「っ……!」

殆ど垂直に近く切り立った壁面に、サンジは指を無理矢理めり込ませた。
ずるっ、と音がして、皮が捲れた指先が変形する。むき出しの肉に染みる泥の感覚に、歯を食いしばる。

はっ、はっ、と犬のように短い息を吐き、今度は足を引っ掛ける場所を探す。
岸壁を登るには、必ず三点で体を支えておく必要がある。長い行程だ、握力と腕力だけで無理矢理に体重を浮かせていては、体力が続く筈もない。

指先が血にぬめっている。
巻いた布は殆ど役に立たなくなっていて、落ち着けるところがあれば処置をしなおすべきだった。けれど、今の状況では気を抜いた途端に滑り落ちるだろう──しがみ付いているだけで精一杯だ。

靴の先では分厚過ぎてくぼみに載せられないため、サンジは裸足だった。親指で爪先立ちのようになりながら、指先で少しの取っ掛かりを探す。

「、クソ……」

なんという意地の悪い崖だろう。
そう思ってしまうくらいに、岩肌には凹凸が少なかった。先程からそれは更に平坦になり、3時間をかけて登ったのはたったの8メートル程だ。

びゅおおおおおっ

間断なく吹き降ろす風が、石と砂をぱらぱらとサンジの上に降り注がせる。身を低くしていなければ煽られてしまう。風は体温すらも容赦なく奪い、手の感覚を失わせる。
サンジは壁面を匍匐前進するように、じりじりと少しずつ距離を稼いでいた。

登り始めて何時間経っただろう。このまま夜になってしまえば、状況が更に悪化する事は確実だった。
日が落ちる前に、どうにかして登り切りたい。後どれくらいの距離があるのかもわからなかったが、サンジはとにかく出来る限り急いでいる。

勿論、サンジとて好き好んでこのルートを選択した訳ではない。
しかし、歩いていける道には魔獣が出る。最初に出会った時点で気付けて良かった──どうにか一匹は倒す事ができたけれど、サンジは首の骨を折られるところだった。代わりに肋骨が何本か犠牲になって、今も呼吸をするたびに痛む。

「っ、う」

指が折れるほどの力を込めて岩壁に齧りつくのは辛い。
苦痛は一瞬ではなく、停滞と共にずっと続く。怪我をした部分を、また抉らせる為に差し出す行為はマゾヒストの所業のようで、自嘲が零れる。

がっ

サンジは無意識に、目の前の岩肌に歯で齧りついた。
馬鹿げた無意味な行動。

勿論、サンジの顎の力では岩は噛み砕けず、歯が痛むだけだ。風雨に晒された岩肌は、苦い味がした。

「ふ……」

噛み切れないことなんてわかっている。
それでもサンジはもう一度噛んだ。苛立たしい、憎い、越えられないのに越えなければならない壁。

もう少しだ、そう自分を奮い立たせ、サンジは今度は左のつま先の置き場を探した。
今度はくぼみは簡単に見付かった。小さな幸運に感謝し、そろそろと体重を移動させる。

足の腿がぷるぷると震え、ずるり、と滑った。

「!」

あ、と言う間もない。

サンジの体はバランスを崩し、両足が浮いた。
落ちかける体をどうにか引きとめるために、サンジは両手の指を岩肌に突き立てた。

卸金のように硬く毛羽立った岩に爪を立て、必死にしがみ付く。
ざりざりざり、と摩擦で指先が削れた。それでも諦めない。岩肌に赤い線が長く伸び、めき、と耳の裏で嫌な音がする。

獣のような声が、喉から迸った。

「……っ……──がぁああアアっ!」

結局のところ、勢いのついた体をそんな抵抗で保持出来る筈がない。
サンジはそのまま転落し、潔く着地の姿勢を用意しなかった分、岩場に酷く背中を打ちつけた。──欲張り過ぎたのだ。

「……!……!!っ……!」

折れていた肋骨が、ずれてどこかに突き刺さったような気がした。
サンジは短く息を吐き、海老のように仰け反った。その反動でくるりと回って四つんばいになると、血の混じった反吐を吐いた。

「……、」

地に着いた両手を、見るともなく、見る。

「ふ……」

短く切りそろえて居た筈の爪が、六つ剥がれていた。

先程までは爪の裏側であり、今はむき出しになって空気に触れている箇所には、既に薄く膜が張っている。人体はすぐに爪の再生を始め、生きていることを赤裸々に見せ付ける。

意思とは関係ない、呼吸。意思とは関係ない、再生。
そんなものが全てなのか?

