『ビギナー・オブ・ビギナー』 その1

.
.
.
.

「これをお前にやる」

やる、と言われても、クルガンにはそもそもそれが何なのかすらわからなかった。
細長いたまねぎを模したヘアースタイルを信奉している上司の前に立ち、視線に疑問を含ませる。

ソロンはデスクに座ったままその物体をこちらに差し出してきたので、クルガンは取り合えず反論せずに受け取った。

手袋の上に載せたそれを、しげしげと眺める。彼の知識をもってしても、それが一体何なのか判断は出来なかった。何に使うものかもわからない。
まさに謎の物体としか言いようがない。

「……」

片手ほどの大きさの、極めて薄い円盤だった。
ソロンの手にあった時は手鏡かと思ったが、どうやらそうではないらしい。中心部分に指が通るほどの穴が開いている──それでは使い勝手が悪いだろう。
どちらが表でどちらが裏かは不明だが、片面にはとても鮮やかな発色で剣と盾が描かれていた。もう片面は虹色に光を反射しており、顔が映るには映るが見辛い事この上ない。

クルガンは更に観察したが、材質すらわからない。
紙でも、木でも、陶器でも、どうやら金属でもない。軽すぎる。
どのようにして絵を描いたのかもわからない。
それ以上見て取れる事はないと判断し、クルガンは顔を上げた。

「それは我が領地にある遺跡から出土したものだ。調べさせたが、魔力を帯びている」
「何故私に?」
「使用方法も何もわからんが、俺の知る限りそのような奇天烈な品に興味を示して分析しそうなのはお前だけだし、一番魔力が高いのもお前だ。マジックアイテムは貴重なものだし捨てるのも勿体無かろう?」

もしも危険物だったらという考えはソロンの頭には浮かばないらしかった。
しかし断る理由はない。クルガンは不思議と、この円盤に興味を惹かれていた──というのは、円盤に描かれているのは剣と盾のみでなかったからだ。
模様に見えるが、これは文字だろう。それも、クルガンがまだ見たことのない種類の。

礼を済ませるとクルガンは速やかに退室した。
本日の執務はこれにて終了である。誰が決めたかと言うと、クルガンが今、という他にないが。

クルガンは自室に戻ると、着替えを済ませた。夕食は省略することにした。
円盤を机の上に置き、さっそく『謎の物体』(に記された文字)の分析を始める。

「────」

まずは模様を紙に写し取り、眺める。
文字の形は、古シンダル語に酷似した部分もあるが、全く違う部分もある。興味深い。

(b……?nの連続か、それともm?ここからは違う体系の言語のようだな、しかし何故複数の──)

「おーいクールガーン!」

(──種類の文字を混ぜる必要が?絵文字と言うわけでもなさそうだが……ところどころ、いやに複雑な形態に──)

がんがん、ばたん!ばん!

(──なっている。多分その部分に特別な意味を持たせられるようになっているのだろうな。興味深い──)

「おいクルガン」
「…………」
「おーいクルガン?何やってんの」
「…………」
「暇なら訓練場行こうぜ訓練場、俺新しい技開発したんだよ」
「…………」
「聞いてるか?」
「…………」
「聞いてるかって。何だ?負けるの怖いのか」
「…………」
「無視すんなよ虚しいから……何だこれ、何に使うんだ?」

シードは机の上から、ひょいと円盤を取り上げた。穴の部分に指を入れてくるくる回す。
クルガンは諦めて、紙に書いた文字から目を剥がした。まずはこの騒音発生源を外に叩き出してからでないと、効率のいい作業が望めそうにない。

「!」

そうしてシードを見たクルガンは驚いた。
ぴんと伸ばされたシードの人差し指に支えられた円盤が、紙の擦れる様な音を立てながら高速回転していたからである。
有り得ない動き方だ。絶対に、シードの技術でどうにかなっているものではない。

「シード!止め──」
「え?」

シードが己の指に視線をやったときには、既に遅かった。

円盤はするりと彼の指から抜けると、宙に浮いた。勿論、回転を続けながら。紙の擦れるような音は更に音程を高く、耳障りになっていた。
そして、鏡の面から虹色の光があふれ出る。

「うわっ!?」
「!!」

その一連の事態は余りに早く進行したので、クルガンに出来た事と言えば、咄嗟に顔の前に腕をかざす事くらいだった。それと、馬鹿を蹴り倒して伏せさせる事。

クルガンは、自分の判断の甘さを呪った。
──入室して来た時点で、馬鹿は即刻排除するべきだったのだ。

.
.
.
.
『ビギナー・オブ・ビギナー』 その2

.
.
.
.

