ゾロは、相手の長い話を聞いている間、ずっと黙って眼を閉じていた。
数年ぶりの声には、落ち着きと共に疲労感が感じ取れる。だからという訳ではないが、ゾロには、その相手が別人のように思えた。

「───」

あの頃は、こんな風にゾロに話しかけていただろうか。
もう少し気が強くて、押し付けがましくて、煩い喋り方だった気がするのに。

あの事故のおかげでゾロの記憶力は良くなった筈だが、そうやって細かなことを全て覚えて来た分、それ以前の過去の記憶は尚更不鮮明になっていて、上手く像を結べない。瞼の裏にはぼんやりとした暗闇ばかりが漂っている。

全ての情報を取り入れた後、ゾロは瞼を持ち上げた。
長い時間が経ったかと思ったが、太陽の位置はまだ変わっていなかった。いつの間にか足を止めてしまっていたので、次の街までの距離も縮んでいない。

「──要求はわかった」

ゾロは今まで考えていたのだが、その願いを叶えることを、どうしても否定するような理由はなかった。
つまり、もう少し考えなければならない。ゾロは一度言葉を区切って、それから問いかけた。

「だが、俺がその頼みを受ける理由があるか?」
『────』

その問いは予想していたのだろう、受話器の向こうの沈黙は短かった。溜息をひとつ零す時間だけの空白。

『……仕事の依頼、って事ならどう?』
「────」
『今のアンタを使う価値ってのは知ってるつもりよ。もう……鷹の目より強いかも知れないって噂の剣豪だものね』
「……金を払うのか」
『そう。いくらでもいい、って言いたいところだけど、私が動かせる範囲でいいかしら?私の独断だから、共有財産を使うわけにも行かないのよ』

2億ベリー。
航海士が提示した金額は、それでもかなり大きな金額だった。おそらく、彼女に自由になる金の殆ど全てだ。
──確か、ゾロの知る航海士はもっと強欲で、吝嗇で、余計な金は1ベリーとも払わない女だったような気がするのだけれど、矛盾している。ということは、こんな印象は虚像だったか──なんていい加減で役に立たない記憶。余計な回路で混乱していた頭が捉えた情報では無理もないことだが。

『アンタも、生きる為にお金は要るでしょう?お金を稼ぐのは、無駄じゃないわね?』
「……ああ」

無駄ではない。必要なこと。
そこでゾロには、航海士の願いを叶える理由が出来た。

『多分、こっちはマシフ山に着くまで半年はかかると思うの。アンタにはそれより先回りしてもらいたいんだけど……大丈夫かしら?何なら、数ヶ月は航路を遅らせても気付かれないとは思うわ』
「大丈夫だ。俺の方が近い」

ゾロがこれからマシフに向かえば、四ヶ月程で到着出来る筈だった。
アクシデントを計算に入れてもかなりの余裕がある。

『わかった。こっちで何かあったらまた連絡をいれるから、アンタも予定が狂いそうだったら教えて頂戴』
「ああ」
『これは契約よ。約束と同じ──だから履行しなきゃいけないのよ、ゾロ』
「ああ」

そこで、会話を終えても良かった。しなければならない情報交換は全て済んだからだ。
けれどゾロはもうひとつだけ聞いた。

「何でお前らは、」
『え?何ゾロ、聞こえない』
「──お前らは」



「何で、無駄なことをしたがるんだ?」



ゾロの怪我と同じように──コックの病は不治のものだ。
彼に残された時間が少ないのなら、幻の海でも何でも探すために、寄り道などしてはいられない筈だ。出来る限り効率的に、グランドラインを進まなければならない筈だ。

それなのに、何故航路を外れる?
奇跡などというあやふやなものに縋って、出来もしないことに挑戦する意味が、ゾロにはわからない。

ゾロは報酬を得られる。
だが、彼らが得るものはなんだ?

受話器の向こうの沈黙は、今度も短かった。

『登れない山を登るなんて……無駄なこと。そうね、無駄なことだわ』

航海士はそう認めた。何の反論もなく、極あっさりと。

『私にとっては、無駄なことだわ。皆にとっても、無駄なことだわ。そして、サンジ君にとっても──無駄なことだわ』
「だから、それなのに何で、」
『ゾロ』

それからまたゾロにはわからないことを言った。

『祈るのはね。私のためじゃないの。皆のためじゃないの。そして、サンジ君のためでも──ないのよ。馬鹿みたいよね』
「────」
『私からもひとつ質問してあげるわ、ゾロ』



『……アンタは何故、そんな質問をしたの?』

無駄なことでしょう?























