百万回目の告白。







百万回目の告白。





昼時を過ぎて、日没までの間に買出しに行く。
それはもはや意識もしないレベルでの、日常(そう、朝起きたら歯を磨くくらい自然な)である。
買出しは日に二回だ、早朝にも行く。二人が持てるだけの食糧を買って帰っても、昼を過ぎればすぐに捌けてしまうからだ。手間とは思っていない。

市場の中を、サンジはディフェンと並んで歩いていた。
肉と魚と野菜と果物とスパイスと、その他いろいろなものが混じったにおいが、辺りの空間を占領している。
当たり前のことだが、市場に入ってからの店の並び順、品揃えは全て把握してあるのだ、最短時間で最良のものが手に入る。そして時には店の主人と世間話をしつつ歩く。

いい天気だった。
サンジは抱えている紙袋から林檎をひとつ取り出し、片手で器用に半分に割るとディフェンに渡す。

かしりかしりとそれを噛みながら、その長い足をフルに活用した大きいストライドで進んでいく。
ディフェンも慣れたもので、小麦粉の袋を肩に担ぎながら早足でついていく。

港を挟んで、市場は西と東に広がっていた。
サンジたちはいつも、東から入って西に抜ける。そして帰り道は市場ではなく馴染みの商店街に寄って、またそこで少し買い物をするのだ。

雑踏でもサンジの歩くペースは変わらない。
するりするりと、見事に人ごみに隙間を見つけ、気負いもなしに体を捌いて抜ける。ディフェンはそれに便乗してついていく。

だが、港に近づくにつれて人の流れが停滞し始めた。
通行人たちがざわざわとさざめき、断片的な言葉が否応なく耳に入ってくる。

「………………」

それらを総合すると、どうやら港の辺りで喧嘩騒ぎが起こっているらしい。
この穏やかな島で、騒動になるような派手な戦いなど滅多にあることではなかった。

ディフェンは、ある予感に顔を曇らせた。

「サンジ」
「あ?」
「………あの人かな」
「さあな」

港には、半径の広い人垣が出来ていた。
分厚い壁にさえぎられて内側は伺えないが、時折観衆から悲鳴が上がるのでそうとう酷いことになっているのだろう。

サンジは気にも留めず避けて通ろうとしたが、ディフェンに上着の裾を掴まれ果たせない。
ディフェンは深刻な顔で断言した。

「あの人だよ」
「お前はやっぱり占い師に向いてるよ」

サンジは呆れたような溜め息をつくと、人垣に向き直った。

「失礼」

対お客様用の笑顔を表情筋に載せ、道を空けてもらう。
数分もしないうちに、サンジとディフェンは円の内側に入り込み、その騒ぎの原因を眺めることが出来た。

「あ………!」

ディフェンがぐう、と息を呑む。
丁度、どさりとやけに軽い音を立てて、その男が地面に沈んだ所だった。

もはや血と泥に塗れた廃棄物にしか見えないが、腫れ上がった瞼からかすかに覗くその目は、確かに。
次の瞬間ごきりとその首が蹴り上げられてしまったので、決定的な確認は出来なかったが。

聞きたくないような音が次々に響く。

周囲の人々も、惨状に耐え切れなくなったのか、見物の輪から抜け出る者もいる。

海賊崩れらしい、柄の悪い男が六七人で一人を囲んでいたぶっていた。
もちろん、只殺すだけならその腰の剣で一突きすればいいのに、わざわざ手間をかけて素手で殴ったり蹴ったりしている。

襤褸雑巾のようにめちゃくちゃに翻弄されている男は、反撃の気配だけは伺わせているが、それは虫けらよりも儚い抵抗にしか見えなかった。
男達は一度暴力の手を休めると、二三歩引いて見せた。