目覚めた時、シードは草原に寝転がっていた。

「…………?」

ぱちり、と目を瞬かせる。
ぎゅうとまぶたを閉じ、ゆっくりと三秒数えてからもう一度開く。

「…………」

ここが草原なのはいい。
大の字に寝転んでいるのも別にかまわない。夜露に背が濡れているのも、どうせ乾くから問題ない。
爽やかな風が吹いていることに関しては、むしろ心地良い。

だが、月が二つあるのは駄目だ。

「……俺、頭打ったかな……」

シードはふらふらしている寝起きの脳みそを叱咤した。
しかし目の前の光景はいつまで経っても変わらない。
見上げる星空、いつもより心なしか小さく見える月は、二つあった。表面の模様も違うので、シードの視神経に異常が生じて月が二重にぶれて見えているわけではない。
目を開けて見ている妄想という可能性は否定できなかったが。

シードは記憶を巻き戻す事にした。
自分は一応皇宮に部屋を持っているので、わざわざ草原のど真ん中で遊牧民気分を味わう必要はない。ならばこのシチュエーションにはそれなりの理由がある筈だ。
何故ここにいる?
眠る前──そもそも自分は眠ったか?いや、眠ろうとしたわけではない。

虹色の光──蹴られて──回転──

ぱちん、と弾けたように意識がクリアになった。

「クルガン!?」

一挙動でシードは起き上がって、あたりを見回した。

前方は見渡す限り草原。
右は遠くに川。
左は遠くに森。
後ろは──近くに森。

「クルガン!」
「煩い。聞こえている」

クルガンは、シードのすぐ後ろ、十歩ほど向こうに立っていた。
シードの方は振り返らないまま、目の前の森を見つめている。銀髪が月光を弾いている。部屋着のままでは寒そうだな、と思った瞬間、自分も薄着であることに気付いた。思い出した途端僅かに鳥肌が立つ。

月明かりに照らされた青い草をさくさくと踏んで、シードはクルガンに近寄った。
色々と追求すべきことはあるのだろうが、シードの頭はそれほど多くのことを同時並行思考出来るようにはなっていない。だが、わかる。

「アンタが部屋着のまま外に出てるって事は、相当異常な事態だな」
「────」

クルガンは否定しないまま、じっと森を眺めている。
その隣に立って、シードはまた妙な事に気付いた。

線引きされ、整地されたかのように、森と草原がくっきりと分かれているのである。中間地というものがない。
ここから向こうは森、こちらは草原、と、指で示せる程に。
木の根元に生えている地衣類すら、切り取られたようにさっぱりと途切れている。

ということは──この辺りは人の手が入ったばかりだ。
だが、こんなことをする意味がわからない。森と草原をここまで几帳面に分けてどうする?

相当はっきりしてきた頭で、夜空を再び眺める。
やはり月は二つあった。目を開けて見る妄想説も揺らいで来た。

横目でクルガンを伺うが、彼は何事か考え込んでいるようだった。
シードを見もせず、ただ森を観察している。
シードも目を向けたが、気付いたことと言えば、すぐ傍の木に実がなっているという事くらいだった。食べられそうだが、知らない植物なので確信は持てない。

──知らない植物?

どうやら、そろそろ、見て見ぬ振りは限界らしい。
シードは諦めて、口火を切った。

「ここ、ハイランドじゃねーよな……」

浮かび上がった円盤と、溢れた光に包まれて気が遠くなったのは覚えている。
現実的に考えれば、昏倒している間にここまで運ばれたというのが正しいだろう。誰かに──あるいは、何かに。例えば、シンダル族の技術では、物を瞬間移動させる事も可能だったらしい。

問題は、どれ程遠くに来たか、だ。
そして、この黙り込んだままの同僚が、何処まで事態を把握しているか。

シードの理解は殆どないに等しい。
秋の気配が漂っていることからして、おそらく気候すら違う地域だと、それくらいしか推察出来ない。
だが、クルガンなら、その無駄に溜め込んでいる知識で、ここがどの辺りかの見当くらいはついているのではないか?
そう思い、シードは問いかけた。

「アンタは、ここが何処かわかるか?」
「此処は……」

クルガンは僅かに言いよどむと、軽い溜息をついてからまた口を開いた。

「異世界だ」
「は?」

シードは思わず言った。

「アンタ、頭大丈夫?」

.
.
.
.『ビギナー・オブ・ビギナー』 その3

.
.
.