『一億光年の光。』






















「────」

がぼっ、と音を立てて、喉を何かが通り過ぎ、空中に吐き出される。
まさか内臓を吐き戻したとは考えたくない。何を吐いたか確認する時間も無い。

振り回された尻尾に弾き飛ばされ、サンジの体は落下より余程速い速度で岩壁に叩きつけられた。受身を取る余裕もない。

「っ……!」

上手く動けない理由ならいくらでもあった。
空気が薄い、とか。疲労している、とか。酷く寒い、とか。重傷だ、とか。体が言う事を聞かない、とか。
しかし、何か理由があったからと言って手加減してもらえる相手ではない。そもそも言葉も通じない。

ひゅーぃ、ひゅーぃ、と奇妙な笛のように鳴り出した呼吸の音が煩くて、サンジは頭を振った。

「!」

迫る巨大な牙に挟まれれば、サンジの胴体は簡単に噛み千切られてしまう。
そんな事を計算したわけではないが、勿論本能的にサンジは地面を転がって避けた。サンジの代わりに、岩壁がごそりと削り取られ、ばりばりと噛み砕かれる。

「っう」

この獣に対して、倒す、という選択肢はなかった。
万全の状態でも勝てるかどうかわからないのに、今、蹴りの威力は半減している。ためしに銃を撃ってみたものの、銃弾が毛並みに弾き返される体たらくである。

それでも──逃げる、という選択肢もあるかどうか。
どう考えても、この獣の方がサンジより足は速い。先程からどうにか致命傷は避けているものの、逃げ切れる可能性は限りなく低かった。

命乞いをして見逃してもらえるなら、サンジはそうしても良かった。
頭を地面に擦り付けるくらい、どれ程のことでもない。下げる頭ならいくらでもあった、何せ、新種の海草に対しても下げてしまった頭だ。価値なんて糞以下だ。

プライドも何も捨てて、雑巾よりもみっともなくなってしまったサンジには、選べる選択肢はどれも美しいものではない。
ただ、願うことしか出来ない。
ただ、命と夢を踏み台にして、届かない空へ手を伸ばすことしか。

じゃっ

「かふっ」

ごろごろと転がって坂を下りながら、姿勢を立て直す。
引っ掻かれた肩からは肉が僅かに持っていかれたらしい。これ以上の失血は命に関わる事はわかっていたが、だから何が出来るというわけでもなかった。

そこで、サンジはぶつくさとぼやいた。

「クソ、痛ェっつの……」

それよりも背筋が寒かった。
これは恐怖だ。もう決まっている道筋を辿りながら、それでも何かが出来る筈だと考えてしまうのは、死を直視したくないからで。

「ホント……クソだ」

人間は空には浮かべない。たとえ死んでも、輝く星には生まれ変わらない。そんな美しいものにはなれず、どれほど願っても空の果てに手は届かない。
それと同じ事で、サンジには──

成し得ない事がある。

「────」

足は動かないが、顎は迫る。咄嗟に掴んだ砂利と砂を投げ付けたが、明らかに何の役にも立たなかった。
サンジよりも余程華麗な動作で、獣は頭を食い千切ろうとする。

頭を取られては死んでしまうので、サンジは代わりに腕を突き出した。

「っ!」

どっ
ぶちゅっ

「ぎっ、ぅ」

獣の舌に触れたと思った感触を最後に、サンジの左腕は肘の辺りから消え失せた。断面から、どろっ、と粘ついた血液が溢れる。血圧が下がっていて、既に噴出す勢いはない。
傷を見ようと腕を持ち上げようとして、何も持ち上がらないことにようやく気付いた。恐ろしく気軽にあらわれた、ぞっとするその空白。欠落。

無だ。

指も、掌もない。
何も掴む事は出来ない。

「ははっ……」

それでも探し続ける。

頑張れば何とかなる、だとか。
自分は壊れない、だとか。
そんな都合のいい事を信じている訳ではなかった。そこまで盲目にはなれない。実際、サンジはもう殆ど、ガラクタ同然だ。


ただ。願わずにはいられなかった。呼吸と同じように、ただそうせずにはいられなかった。

サンジは、稼いだ時間を使って立ち上がろうとした。視界は既に半ば白んでいたが、物の輪郭が見えない程ではない。
しかし、どうにも動きが鈍く、獣がもう一蹴り地を駆ける方が早かった。今度は右腕でも食らわせてやろうかと思ったが、腕が上がらない。

間に合わない。

「────」


なあ、本当に、駄目なのか。




俺に払えるものを全部払っても、駄目なのか。
奇跡を願う方が我侭か。

でも嫌だ。

なあ神様。俺はどうしても、嫌だ。
死ぬことじゃない。
獣に食われることでもない。
もう料理が出来ないことでもない。


──俺は。



大した努力もせずに、冷めた目をしてあの魂が腐っていくことが、どうにも許せそうにない。