TOVARICH









TOVARICH






サンジは煙草を咥えながら、甲板の手すりに後向きに寄りかかって空を眺めていた。
穏やかな昼下がり。昼食とおやつの間の、ほんのひと時。

別にやることが無いわけではないのだ、探そうと思えば幾らでも見つかる。
動くことが嫌いなわけではないし、疲れているわけでもない。しかしサンジはぼうっと空を眺めている。
別に理由は無い。こんな日、こんな気分もあるというだけだ。

「なあ」
「なんだ」

別に、いつでも喧嘩しなければいけないというわけではない。
サンジとてゾロがこの船にいて呼吸をしていること位で苛立ったりしない。まあ、たまに文句を言う日もあるが。

「………なあ」
「………なんだ」

特に言いたいことがあったわけでもない。
サンジは煙草の灰を海に捨て、言葉を探した。

「…………」

見つからない。

そうか、とサンジは諦めた。どうやら、サンジがゾロに掛ける言葉は無いらしい。
ゾロの方も、サンジの台詞を待っているかどうか。いないに10ベリー、と誰に対してかもわからず賭ける。

煙草を口に咥え直し、すう、と吸い込む。
日差しは目を焼くというほどでもない。生温い光。体と同じ温度の水に浸かっている気分になる。
静寂は息苦しくない。完全でもない。
前甲板の方からは、我らが船長の能天気な声が響いてくる。

唐突に、サンジの口から音が漏れた。

「俺を殴ってくれ」
「……沸いたか」

本人すら意識していなかったのに、何故か言葉として意味を成したようだ。
然程の動揺も見せず、ゾロは当たり障りの無い台詞を返してくる。気にせずサンジは続けた。

「思いっきりさ、殴れよ」

頬骨が砕けるくらいでいい。

少し意地悪い気持ちでサンジは言った。当たり前の顔をしてゾロは動かない。見なくてもわかる。
ぴん、と弾いた吸殻が、足元の粘性の高い水溜りに落ちる。
三秒待ってやっても、やはりゾロは動かなかった。

「………………」

サンジはぼんやりと空を見上げ続ける。
空気は熱くも無く冷たくも無く、だから自分の体が熱いのか冷たいのかもわからない。
犬歯で新しい煙草のフィルターを噛む。本当に全く、何故自分はここにいるのだろう。

「なあ」
「なんだ」

先程のやり取りは完璧に無かった事にする。
五分ほどの時間を人生から切り取って捨て、初めからやり直す。どうも、少し考えながら話した方が良さそうだ。サンジはゾロと口で会話などあまりした事がなく、不慣れな事はそれだけ失敗し易いのだから。
蹴りならば、呼吸をするように自然に叩き込んでやれるのに。負け惜しみだろうか。


「もしもの話だけど」

ああ、とゾロが唸った。
眠ってはいないようなので、サンジは相槌が適当なものでも気にしなかった。そもそも、特別聞かせるような重大な話ではない。

「もしも、俺がルフィの船に乗って無くて、それかテメェが乗って無くて」

煙草に火は点けていない。サンジは体重の半分を手すりに預けたまま、視線を降ろした。
格納庫の扉の横に、緑髪の剣士が腰を下ろしている。サンジの斜め前に位置しているので、必然的に斜めからの顔が見えていた。目は閉じられている。

「それでも海賊だったりしてさ」

軽く想像してみる。それほど違和感は無い。
反応がないことも気にせず、サンジは続けた。別に、寝ていてもいいのだ本当は。

「んで、敵同士」

どうやら段々、自分の言いたい事がわかってきた。サンジは胸の裡で呟く。

すん、と鼻を鳴らして息を吸い込んだ。濃い潮の匂いと薄い錆の臭い。
ゾロの肩口にある新しい傷は、それでも既に血が固まりかけている。木綿の布は赤茶色く染まり、命に障る程でもないが浅くもなさそうだ。
生傷の耐えない男だから、別に何か新しく得る事のある光景でもない。頭に寝癖でもついている方がまだ珍しい。

