百万回目の告白。







百万回目の告白。





店の入り口に立ったディフェンを見て、サンジは僅かに眉を寄せた。
白いシャツも、色の褪せたジーンズも、柔らかな金髪ですら、べったりと黒ずんだ血で汚れている。酷い臭い。

「……その格好で店の中入んなよ?」

それしか言うことはなかった。
いや、言えなかったというべきか。

「………………」

ディフェンは一瞬だけサンジと瞳をあわせ、それから一言も口を利かずにふい、と去っていった。
その目には怒りでなくむしろ悲しみが映っていたことを、サンジは知っている。今日はディフェンは店に顔を出さないだろう。

心配はしていない。怪我をしている筈はなかった、あれはディフェンの血ではない。

ふ、とサンジは軽く息を吐いた。
予想通りの結末だ。

死体を何処に埋めたのかなど、聞く気はなかった。埋葬は出来なかっただろう。
ゾロの首には高額の賞金がかかっている。ディフェンはあの歳にしては腕っ節の強いほうだったが、武器を持った海賊崩れ複数と遣り合って勝てる程ではない。怪我人を一人連れて逃げることも勿論不可能だ。

ディフェンは二日三日出てこないかもしれない。
間近で感じる人の死というものは、精神を抉る。それが悲惨なものならば尚更。
ディフェンを止めるべきだったか、と今更ながらサンジは思った。子どもの昏い目を見るのは気分がいいものではない。

無駄なことをしてみるのも経験のうち、そう考えたのだが。

やけに酷薄な思考。サンジは自覚している。
ゾロに関することだからだ。

サンジは店の椅子のひとつに腰を下ろした。
行儀悪く長い足を投げ出して、呼吸をするより自然な動作で煙草をくわえる。マッチを擦り、火を付けて煙を吸い込むというその一連は、意識せずとも構わない。

「………………」

はっきり言ってしまえば、通りすがりの見知らぬ他人よりも、サンジの中でゾロの位置は低かった。

サンジが守らねばならぬほど弱くないし、そもそもそうしても無駄だったのだ。
ゾロの人生には、目的のために必要なもの以外が存在する余地があまりに少なかった。誇り高く、強く。迷いなく潔く。男の理想を体現したような、しかしだからこそサンジにとっては只それだけの存在。

ゾロが嫌いだ。サンジは臆面もなく断言することが出来る。

ふう、と紫煙を吐き出す。
サンジは肩に乗せるようにして首を傾けた。

「………大剣豪未満、名もなき島に眠る、か。いかにもな話だ」

執着が薄い、そんなところも気に入らなかった。
毎日毎日、自分が料理して食わせても。あっさりと毎日毎日その血と肉は流れ削れる。
だから無駄だと思っていたわけではない。只、そういう男なのだと思うだけで。

自分にとって大切なものはあの男にとって何ほどのものでもなく。
あの男にとって大切なものは、自分にとって塵芥だった。

だから自分はあの男にとって何ほどのものではない。
あの男は自分にとって塵芥に過ぎない。

明快な真実。

ルフィだったら、ナミだったら。レディだったら、子どもだったら。浮浪者だったら、乞食だったら。腹をすかせた奴なら、助けた。
自分の身を犠牲にしても、助けただろう。しかしゾロだったから助けなかった。

………たった、それだけのこと。


数年前、GM号を降りるときも。数日前店を出るときも。

またな、とは言わなかった。その男が嘘なんて吐けないことを知っていた。


約束なんて、したことがない。


傷ひとつない、背中。

そのために死ぬべき何かを持っているから、ゾロはあれほど鮮烈に生きていけたのだ。
保障と保身、保持、保険。そんなものは何一つとして顧みなかった。


だから、いつだって、別れは別れだった。

次の瞬間なんて考えることも、なかった。
そして最後まで、とうとう交わることのなかった道。





………ふと気付くと、ディフェンがサンジの目の前に立っていた。

「え」

驚いた。
接近に気づかなかった自分よりも、彼が再び姿を現したことを意外に思う。

シャワーを浴びてきたのか、着替えてもいる。血の臭いもすっかり落ちて、いつものディフェンだった。
サンジを見る目つきを除いては、だけれども。
恨まれているな、サンジは内心で肩を落とした。