言ってから、しまったという顔をして四メートル程すっ飛ぶくらいなら、初めから発言しなければ良いのに、とクルガンなどは思ってしまうのだが、そんなに突飛な考えだろうか?

目覚めた時から纏わりついている妙な虚脱感のためかは知らないが、クルガンは、シードに制裁を加えている余裕はなかった。
余計な体力を消耗するなど愚の骨頂。

真剣な空気に気付いたのか、シードが恐る恐ると言った風に戻ってくる。

「……マジで言ってんのか?」
「こんな面白くない冗談を飛ばしてどうする」
「アンタの冗談いっつも笑えねえけど──って、はい、関係ないですよね!」

今度は手近にあったので、クルガンは馬鹿の脛を蹴ってやろうかと思ったが、再びシードはすばやく飛び退いた。
その辺りの無駄な勘の良さを、何故事前に発揮出来ないのだろうと、クルガンはまたも疑問に思った。だが、赤猿の思考回路の謎を解明しても利益は全くないので放っておく事にした。

「でも異世界って……んな突拍子もねー考えがどっから浮いてくんだよ。死後の世界だとでも言うのか?地獄っぽくもねぇけど?」
「俺は死後の世界など信じてはいなかったが、否定は出来ない。……非常にリアルな夢であって欲しいのだがな、お前がこうも騒がしくてはやはり現実だろう」
「オイどうしたよ、目ぇ覚ませって!アンタ地に足つけた考え方がウリだろ?俺はちゃんと呼吸してるし心臓も動いてるし、感覚もある!世界の端っこの地方からだったら月は二つ見えるのかも知れねぇじゃん?」

草の上に腰を下ろして、シードは両足を投げ出した。
クルガンは二歩進むと、森と草原の境界線の前に立った。

「確かに俺は世界の構造がどうなっているのか知らない。平たい円盤形か伏せた椀形かという議論に決着もついていないのだから、世界を隅々まで探知するのは夢のまた夢だ。つまり月が二つある地方が存在する可能性は否定出来ん」
「んじゃあ、」
「だが──明らかに、ここには俺の知る世界とは違った法則が働いている。ならば、異世界と表現するのが相当ではないのか?」
「違った法則?」

クルガンは視線でシードを促した。

シードは座ったばかりの場所から未練なく立ち上がると、クルガンの横に立つ。
そこでクルガンは一歩足を踏み出し、草原から、線引きされた向こう、森のエリアに移動した。

「────」

同時、目線の丁度右斜め上に、ぽぅん、と鈍い青色の発光体が出現した。何もなかった空間から、突然に。
薄い横長のプレート状であり、白色で模様が描かれている。

「!!」

先程も試したことなのでクルガンに驚きはなかったが、同じように森に分け入ったシードは目を見開いた。

「な、何だよコレ…?」
「文字だろう。標識、と言った方が正確か」
「読めんの?」
「いや、無理だ。だが、意味はわかる」

何故、と聞く前にシードにもその意味はわかっていた。
見覚えのない文字の筈だが、文字と思って眺めれば──脳裏に直接閃くものがある。

「『カファエの森』……って、何でわかんだよ!?便利だけど怖ーよ、何コレ!?」
「喚くな」

シードはプレートに触れようとしたが、実態はないらしく、手は空しく通り過ぎた。
と、そうしている間に、発光体が霞がかったように空気に溶けていく。つまり、消えた。

「どうなってんだ……」
「草原に戻ってみろ。また出て来る」

シードは頷き、こわごわと一歩後退した。
足が青い草を踏み、体が草原に戻った途端──

「また出た!」

予告したのに何故また騒ぐのか、クルガンにはさっぱり理解出来ない。
ぎゃあぎゃあと興奮している同僚はさておいて、クルガンは歩を進めた。発光体はクルガンの動きにあわせて移動する。

再び出現した標識の文字は変化していた。──『ヤックルト平原』。

クルガンの分析によれば、どうやらこのプレートは地名を表しており、違うエリアに移動する度に出現する。それから十秒ほどで自然消失する。一人につき一つ現れるが、個人差は見受けられない。表示される文字はおそらくあの円盤に描かれていたものと同種である。
魔力を全く感じないことからして、魔法ではない。少なくとも、クルガンの知る紋章魔法や、シンダルの技術ではないのだ。

異世界と表現して何の不都合があろうか?
クルガンの知識を総動員しても、このような現象に全く心当たりはないのだからして。

「────」

どうしたら良いのか、ということについて、クルガンは先程から真剣に考え込んでいるのだが、どうにも思いつかなくて困っていた。

.
.
.
.『ビギナー・オブ・ビギナー』 その4

.
.
.
.