「そォいうのも、イイんじゃねぇかと思っちまったワケ。今な」

どうしてなんだろうと思う。
その方がずっと、ずっと自然なのかもしれないのに。

ナミやロビンは傷つけられない。ウソップやチョッパーも、例え敵になったとしても痛めつけられない。ルフィでさえ、きっと殺す気にはなれない。
でもゾロだったら、大丈夫な気がする。敵として出会っても。

「俺の方がもっともっと、イイコトしてやれんのに」

サンジは軽く目を閉じた。
風も無く、空気は凪いでいる。ナミも反応していないような、穏やかな昼下がりの海と、それに浮かぶ船。乗っている自分。
なんでここに居るのだろう。

(───今だって、飽きる程殺し合いは出来るけど)

けどもし、同じ船に乗ってるんじゃなけりゃあさ。
ホントに、胴を斬られたり首をへし折ったりが、もっとし易くなるだろう?

本気でゾロを殺そうと思うのは簡単だ。
だが本気でゾロを殺すのは難しい。やろうと思って出来ない事はない筈なのに。

あの程度の雑魚でさえ、後に残る傷はつけられる。敵であるからという只一点だけの理由で。
自分が与えるものは、痛みさえ生温い。

ゾロが目を開けた。寝ていなかったらしい。
こちらに顔を向け、目を細める。当然のように視線は合わなかった。

ゾロはサンジの顔でなく、わき腹を見ている。
黒いスーツの上に血の赤は載らない。只、じっとりと湿って色が濃くなるだけ。足元の水溜りには吸殻が浮いている。

「痛ェのか」
「ああ。テメェに斬られるよかずっと」

そう言ってやった。
事実だ。意地悪で言ったのではない。真実、そうだった。

ゾロはサンジを、きちんと斬ったことがないのだから。
瞬きするように鬼徹で首を刈られるその他大勢よりも、きっとサンジの方がゾロの殺意を煽っている筈なのに。

この首は飛ばない。

(………思いっきりさ)

頬骨が砕けるくらいに、蹴ってやろうか。
でもそれでもきっと、足りないのだ。

「───もしもテメェに俺のメシ食わせてなかったら」

想像図は乾いていた。しかしリアルだった。
このひと時の気まぐれが作り出した白昼夢は、けれどこの現実より熱くて痛くて、冷たい。
もっと、もっともっともっと。

いいな、と素直に思う。
それはとても鮮やかだ。見事と言っていい。

「そしたらさァ」

余計なものは何も無い。
苛立ちも焦燥もこだわりも、この男の憎むべき愚かさすらも関係なくなって、只。

───もっと、イイコトしてやれんのに。

もっと灼きつくだろう。
もっと焦がれるだろう。

きっとどちらかの生は終わって、赤を撒き散らし倒れるけれど。
目の合ったその一瞬は永遠になって残るだろう。鋭く、深いなにかが。

サンジは溜め息を吐いた。

「そしたら俺、テメェのこと好きになったかも」

生温い光が目を眩まし、生温い空気が脳を沸騰させる。





「沸いたのか」
「………沸いたかもな」

何故だか怒る気もなくて、サンジはそう言った。
ゾロがそう言うのも当然であったから。サンジは潔く、この会話の最初からを削除することにした。
白昼夢は、ぱちんと途切れて。

おやつの準備をする時間になったので、サンジは手すりを離れる。
ぐう、と伸びをした。

「さて、何を食わせようかねェ……」

瞬きして、もう忘れた。
サンジはやっぱり、ゾロが嫌いなままだった。







Tovarich
ウォッカを半分に、キュンメルとライムジュースを四分
の一ずつ。ライムの酸味とキュンメルの甘味が程よ
く混じるカクテル。ロシア語で仲間・同士という意味。