「──『鷹波』」
圧倒的な突風が吹き荒れ、サンジの体は煽られて舞い上がった。
羽のように軽く、と美しくはいかず、内臓の詰まった肉は無様にどこかに叩きつけられる。どちらが天かどちらが地かもわからず、サンジは呻いた。その音も風に掻き消される。
直撃を受けた獣の方は、もう少し酷かった。鋼鉄の毛並みがばらばらっと空中に撒かれ、鮮血が奇妙な文様を描く。
それでも獣の生命力は旺盛で、四足で確りと地を蹴り、敵へと向かって食い掛かった。手負いの獣の眼光は、生への欲望に満ちて凄まじい。
すっ
「『閃』」
二筋の光が、突進するその体を通り過ぎる。
がぱあっ
まるでゼリーか何かのように、獣は顎から上下二つに分かたれた。
両断された肉は四足だけで少し駆けようとしたが、是非もない。どう、と重い音を立てて大地に崩れ落ちる。
あまりに呆気なく、あまりに圧倒的だった。
その男は強者であり、獣は弱者で。世の理のそのままに、勝利を収めるその姿。血脂の曇りすら残らない美しい刀。
サンジは身を起こしながら、その光景を見ていた。左腕の止血点を探りながら、霞む目を凝らす。
サンジが死ぬ一瞬に、まるで魔法のように救援が現れて、命を救う。まるで姫と騎士。あるいは勇者とその他無名の雑魚。奇跡的というなら、これ以上なく奇跡的な話だった。
「死に掛けだな。だが、間に合ったか」
「────」
「……俺の事は覚えてるか?」
「サンジ」
だが、これは奇跡ではない。
『一億光年の光。』
サンジは口と右手を使ってどうにか左腕に布を巻きながら、ゾロを見上げた。
何年も見ていなかったが、全く懐かしくはない。しかし──変わっていない。三連のピアスに、緑の腹巻。三本の刀。
「────」
頭痛がし、耳鳴りがし、目の前の光景が現実かどうかも判然としなかった。
本物か、と問うのも間抜けな気がして、サンジはその分析を放棄した。全く、何が楽しくて野郎の顔を眺めていなくてはならない?
だから、サンジは知りたいことだけ訊いた。
「……何してんだ、テメェ」
「────」
答はわかっていた。
知りたい答がわかっていることはつまらないな、と思いながら、ゾロの先手を打って言葉を続ける。
どうせ、これ以外の理由はない。
「ナミさんに頼まれたか。彼女にゃ、心配かけたな」
「……テメェが勝手に抜け出さなきゃ、ふもとから合流出来た筈なんだがな。手間を掛けさせるな」
「へーえ」
随分偉そうになったもんだ。ああ、元からこういう奴だったか。
じゃり、と口の中で砕けていた歯の欠片を探して吐き出しながら、サンジはよろよろと立ち上がった。
その様を見て、ゾロが当然のようにこう言った。
「……歩けねぇようなら引き摺っていってやるが、どうする」
「要らねェ」
短くそう言うと、サンジは足を引き摺って歩き出した。肩を押さえながら、足取りが蛇行する。
重い溜息が聞こえた。
「……お前に合わせてると時間の無駄だ。担ぐぞ」
がっ
伸びて来た手を、サンジは渾身の力を込めて払った。
べちゃり、と赤い手形が服の裾を汚す。
「──俺に触ってくれんなよ、クソ野郎」
「────」
「俺は……テメェの手は借りねェ」
「何を意地張ってやがる」
呆れたように呟くゾロから目を逸らし、サンジは道の先を見た。霞み、はるか遠くに思えるその先。
「──テメェ一人じゃ無理だろうが」
知ってる。
「……願い、叶えたいんだろうが」
そうだな。
「おい──」
ぜひゅ、と器官から空気が抜ける。
これ以上言葉を綴る余裕もないので、サンジはてきぱきと言葉をまとめた。
「テメェは俺を助けてくれるつもりだ。テメェはクソ強くて、格好良くて、簡単に何でも出来る。それはわかったからさっさと俺の視界から消えろ、目ん玉潰すぞ」
簡潔にまとめたつもりだったのに、ゾロにはサンジの言っている事が理解出来ないようだった。それでなくても不快指数が高いのに更に苛々して、サンジは唇を噛んだ──ああ、煙草が欲しい。
脇腹を押さえながら、歩を進める。脂汗が額から頬を伝って垂れ落ちる。
「おい、わかってねぇだろうが」
「…………」
「お前を馬鹿にしてるつもりでも、からかってるつもりでもねぇんだ」
「──お前が奇跡に縋りたい気持ちはわからなくもねぇ」