目覚めて一番にクルガンがした事といえば、この災難事の原因だろうあの円盤を探すことだった(同僚はとりあえず呼吸はしているようなので放っておいた)。

だが、例の物体は何処にも見当たらなかった。となれば、ハイランドへの帰還方法については行き詰ったも同然である。
百歩譲って、シードの言うとおりこの場所がハイランドと同じ皿の上に載っているとしても、途方も無く離れていることは間違いない。何せ、少しでも交流があるのならこれ程奇妙な現象を(あるいはこれ程発達した技術を?)知らない筈はない。

なのでクルガンは、もう少し手近なところから問題を解決することにした。
生存のための第一歩、食料と飲料水の確保である。幸い、労働力なら熱量の高そうなものにひとつ心当たりがある。

「…………」

火に関しては、雷鳴の紋章をその辺りの木の枝にでもぶち当てれば何とかなる(シードの烈火の紋章に任せて森を丸焼けにする気はない)。
食料は、見たところちらほらと木の実がなっている(食えたものかはまだ不明だが、いくらでも実験のしようはある)。草原のそこかしこで虫が鳴いていることから考えても、森の中にはおそらく小動物くらいいるだろうし(見知っているものとはかなり違う可能性もあるが、たんぱく質であることを祈る)、川にも何か──そう、川に行けば水がある。

どうやら、生きていくのに支障は全くないとクルガンは判断した。
となれば、次はこの世界の情報を収集するための手段を考えた方がいい。

川の存在は僥倖だった。
人が生きるのに水は必要不可欠。つまり、人里を探すのにも都合が良い──人がいれば、の話ではあるが、クルガンはそれについてはあまり悲観していなかった。
文字が存在するのに人が存在しないということがあるだろうか?勿論あるが、この世界に少しでも理性的な法則が働いているのなら、言語を解する種族がいると考える方が自然だった。

クルガンは次の目的地を川に定めると、シードを振り返った。

「シード、」
「しっ!」

呼びかけを遮り、シードは小さくそう言った。真剣な目で森の中を見つめている。
それから数秒、木々のざわめきと虫の音、草の擦れ合う音だけが場に満ちた。少なくとも、クルガンはそのように感じたのだがシードにとってはそうではないようだった。

「……何か聞こえる。それに……悲鳴か?」

だっ、と地を蹴って、シードは森の中に突入した。

クルガンは溜息をつくとその後ろに続いた──勿論、走る必要はない。シードの移動した跡など、これくらいの月明かりがあれば容易に見極められるし、シード一人で対処出来ないような事態はそうそう存在しないだろう。丸腰であることを差し引いても、だ。
クルガンがシードに着いていく理由は二つ。異世界であるが故の不確定要素と、シードがまともにもとの地点まで戻って来る確率の低さである。

そう思いながら、クルガンは森の中を歩いた。
生態系はそう変わらないらしい。一目見て異質と思われるようなものは存在しない。足元の苔は水気を帯びて、つま先が僅かに沈む。

やがてクルガンの耳にも、シードが捉えたのだろう物音が聞こえてきた。
巨大質量が土を蹴って移動する音、木が折れる音、吼え声、そしてシードの声。それに足して、子供の声。
それだけで、大体の状況は推察出来る──実際に目の当たりにしても、思い描いていた光景と大した差は無かった。

それがクルガンの知っている何に一番近いかと言えば、熊だ。
額に短い角を持っていることと、少しばかり巨体過ぎること、そして毛の色が純白であることを除けば、丸きり熊そのものである。

シードは、四足姿勢でも己と同じくらいの目線を持つ巨獣と格闘していた。

「ぐあああらるるるるぅ!」
「煩ェぞ!俺はお前なんざ食わねぇから諦めて巣に帰れっ!言っとくが俺の方が強ぇんだからなっ!?」
「がああああっ」
「人の話を聞けっ」

(……同レベルで張り合ってどうする)

