百万回目の告白。






百万回目の告白。







がたん、と。
ディフェンが乱暴にモップを床に突き立てたのを、サンジは少しの驚きと共に見つめた。

「?」

店を閉めた後の、いつもの夜である。
今日は別に床に疵があるわけでもない、何がそんなに彼を苛立たせているのかがわからない。
まあ、サンジは別に問いただす気もなかったのだが。

もうディフェンは充分自分のことは自分で出来る年である。
なにより、サンジは自分が他人のことを繕えるとは思っていなかったし、男に対してはそうしようとする努力さえ放棄している。

沈黙ではなく静寂なのだ、横たわっているのは。
いつも、いちいちひっきりなしに雑談を交わしているわけではない。長く居るのなら尚更。
黙っているのではなく、喋っていないだけなのだ。それは自然な空間だ。

ただ現在、ディフェンが苛立ちを見せることでそれは反転した。
サンジは全く感じないが、ディフェン自身は居心地が悪いに違いない。

「放っといていいのかよ」

殊更ぶっきらぼうな声。強調している時点で、それはすでにある種の感情を伝えていると思う。

吹き零れそうな鍋はないぞ?
サンジは一瞬、皮肉ではなく素直にそう思った。

「あの人」

というのはゾロのことだろう。
それでようやく話が繋がった。

この島に来る連絡船の頻度は三日に一度。泳いでいったのでなければ、ゾロはまだこの島に居るはずだった。
あのなりでは普通の宿には泊まれないだろうな、とサンジはぼんやり思う。

「ロロノア・ゾロだろあの人」
「何お前、アイツに憧れてたクチ?」
「茶化すなよ」

ディフェンは眉を顰めて言った。

「あんなデッカイ賞金首、特別に思ってなくても知ってるに決まってる」
「オイ知っててもなんも得はねぇぞ。精々目ェ合わせねぇようにするくらいで」

茶化すなよ、とディフェンは今度は目で言った。
サンジを見据えて、言い聞かせるように。

「…………あの人、追われてるんだ。賞金目当てか、名声目当てか知らねぇけど」

あーあ。
内心サンジは溜め息をついた。出来れば肩でもすくめようかと思ったくらいだ。オーバーで面倒くさいので止したが。

なんだテメェ、そんなくだらねぇ理由で追われてんの。

いや、真実はそうでないかもしれない。「ゾロ」という剣士を倒して高みを目指すために、その目標として、彼は追われているのかも知れない。
サンジの予想では、私怨の可能性が多分に高い。あの男は、自分が見た限りでも碌なことをしてきていないので。
ただ、そんな事実はどちらでもこの際関係なかった。
第三者から見れば、強い賞金首が追われる理由は当然そういう類のものと認識されている。つまりそれが全てだ。

この分では、ゾロが一生をかけて追い求めている夢、それにまつわる信念とやらも、端から見れば金銭欲や名誉欲になってしまうわけだ。

くだらねぇな、クソ剣士。

「…………あの体で追われてるんじゃ、大変だろ」
「オマエそんな情報どっから拾ってくるんだ?」
「体の傷見りゃわかんだろ!逃げてきたんだよ!!」

感心するように呟いたサンジ。問題はそこではない。
物分りの悪い子どもを叱るように、ディフェンは声のトーンを上げた。それに対し、短気さに年々磨きがかかってきているな、とサンジは冷静に判断する。

「明日の昼には船が来る……この島、他に逃げ場なんてない。行き止まりだ」

ごくり、とディフェンは喉を鳴らして、

「あの人、今のまんまじゃ殺されちまうぞ」

案外ディフェンは占い師として食っていけるかもしれない。サンジはそう思って、しかしモップの腕は惜しいな、とありもしない未来を消した。
ディフェンはもちろんサンジの考えなど露知らず(知っていたなら激昂は免れなかったろう)、再び最初の台詞に戻る。

「放っといていいのかよ」
「なんだって俺がアイツの世話しなきゃならねぇ?」

髪の毛を掻き揚げて、サンジは普通に問った。すでにカウンターは磨き終わっていたのだ。
このままではモップ掛けがいつまで経っても終わらない。

自分がゾロの面倒を見る図など、サンジは思い浮かべもしなかった。
ディフェンに指摘されたところで、純度百パーセントの疑問しか浮かんでこない。

ディフェンのまなざしに険がこもった。
何故そんな冷酷非道な人非人を見るような目で見られなくてはならないのか、サンジには全く理解できなかったが。自分は鬼か?