「だが、その意地はわかんねぇ。お前、どうしても叶えたい願いなら、誰の手だって素直に借りりゃあいいじゃねえか。覚悟があんなら、ふざけてんじゃねぇよ」
ざ、とサンジは足を止めた。
膝が崩れ落ちそうになって、どうにか踏ん張る。数秒かけて重心を確保し、それからようやく、サンジは振り向いた。
見える。
三連のピアス。緑色の腹巻。三本の刀。そんなものではなく──
──そんなものではなく、サンジには、見えるものがある。
だからサンジは、こう言える。
「ふざけてねェよ」
「────」
「ふざけてんのはテメェだろ」
「だってテメェには、何もねェじゃねェか」
「……何だと?」
口の中がじゃりじゃりするのは、歯の欠片だけではなく、砂と石だ。
「テメェにゃ何もねェっつったんだ、ミスター木偶の坊」
「どういう意味だ」
「どうもこうも。だってお前──俺が何でこんなところで泥食ってるか、知ってるのかよ?」
ゾロは少しの間を置いてから、『答』を出してきた。
最低な答。
「……病気、治して。生きてぇからじゃねぇのか」
「────」
サンジは別に、自分に課せられた運命について、どうこう言うつもりはなかった。
今更そんなものが背にひとつ乗ったくらいで、ここまで絶望しない。少しでも長く生き延びたいなら、こんな山には登らない。 命なら既に、生まれたときから懸けている。一瞬一瞬を、本気で刻んでいる。悔いと痛みを引き摺って、それでももう一歩を踏み出している。その先が崖だろうが、同じことだ。
そう、どんな動物だって、生き延びようとする。それは確かだけれど──
生きてるだけでいい訳じゃない。
サンジが山を登るのは、誰かが、何かをしようと思うのは──きっと、幼い日の少年が、世界一を目指したのも。
そうしたいから、なんて、そんな動物みたいな理由では片付けられない。
「っはは……」
なんでかって。
俺がやらなきゃと思ったからだよ。
痛くて怖くて泣きたくったって、俺がやらなきゃと思ったから、ここに居るんだよ。
あの日、お前が失ってしまったものが、お前にはもう見えていないから。だから俺がやらなきゃと思ったんだよ。
お前が登らないから、俺が登るんだ。お前が捨てたものでも、探すんだ。
それが──『俺』だ。
知らないだろう、お前は。
『自分がやらなければ』と、『自分がやりたい』と。
恐ろしいくらいに、何かを想うことなど──何一つ知らないだろう。
がっ
サンジは小石に蹴躓いて、バランスを崩した。
崩れ落ちかける体を、脇の木の幹を掴むことで支える。
「でも……俺が……やろうとしてる事は……」
歯を食いしばって、泣かないようにしている事は。
俺も見えないお前が。
俺が見えなくても、何でも出来るお前が。
「お強いテメェが、ちょいって刀を振りゃあ、終わっちまうようなモンなのか」
そんなお前に、何でも解決して貰うのか。泣きも、笑いも──屈辱や恐怖さえ味わわず、血の一滴も流さないお前に、結果だけ恵んで貰うのか。
砂粒の区別がつかないから、何もかも一緒くたにまとめてしまうしかない男に。一人も、一億人も、ただの数と名前としてしか理解出来ない、男に。
だから、一億人は救えても、ただの一人も見つけられない──今も、俺が見えない男に。
「なんで?」
「なんでだ?」
サンジは問いかける。
神がいないことより、奇跡がないことより、疑問に思う世界の不備。
「なんで……テメェにとっちゃ意味がないんだよ」
「それなのになんで、テメェには出来ちゃうんだよ」
お前にとって何の意味もないことなのに。
俺の意味まで無くすのか。
何でも出来る人間には、そうする権利があるっていうのか。
おかしいだろ?
「ハハ……はは、クソ、腹痛ェのに笑わせてくれるよ、この馬鹿野郎ったらホントにね」
サンジは、憎たらしく笑った。精々大きく、笑ってやった。
血と泥のへばりついた頬にぼろぼろと塩水が伝って、汚らしいまだらを描いた。
お願いだから、これ以上笑わせないでくれ。
お前が俺に、何が出来るって言うんだ。
敵を倒してくれるか。
背負って歩いてくれるか。
だから?
何の意味も持たないお前が、俺が呼吸する時間だけ引き延ばして──だから一体、何をしてるんだ?