シードの手には、腕の太さほどの枝が握られていたが、それでは良くて棍棒の代わりにしかならないだろう。幾度か打撃を与えているようだが、決定打には程遠い。しかも、シードの馬鹿力で振るっていてはそのうち折れる。

少し離れた場所に、山歩きの格好をした少年がいた。彼が襲われていたところを、シードが割って入ったのだろう。

少年をよくよく観察してみたが、少なくとも外見上は、クルガンが知る人類との差異は見られない。エルフのように耳がとがっているわけでもなく、コボルトのように犬の首をしているわけでもない。着ている物も、何の変哲も無い貫頭衣と毛皮のベストである。

.
.
.
.『ビギナー・オブ・ビギナー』 その5

.
.
.
.

「オイ、見てねぇで手伝えよ!」

シードはクルガンの到着に目敏く気付いていたようで、熊の右手の一撃を避けながら叫んだ。それに導かれるように、少年の目がこちらに向く。

確かに、これ以上眺めていても益は無い、とクルガンは思った。
熊を追い払うには『怒りの一撃』で充分だ。こちらの方が上の立場だとわからせれば、余程の理由が無い限り大人しく逃げていくだろう。
呪文の詠唱は省略し、手の甲に意識を集中させる。

「っ」

途端、じじじじっ、という不快な音がした。
蝉の羽音を濁らせたような響き。ぎしり、と軋む──何が?

「クルガン?」

紋章を宿した手の甲から二の腕にかけて、クルガンの腕が僅かにぶれ、輪郭が細かく歪んだ。直後、黒い霧に覆われる。
体が、凍りついたように動かない。

「────」

拘束されていたのは約三秒。
その間、クルガンは呼吸すら出来なかった。能力の全てが凍結されたような感覚。血液の流れが止まっている?心臓は鼓動を刻んでいない?
重心を失っているのに、何故か体は倒れなかった。周囲の空気ごと、凝固しているのではないか?

「────」

そこまで考えた瞬間、開放された。

眩暈を感じながら、深く呼吸する。
クルガンは己の腕を確かめたが、違和感は既に無い。霧のようなものも消えている。

だが、再び紋章を発動させようという気は失せていた。もう一度あの感覚を味わうのは真っ平御免だ。
次は──凍ったまま、動かなくなるかもしれない。その想像は、何故か確信とともにクルガンの背筋を冷やした。

「オイクルガン、手伝えって!うわっ」
「…………」
「聞いてんのかよ!コラ!」

クルガンは横目で赤猿の曲芸を眺めながら、回り込んで少年の傍に近づいた。
言葉は通じないだろうと、そう思ったが、向こうの方から話しかけてきた──紛う事なき、皇国語で。

