようとせず、男達は祭りの雰囲気によっている。これからの発散を夢見て。

ゆらり、と闇が動く。
サンジは肩の埃を払うと、のろのろと立ち上がった。
男たちからしてみれば、再び殴りやすいようにしてもらったようにしか見えない。

「今度は俺の番だ!」

勢いづいてこちらに向かってくる雑魚の拳をサンジは軽く掴んだ。
握力のないそれはすぐに振り払われたけれど、腕の持ち上がる時間が稼げればそれでよかった。
腹に食い込む一撃を意識しながら、サンジは軽く腕を突き出していた。勢いは必要ない、向こうから来てくれる。

どぼっ

「……ぐっ」
「ひ、ひぎゃがえあああああああああ!!?」

胃をえぐる一撃に、サンジは呻いた。流石に堪え切れずに僅かに胃液を吐く。
一方、男は人にあらざる絶叫をあげると、じたばたと腕を振り回しながら二、三歩後ずさり、バランスを崩して倒れこんだ。
その顔の二つの穴からは、どろりとした粘液がたれ落ちている。

男の様子は気にも留めず、サンジは指についた白いものを振り落として当然の事実を言い放った。

「スゲェ調子悪ィし面倒臭ェけど。俺を殺そうとしたら俺はクソ頑張ってテメェらをクソ殺し返す。手加減ナシだ。余裕ゼロだかんな」

言い終わるか終わらないか。

ぱあん!!

先ほどと似たような音が響き、けれど決定的に違う。
彼の指先の痙攣と連動して震える銃口は、闇の中確かに煙を上げていた。
ぶるぶると大きく揺れる銃身。しかしそれに込められた意思は不動のものだ。

一瞬遅れて悲鳴が上がる。
男の一人が腹に空いた穴に手を当て、信じられないような顔をして座り込んだ。

「……死にたくねェからよ」

絶叫が再び夜空に響く。
悪魔でも見たかのような表情で、誰かが混乱の中叫んだ。

訳のわからない論理展開。
重要な何かが自分達とは一つずれている気がする。

「てっ、てめえ、頭イカれてんじゃねえのか!?」
「煩ェ。俺ルールだ」

動かない身体を意識しながら、サンジはそれでも出来ると思った。
簡単な事だ。約束を破らない男に失望されないためには、こうするしかない。

俺の事なんか放っておいていい。
テメェに担がれるなんざ何があっても御免だ。
俺の事なんか見るな。
テメェと並べる位置にいるんだ。

王子様なんか待たずになんでも出来る。
只のチンピラでも、海賊でも、コックでも。
なんだって出来る。

俺ルールだ。






+++ +++ +++






喉に詰まった血の塊を吐き出す。

「あーあぁ。出来てなかったみてェだな、覚悟」

こめかみからぼとりぼとりと、流れるというよりは落ちる血を拭い、サンジは腫れ上がって半分潰れた片目を諦めた。見えない。
月は出ているのだろうが、今の自分には関係なかった。

サンジは両目を閉じたまま、ふらつく背骨を背負って暗闇の中を泳いだ。
全身が血やら汗やらその他の液体やらでずぶ濡れで、酷く寒い。
ぺたぺたと子どものような足音がする。きっと朝になったら、赤い靴跡が千鳥足で道を迷走しているに違いない。これでは奴を笑えない。

取り合えず、平衡感覚を失って倒れるまで歩いてみようと思った。
それからどうするかはそのとき考えよう。


まだ腕があるから、這って進むのも悪くない。










KISS IN THE DARK キスインザダーク
ジンとベルモットという「定番」の組み合わせに
チェリーリキュールが加わる事で絶妙にテイスト
が変化したカクテル。チェリーリキュールによる
真紅の色が美しい。 アルコール度は高めだが
その割にすっきりと飲める。