「…………………」

仕方ないので、サンジはディフェンの手にゆるく握られたモップを奪うと、自分でフロアを擦り始めた。
しかし怒るかと思ったディフェンは、成されるがままに道具を譲って、カウンターの椅子に座った。丁度、昨日ゾロが座った場所の隣。

ぎゅうぎゅうと手を握ったり開いたりして、こんどはしんみりとしている。
こんなに情緒不安定なガキだっただろうかと、サンジはまた首をひねった。

「───アンタ達にはそれなりにアンタ達の事情があるんだろうし、俺が口出す事じゃねぇのかもしれねぇけど」

この発言に、サンジは今度こそ少々呆気に取られた。
口出しすることではない?
ディフェンはもしや、サンジや、さらにゾロにまで気を使っているのだろうか?

お生憎だが、勿論ゾロとサンジの間に特別な事情などないのである。ディフェンの気遣いは全く持って見当外れだ。

「でもアンタがあんまり平然としてるから」
「悪かったなこういうキャラでよ」

サンジは憮然として見せた。さかさかと規則的に手を動かす。
ディフェンが俯いて床を見つめる。ぽつり、と呟いた。

「…………あの人、外で血、吐いてた」
「ああ?………ああ、ンな事言ってたなそういや。片付けておいてくれたのか?」
「………………………サンジ!」

サンジの労いを含んだ声音は、何故かディフェンのお気に召さなかったようだった。
だん、とディフェンが足を慣らす。

「この薄情者!」

やはりなにか勘違いをしている。サンジを薄情者呼ばわりすることでそれが良くわかる。
いったいこのガキは、サンジとゾロの関係をどのように捉えているのだろう?

「………オマエなんでそんなにアイツにこだわんだよ。オマエなんか執着でもあんの?初対面じゃなかったり?」

あくまで飄々としているサンジを、ディフェンは何か可哀想なものでも見るように見つめた。
握っていた手を膝に当て、ディフェンはそれを抱えるように引き寄せる。椅子が少し軋んだ。

ものが軋む音はいつだって寂しい。

「…………だってあの人わざわざここに来たんだ。この海に」

遠い遠い、寂れたこの海に。
グランドラインの片隅に、ひっそりと存在するこの海、そしてこの島。
きっと、この場所に辿り着くまでに費やした時間は短くはない。

吐かれた言葉は空気中に拡散せずに、床の上に落ちたような気がした。ころころと、磨かれた木の板の上を転がっていく。
ふと、サンジが手を止めてディフェンを見つめた。

「あんな…………」

ディフェンはゆるゆると首を振った。
これはきっと同情なのだろう。彼の目にはどうみても人生の敗北者にしか見えなかった、昨夜の男。伝説すらある孤高の賞金首。
「海賊狩りのロロノア・ゾロ」、輝かしかった筈のあの男に。

野垂れ死にを、させたいのか。

「あんなボロボロで、追われてて、昔の仲間に会いに来たなら用事はひとつしかないじゃんか、なんでアンタの所に来たんだよ、わかってんだろ理由なんか!」
「少なくとも、助けてもらいたかったからじゃねぇだろうな。それだったらもっと他んトコ行くよ」

怒鳴りつけた先から、即座に帰ってくる言葉。
あんまり真っ直ぐに見るから、ディフェンはうまく言葉が紡げなくなった。

「冗談じゃないんだぞ!?ホントに、血が………!」
「俺だって、一言も冗談なんて言ってねぇよ?」

サンジは、モップをディフェンに渡した。
床を磨き終わったのだ。


そうだ。
ちゃんとわかっている。

誰も、冗談なんて言っていないのだ。


別に、あの男の生き死にを、茶化しているわけではないのだ。

それ以上を求められても、サンジにはどうすることも出来ない。