それで俺を救ったつもりなのか。
はは、本当に──
ふざけてないでくれ。──笑わせないで、くれよ。
右手の中指を一本立てて、下品なゼスチュア。
たとえ勝利のブイサインは出来なくても、ゾロに向かってサンジはこう言える。ただ一粒の砂としてではなく、たった一人の、男として。
──世界の不備を、否定してやる。
「……クソ喰らえ」
お前が世界一強い男でも、俺の助けにはなれねぇよ。
向こうから歩いてくる人影を見定める為に、ナミは目を細めた。
ナミが予想していた通りの結果だった。それが嬉しいのか悲しいのか、ナミには判断出来ない。
こんな気持ちを表す言葉は、一体何処の国を探せばあるのだろう?
ただ、ありがとうと言いたい相手はもう、ナミの前には現れない。
ナミの我侭をいつも聞いてくれた人は──そして今、自分の全てを使ってナミのした全ての頼みを叶えてくれた人はもう、ナミの元に帰っては来ない。
その代わりに現れた男に、ナミは声を掛けた。
「──お帰りなさい」
ああ、とも、おう、とも応えず、その男はナミに視線だけ向けた。
「……金は要らねぇ」
当たり前じゃない、とナミは僅か形だけ唇に笑みを載せた。
「契約違反よ。アンタ、頼んだことをしなかったんだもの。どうして契約を守ってくれなかったの?約束は、守るべきものなんでしょう?」
「────」
「考えたら大損よね。時間を無駄にして、2億ベリーもパアよ。合理的には程遠いわ。ねえ、なんで、そんなことをしたのよ?」
「……どうせ金なんざ、いくらでも稼げるだろ」
ゾロはそう言うと、ナミの脇を通り過ぎようとした。依頼に失敗した負け惜しみとしてはありふれているが、彼にも、他に言える言葉はないのかもしれない。
ゾロが金には困っていないというのは本当だろう。
ならば何故──この山に登ろうとしたのか。
「────」
そんな事をこれ以上尋ねる代わりに、ナミはもう少し、違う言葉を届けようと思った。
ゾロには、これからも歩いていかなければならない道がある。
ナミは遠ざかる広い背中に向かって、声を張り上げた。
「ゾロー!!」
「……何だよ、煩ぇな」
ゾロは足を止めて、振り返った。
仏頂面で、ナミを鬱陶しそうに見る。ヒールのかかとで小突いてやろうかと思わせる憎たらしい表情だ。
「アンタ、目指せ星って知ってる?」
「……方位を見るときに使ったりする奴だろ。動かねぇ星だから、砂漠で迷ったときも目印になる」
ナミは声が震えないように、奥歯をぎゅっと噛んだ。
海を往く者なら必ず学ぶ、目指せ星。陸を往く者も必ず見る、忘れられない星。
「あれってね……本当は、もうないの。死んだ星の光なの」
「死んだ?」
「そうよ。星って本当に遠い遠いところにあるから、光が届くまでに、元の星はなくなっちゃってるのよ」
夜空にある星の殆どは、失われた実体の残像だ。
ずっとずっと昔に、灰と塵になったものだ。たとえ近付いても、もう二度と触れられないものだ。いくら願っても、もう、二度と。
「でもね……なくなっても、光るの。光だけは、届くの」
ナミは一生懸命笑った。
泣きたくないときに、人はきっと笑うのだ。ぐちゃぐちゃな心が壊れないように。あるいは──目の前の人に、涙を見せたくないから。
「何で……そうなのかしらね」
「────」
「何で、そういう風になってるのかしらね。本当、馬鹿みたいに……馬鹿みたいに捨て身で、一生懸命よね」
その命が尽き、消えてからも、まだ。全てが塵と化しても、まだ。その身を燃やした発光は、何処までも駆けて行く。
誰が見るかもわからないのに──光は貫く。真っ直ぐに、曲がらずに、何処までも。
──何の為に?
「星に意思なんざねぇだろ」
「そうね。ないわね。──でも覚えておいて」
「死んだ星が光るのは、アンタがいるからだって」
ゾロが星を見たいと思えば、光は届く。ゾロが星を見るなら、そこに光が在る。
たとえどれ程離れていても、実体がなくなっても。いつか届き、突き刺さる。叫びのように──祈りのように。
刻んだ記憶は、いつの日か輝く。 それが奇跡だ。
身を翻し、また己の道を歩き出した背中に向かって、ナミは心からの言葉を贈った。
「アンタの旅路に幸ある事を願ってるわ、ゾロ」
きっと、その先に光が見えますように。
『一億光年の光。』END.
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