「あ、あの!あの人の仲間かっ!?あの人俺を助けてくれてっ!」

いや、違う、とクルガンは看破した。
自分の耳には皇国語に聞こえているが、少年が喋っているのは全く他の言語だ。唇と舌の動き方が、僅かに音と合っていない。

どうやら、自動的に翻訳がなされているらしい。
こちらから話しかけてみればどうだろう、クルガンは実験してみることにした。シードは、放っておいても大丈夫だろう。

「あの熊は人を食うのか?」
「あ、うん、肉食……いやそんな事より、加勢しなくちゃあ、」
「問題ない」

クルガンはそう断定した。

「テメ、クルガン!一人だけ楽しやがって……!」
「お前が勝手に背負った苦労だろう。ああ、紋章は使うなよ」

戦いの余波で折れ、倒れこんできた若木を避けるため、クルガンは少年ごと後ろに下がった。

白い熊と赤い髪の男は、木が倒れてしまい闘技場のようになった空間でじゃれあいを続けている。
その様を呆然と眺めている少年に、クルガンは言った。

「大丈夫だ。多少時間は掛かるが、その内熊の方が付き合いきれずに逃げていく」
「え」
「一番不味いのは、君が巻き込まれる事だ。少し離れていてくれ」
「そんな!」

信じられないと言った表情で少年はクルガンを見上げたが、クルガンは有無を言わさず少年の首根っこを掴んで引き摺っていった。

どうやら、言葉はかなり正確に通じているらしい。
簡単にコミュニケーションがとれるのは、正直とてもありがたい事だった。

安全な距離をとってから、クルガンは少年の襟首を解放した。
途端にシードの方へ戻ろうとするのを、足を払って転ばせる。

「落ち着け」
「落ち着、って……ホーンベアキングを薪で倒せるわけないじゃないか!助けなくちゃ!」
「棒切れ一本でも、獣を追い払う位は出来る」

焦りの全く無いクルガンの言葉に、少年は茶色の目を零れ落ちそうなくらいに見開いた。
ごくりと唾を飲んで、羨望の眼差しで見上げてくる。

「もしかして、あんた達……相当高レベルの『冒険者』なのか?」
「……」

勿論クルガンには、そんなわんぱく小僧になった覚えは欠片もなかった。

.
.
.
.『ビギナー・オブ・ビギナー』 その6

.
.
.
.

「……『冒険者』?」

熊を追い払ったはいいものの、シードは困惑していた。

腕に取りすがって来る少年のきらきらとした視線は置いておくとしても、『冒険者』とは何事か?シードの知識では、『冒険+者』という表現では、人外魔境を探索する人間、というイメージしか浮かび上がらなかった。

現在の状況は、それに近いものではあるのだが。

「すげーよ、本当にホーンベアキングを追っ払うなんて!なあ、ステータス見せてステータス!」
「ステータス……?」

聞き慣れない単語にシードはうろたえる。
『ステータス』が一体何なのかは不明だが、絶対に所有していないのは確かだ。シードは着の身着のまま、現在剣すら佩いていないのだからして。

どう対応したらいいのかわからない。
同僚に向けて助けを求める視線を送ったが、クルガンは観察の眼差しを返して来ただけだった。シードの役に立とうという意思がどこにも見当たらない。

「見せてってば!内緒にしとくから!」
「え、うわ」

少年は取り付いていたシードの右腕を離し、右の人差し指を捕まえた。
そして、両手を使ってシードの人差し指を腕ごと動かす。意図がわからず、シードはされるがままになっていたが──

「!?」

ぶうん、という音と共に、眼前に半透明の板が出現したのには驚き、思わず指を取り返してしまった。

紙のように薄い、正四角形に近い発光体である。
暗い透明な緑色に、やはり白く文字が描かれている。

シードの驚愕には気付かず、少年はその板を覗き込んでいた。

「うわあ!体力が4200ポイント?!すげーよ見た事ねぇ……、け、ど……?」

はしゃぎかけた少年がいきなり黙り込んだ。
疑惑の表情で、シードを振り返る。思わず、シードは一歩後ろに退いた。

「な、何だよ」
「あんた……」

少年の眼差しに不審と警戒の色が混ざったことを、シードは敏感に察知した。
少年はシードと向かい合い、じりじりと距離を取る。

「ジョブを剥奪されるなんて……一体、何をしたのさ?」
「???」
「ま、まあ俺には関係ないけど……じゃ、じゃあな!」

そう言って少年は身を翻し、脱兎の如く逃げようとした──のだろう。
しかし。

「君」

いきなり背後からクルガンに声をかけられ、少年は指の先ほど飛び上がった。
クルガンは少年と視線を合わせると──この時点でシードには彼のやろうとしていることがわかった──真顔で彼の肩に手を乗せた。

「我々は少々訳ありでね……詳細は話せないが、ちょっとした事情で、確かに彼は『ジョブを剥奪されてしまった』。だが、誓って人道にもとるような事はしていない」
「え」
「──信じてくれないか?」

如何にも『悲運の騎士』を匂わせる、誠実そうな口調。
よく言うよ、とシードは思ったが、取り合えずこの場はクルガンに任せることにした。現在シードの脳内には、疑問符以外のものを仕舞うスペースが見当たらない。

シードにとっては相当胡散臭い口調で(だが、多分少年にとっては受ける印象は違うのだろう)、クルガンは少年を丸め込みにかかった。

「う、うん……つまり、悪い事をしたんじゃあないんだな?」
「ああ。けれど……やっぱり問題はあってね」
「だよな、ジョブがないんじゃあ……」

うんうん、と少年は頷くと、一転、親身になって協力する姿勢を見せた。
多分、『悲運の騎士』の役に立つ、というシチュエーションに浪漫を見出したのだろう。

「じゃ、あんた達はブラッデンブルーの裏神殿で、ジョブを再取得する為に来たんだ?」
「そうだ」

クルガンは頷いた。
そして、困ったように軽く目を伏せる。多分、この顔で「病気の妹の治療の為に金を稼いでいる」と言われてへそくりを引き出さない女はいない。

「だが、この辺りは不慣れなものでね。迷っていたところに君の声が聞こえて──」
「ブラッデンブルーなら、リリス川に沿って行けば、ちょっと遠回りだけど迷わないぜ。河口にある街なんだ!」

シードは平べったい目をしてその光景を見詰めていた。
コイツ、絶対ェ詐欺師が天職だ。

.
.
.
.
『ビギナー・オブ・ビギナー』 その7

.
.
.
.