リーダー格であろう男が、笑いながら言う。

「立てよ」

地面に赤い模様を描いて横たわっている男の指先がぴくりと震える。
まさか、まだ立ち上がれるのか。
観衆がどよめいた。

「……………………」

生まれたての子馬のように、がくがくと全身を震わせ。
ぼたぼたと、澱んだ色の体液を撒き散らしながら、その男は立ち上がった。

リーダー格の男は、ふんと鼻を鳴らして嘲った。

「それだけか?反撃してこいよ?」

海賊崩れ達からけたたましい、悪意の混じった高圧的な笑い声が上がった。
全身を痙攣させて、男は一歩踏み出した。荒い呼吸を繰り返す唇から、血の塊が地面に落ちる。
潰れかけた眼に意思の力だけを煌かせて、拳を握り。

「あはははははっ!!」

おどけた動作で、海賊崩れは軽くその攻撃をかわして見せた。
お返しとばかりに腹に蹴りを叩き込む。

男はまともにくらい、二メートルばかり飛んで再び地面に転がった。
なぶり殺し。
これは戦いではない。只の集団リンチだ。

仰向けに伸びている男に近寄り、リーダー格は右足を振り上げた。
ご、と鈍い音を立てて血で固まった髪の毛の中に靴が埋まる。

そのままごりごりと踏みにじる。

海賊崩れたちは、本当に楽しそうに笑った。
いつか受けた屈辱を、何倍にもして返せる時がやってきた。

侮蔑と嘲笑。

「落ちたモンだなァ、ロロノア・ゾロよ!!!」

その叫びを聞いたとき、人々がざわりとどよめいた。

「ロロノア・ゾロ?」
「あの海賊狩りの三刀流か!?」
「麦わらの船の………!!」

しかし、その驚きが続いたのは十秒間にも満たなかった。

「───いや、そんな馬鹿な」
「ロロノア・ゾロがあんなチンピラどもにやられるわけがないだろう」
「偽者に決まっているじゃないか!」

にやにやと笑う男達が、『ロロノア・ゾロの偽者』の醜く変形した顔に唾を吐きかける。
がり、と。
痙攣した指先が、それでも石畳を引っかいた。
ずるりと、血の跡をひいて。

「恥を知らない男ね」

サンジの隣に立っていた妙齢の女性が呟いた。
『ロロノア・ゾロ』は憧れだ。麦わら海賊団の船長の右腕、世界一に届こうとしている剣士。

「あんな弱いのに身のほど知らずだわ」

似たような声が、人々の中から次々と上がる。
先程まで男にやや同情的だった(それにしても見ていたのは只の野次馬的興味が大半だろうが)観衆からすら、罵声が上がるほど。

まさか、こんな薄汚い惨めな。
泥にまみれたみっともない男が。

ロロノア・ゾロである筈がないのだから。

「………………!」

唐突にディフェンは気付いた。
再びのリンチに晒されている、その男の体勢にだ。

普通そういう時は、急所を守ろうとして自然に人は丸まろうとする。
だが、その男は。
けして、横向きにも、うつ伏せにもなっていなかった。

何もせずとも痙攣を繰り返す体を。
ただ、無防備に仰向けに晒して。
何度も何度も、打ち込まれるかかとと拳。

時折胸倉をつかまれ引きずりあげられる。野次と罵声が浴びせられる。
まるで血の出るサンドバッグのような扱い。

本当は。
あんな男達なんて、ロロノア・ゾロの。足元にも。

及ばない筈なのに…………!

咄嗟に、ディフェンは目を逸らしてしまった。
そして、サンジの顔が視界に入った。

「っ!!」

ディフェンは驚愕した。
サンジはまるきり、人事のような顔で醒めた視線を投げ下ろしていた。

どくり、と心臓が凍る。
ここで起こっているのはなんだ?

その視線の先にあるのは、潰れた虫けらなんかじゃない筈だろう。

「サンジ…………!?」

その瞬間、ふと。
『偽者』がこちらに顔を向けた気がした。
そのろくに開きもしない瞳の、それでも僅かに隙間から見える輝きが、サンジを一瞥したように、ディフェンは思った。

まさか、そんな筈はないのだ。
瀕死の状態で、この人ごみの中で、もはや殆ど見えていないだろう目で、ただ一人を見つめるなどとは。

鈍い音。
また血煙が、あがった。