「はは……」

別に面白くはないが、サンジは笑った。
顔だけでも笑っていないと、やっていられない。

「────」

本当は泣いてしまいたかった。けれど泣いてしまってはきっと、気持ちが折れてしまう。登る事が出来なくなってしまう。
だから、誰も見ていなくても泣けない。


サンジはよろよろと立ち上がると、崖のふもとに、ぺたり、と手を掛けた。

「……俺が、」

登らなければならない。
自分は、そうしなければならない。

「俺が……!」

サンジが諦めてしまえば、もう誰も足掻かないのだから。





















『一億光年の光。』





















『回復の可能性は皆無じゃない。植物状態になった患者でも、数年伴侶が話しかけて、意識を取り戻した例がある。でも……これと言った決め手はまだ、わからない。まるっきり死んでいた筈の脳細胞が、再生しない筈のものが、どうして復活したのか』
『でも、奇跡はあるよ。不治の病だって言われたって……桜を見て治ったりするんだから』

『馬鹿馬鹿しいと思う?』
『奇跡は、起こらないから奇跡だって思う?』

『でも……俺は信じるよ』

『きっと、どこかに手立てはあるんだ』
『グランドラインは広いんだから。世界は広いんだから。俺が知らないだけで……治療法はきっと、あるんだ』
『ないって言うのは簡単だもんな。ないって言えば……なくなっちゃう』
『でも、あるんだ。きっとあるんだ』











『そうね、私も調べているけれど……伝承の類は、信憑性という点では医学に劣るわ』
『でもその分、希望もあるとも言える。未だ、解明されていない領域が多いという事だから』

『奇跡……というなら、一番可能性があるのは『マシフの山』かしら』
『そうよ。かなりの山ですもの、大陸にあるわ。……位置としては、ノースブルーとウェストブルーの間になる。そう、貴方の出身も確かノースブルーだったわね、聞いた事があるかしら?』

『険しいマシフの山の頂には、神が宿るそうよ』
『人に試練と希望を与える山……』

『ただ、残念ながら……実際に登頂に成功したという話は聞かないわね。それ程厳しい道のりらしいわ』
『能力者なら益々無理よ。マシフの土地はパイロブロインを多く含むから、全ての力を奪われてしまう』
『……常人には無理なのに、超人には立ち入れないなんて、意地が悪いわね』

『だから、願掛けになるのでしょうけれど』











『まさか、サンジ君本気なの?!』
『そりゃ、……他に何、って言われても、急には言えないけど』
『でも、まだ4年じゃない!もっと時間をかければ、きっと手段が──』

『!』
『……それ、本当なの?サンジ君。……冗談じゃ、ないの?』
『なんで!?なんで……なんでそうなるの?!ゾロだけでも辛いのに、サンジ君まで──』

『────』

『ごめん……』
『ルフィは……何て言ってる?』

『そう……』
『……』

『……わかったわ』
『私も信じたい。……実際にその山を見に行くだけでも──それから判断しても、いいかもしれないわね』












「奇跡の存在を信じる」



















amyotrophic lateral sclerosis

重篤な筋肉の萎縮と筋力低下をきたす神経変性疾患で、運動ニューロン病の一種である。
1年間に人口10万人当たり2人程度が発症する。男性が女性の2倍ほどを占める。
極めて進行が早く、症例の半数は発症後5年以内に呼吸筋の麻痺を起こし死亡する。

有効な治療法は確立されていない。