少年の案内に従い『カファエの森』を歩いて行くと、小さな村があった。
家々と農地を囲う柵の中に一歩踏み出した途端、やはり目線の右斜め上にプレートが出現する。表示を見れば、『カファエの村』。

灯りは全て落ち、村は寝静まっていた。人口は三桁に届くかという規模だろう。典型的な林業の村だ。

どうやら少年はこっそりと勝手に夜歩きに出たそうで(この時点で、この世界に昼夜があることが判明した)、親に事情を話せず母屋に泊められない事をしきりに恐縮していた。
だが、異分子である彼らとしては納屋の方が何倍も気楽である。一緒に泊まろうとする少年を言いくるめ、自分の部屋に帰らせた。
根掘り葉掘り色々なことを聞かれては襤褸を出す可能性があったし、他の人間に紹介などされても面倒なだけだ。

一晩は留まる事にしたが、彼らは夜明け前には人目を避けて村を出るつもりだった。大体こういった村が活動を始めるのは日の出と同時である。

少年の家の納屋は、村の隅の方にあった。
厩舎ではなく、木材や飼料を貯蔵してあるだけだという事だったが──

「…………」

一歩踏み込んで、シードは眉を顰めた。

戸口から差し込む明るい月明かりのおかげで、納屋の中が大体どうなっているか位はわかる。整然と積み上げられた薪が大半のスペースを占拠しており、耕具や荷車等がごちゃごちゃと残りの隙間を塞いでいる。

唯一腰を下ろして足を伸ばせそうなのは、入って直ぐ右脇の干草の山の上なのだが──

「えっと……」

何だか、微妙に狭い。

シードならば一度に抱え上げられるくらいの量の干草だ。
少なくとも、大の男二人が身を休めるのに適した場所とは言えないだろう。

ええと。
と、シードはもう一度胸中で繰り返した。

無理をすれば寝られないこともない。そう、寝られないこともないのだ──いっそ、そんなスペースなど全く存在しなければ、シードはこんな微妙な難問にぶち当たらずに済んだのだが。

「────」

ぎぎぎ、とシードは錆付いた動きで背後を振り返った。
クルガンは、戸口で立ち止まったシードに怪訝な視線を向けている。

「何か問題でもあったのか」
「いや……」

(問題……問題はないようなあるようなでもないという事で良いんだよな?むしろ問題がある方が問題だよなそうだよな??)

などと考えている間に、クルガンはあっさりとシードを避けて納屋に入り込んでいた。そして、状況を把握したらしい。
だが、彼の場合は問題解決に一秒と掛からなかった。

「お前が使え」
「は?」
「俺は木の上でも寝られる。冷気にも耐性がある」

何処までも効率を追求する男は、シードの仄かな躊躇いをあっさりばっさり叩き切ってくれた。
おそらく、クルガンは本当に木の上と納屋の中にそれ程の違いを感じておらず、どちらでも構わないのだろう。それは逞しい事であるし、便利な事ではあるのだが──

残念ながら、シードはクルガンと違って、自分ひとり居心地のいい場所でぬくぬくしていられる面の皮を装備していない。

「夜明け前、村の入り口辺りに居ろ」
「や、ちょっと待て」

シードは慌ててクルガンを引き止めた。
が、振り返った彼にその後かける言葉が見付からない。

「何だ」
「……えーと、あのな」

居心地の悪い沈黙が数秒。

「あのな──つまり、……つまり、だ」



つまり二人は結局、村には泊まらずに夜通し歩くという選択をすることになった。



「ああ、何か俺だけスゲェ損してる気がする……!」
「被害妄想か?」

日が昇る頃、彼らは、リリス川沿いの道──『リリス街道』に無事到着していた。

.
.
.


『ビギナー・オブ・ビギナー』:クリア!
.