「どしたよ」

素っ気なく聞く。ディフェンはじっとサンジの瞳を見下ろしたまま。
続ける言葉もなく、サンジは黙った。

そのまま何十秒か、店の中には音がなく。
その後で、やっとディフェンは口を開いた。

「金髪」
「………あ?」

意味がわからず、サンジは怪訝な表情を作った。
ディフェンはそれには反応しなかった。ぼんやりとした表情で目だけ沈ませたまま、言葉を並べて。


「金髪、嫌いなんだって………俺の髪見て、言った。でもあの人、きっと違うものを見てた」


太陽に反射する。
潮風になびいて、きらきらと。

それは────それは。



「最後の言葉だ」



アンタに伝えるべきだと思った。

そう言うと、ディフェンはくるりとサンジに背を向けて、すたすたと扉に向かった。
悪いけれど今日は店を休む、そう付け足して。






+++ +++ +++






流水に両手を浸す。
ディフェンの不在のおかげで、今日は殊更忙しかった。サンジは首をごきごきと鳴らし、瞬きをする。

片手にスポンジ、片手に汚れた皿を持ち、手際よく擦って汚れを落としていく。
物心ついたころからやっている、そして雑用時代は主な仕事だったのだ。皿洗いは苦にならない。風呂に入るのと同じ、毎日毎日繰り返している作業。

サンジは無心に、単調な作業を繰り返した。
肘までまくったシャツに泡をつけるなどというミスは勿論犯さない。

話し相手がいないので、自然独り言が口をついて出た。

「馬鹿だなアイツ。あんだけぎゃーぎゃー喚いて、何もかも一緒くたに振り捨てといて、結局鷹の目にも勝ってねぇし。無駄だったなァ短い人生」

かしゃかしゃと、食器同士が擦れあって、しかしその音は耳障りではない。
いつもと同じ手順、いつもと同じ動作。この後はカウンターを拭いて、床にモップをかけて。

何の変哲もない夜。ディフェンだけが足りない。

「実際俺もわかってた、馬鹿は大体早死にだ。まあ満足じゃねぇの?結局好きなだけ馬鹿だったよ、はしゃぎすぎたんだ」

手際よく、サンジはコップについた泡を落としていく。
かごの中に綺麗に並べて、水気を切る。

「でもくだらねぇ死に様だなァありゃあよ。もっとスゲェ死線、さんざ潜り抜けてんのに馬鹿らしいったら。まあ、巡り合わせってのはそんなモンなのかね」

フライパンの底をたわしでごしごしと削る。浮いた脂がみるみる流れていく。
ひっくり返して裏側も洗浄する。フライパンに錆が浮くなど言語道断。

「殺しても死なねぇしぶといゴキブリ野郎だと思ってたのに、意外とあっさり逝ったな。やっぱ化けモンはルフィだけか………」


ふと、視線が流れる。
あの夜、あの男が座ったカウンター席だ。

結局微かな血の染みが残って、ディフェンが文句を言っていた。

「………………………」

サンジは手に付いた泡を流すと、タオルで拭いた。
ゆっくりとカウンターに近寄り、身を乗り出して手を伸ばした。俯き加減の顔を、前髪が隠す。

サンジの指が、黒ずんだその痕を撫でる。
飴のようにとろりとした光沢を放つ、磨き抜かれたカウンター。

いつも、それを見ればキスがしたくなって。


でも今は。




「………終わりなのか?」




意識せず、唇から零れた言葉。




「ホントにこれで終わりなのかよ?」





あっけないったら、ない。






大剣豪を目指した男が。
あれだけの死地を切り抜けて。

まるで夢物語のように、強くて、折れなくて、真っ直ぐに、生きて。それが。

こんなにもあっけなく、終わったなんて。



………笑い話にも、ならないじゃないか。







「でも」

わかっていることがある。

「誓いとか……」

それは、幼い頃の想い。

「約束とか」

ひとつとして、破ったことがないという重み。



そんなことじゃ、なかった。



夢を目指すのは。
命を懸けるのは。

きっと。


「きっとテメェは………そんなモンがなくても、迷わなかったな」




只、望んだ在り方を。