「船下りんの、止めとけ」
ゾロは驚かなかった。この船の、他の誰からも言われた言葉だった──そういえばこのコックだけは今の今までそんな素振りは見せなかったけれど、だからと言って驚愕する理由はない。この男の行動はいつも唐突だし、気まぐれで、ただそれだけだ。
皆、ゾロを引き止めた。しかしゾロはこの船に残る理由が何も見つけられなかった。
今も同じだ。
だからゾロは、すぐに答えた。何も、考えることはない。
「駄目だ。俺には、他にやらなきゃならねぇ事がある」
サンジはじっとゾロに視線を当てていた。
だから、ゾロもじっとその目を見返した。片方だけしか見えない目の色は、海の色だ。涙の色ではない。
「……剣か?」
「それ以外に何がある」
「俺が聞きてェよ、それは」
コックは、自明のことを聞いてきた。
「『お前』には、それ以外の理由はねェのか」
ゾロはいつもどおり、その言葉の意味がわからなかったので、素直に反論した。
「剣で理由には充分足りる」
「じゃあテメェは、何で世界一を目指すんだ?」
「──約束だからだ」
ゾロはちゃんと覚えている。幼い頃、幼馴染の死、誓った野望。
忘れるわけがない。
そう、ゾロはちゃんと覚えているのに──しかしコックは唇をひん曲げた。嘲笑の表情は更に歪んで、まるで奇妙な面のようになる。
何が可笑しい?
「……テメェは、約束があるから大剣豪を目指すのか」
「そうだ」
「じゃあ、もしも──その約束がなかったら、どうした」
ゾロは、そんな事は考えたこともなかった。
約束は既にある。現実はそうであり、仮定の話には意味がない。
「そんな事は知らねぇな。多分、この船に残ったんじゃねぇのか」
だから、ゾロはそう答えた。それ以外に、何の答もないだろう。
する事がなければ、ゾロは別にこの船に乗っていても構わなかった。勝手に飯は出てくるし、仲間はゾロを気遣ってくれる。悪くない環境だ。
「……理由になってねェんだよ」
「あ?」
「理由になってねェっつってんだ……!」
ゾロはじっとコックの顔を見ていたはずなのに、彼が何時怒り出したのか、何故怒り出したのか、全くわからなかった。
先ほどまで笑っていたのに、どうしてこういう事になる?笑っていた訳もわからないのに、更に怒り出す訳などゾロに理解出来る筈もなかった。
「テメェは、『約束したから』大剣豪を目指してたんじゃあねェだろうが!!テメェは、『他に目的がないから』この船に乗ってたんじゃあねェだろうがよ……!」
理解出来ない。
「テメェが──」
俺が何だ?
どうして、この男は無駄なことを煩く喚く。聞き苦しいし、面倒臭い。
「テメェがそれをわからねェって言うんなら」
「────」
「それじゃあテメェには何も……何にも、ねェじゃねェか。テメェはただ、決めてあるから進むだけで、それがなかったら、止まってるだけで──」
明日があるから生きてるだけだ。
夢すらない。
「……だから、どうした?」
ゾロはそれくらい、知っている。
『一億光年の光。』
ソファから立ち上がり、一歩前に出た。
ぶん殴ってやりたかった。そうしようと思って立ち上がった筈なのに、殴ったところで何も戻らないことだけ頭の片隅が知っていて、膝を折っていた。
ぺたり、と両手を床に着く。
剃刀か何かが掌に突き立った気がしたけれど、勿論そこには何もなかった。サンジはただ、歯を食いしばった。
「何してんだ。……気持ち悪ぃな」
「気持ち悪ィよ。気持ち悪ィモンなんだよ……格好付けてたって、何にも諦められねェ」
結果を知っているのに、手を伸ばしてしまうのは何故だ。
出来ないと知って、山を登るのは?
馬鹿だ、と一言で片付けるのは簡単で、そんな事は誰にでもわかっている。
けれど、馬鹿だからと言って捨てるわけにはいかないじゃないか。そんな事もわからない利口さに、何の意味がある。
「テメェだって本当は、」
「────」
「本当は、そんなクールな奴じゃ、なかった……」
本当は。
真っ直ぐ真っ直ぐ進んでいるようで、真っ直ぐ真っ直ぐ、歩いているようでも。
本当はきっと、方向感覚がおかしくて、全然違うところに行きそうになって、また戻って、迷って、苛立って苦しんだり、土を引っ掻いたりしていた。まるで馬鹿丸出しだった。
「頼む」
この男相手に、こんな真似を、死んだってしないと思っていた。
けれどサンジは生きていて、生きているのに──
生きているから、こうしてしまう。
ゾロが落としてしまった物を、サンジはまだしぶとく、引き摺っている。
明日があるからじゃない。理由があるからでもない。
胸が痛くて痛くて、楽になりたいからでもない。
「頼む」
この男の前で、無様になりたくなかった。
我を張り通して、格好いいままでいたかった。媚びたり、懇願したり、そんな女々しい真似は気が狂ってもしない男。クールで、タフで、プライドの高い男。
そんな意地を、譲りたくなかった。そのためにどんな死地にでも向かっていけた。どんなときでも笑い顔を作れた。負けるくらいなら死んだ方がマシだ、と、言い切れた。
それでも。
「頼む……!」
こんな惨めな自分は見たくなかった。
でもそれよりも、こんな哀れなゾロを、見たくなかった。
「行くな」
なくした物を探す気のないゾロがこの船を下りて、何が取り戻せる?
なくしたゾロを、この仲間以外の誰が見つけ出せる?鍛錬マニアで、野望命で、やけにムカついて、迷子癖があって、サンジと相性の悪いあの男を。
血反吐を吐いて、棘だらけの夢を握り締めていた男を。迷って、捨てようとして、それでも捨てられないものがあった男を。
「テメェが──」
そんな男がそんなに大切にしていたものが、今、何処にも見えない。
船室の木の床に突き立っていた爪が、ぱきりと音を立てて割れた。薄いリンパ液が染み出し、すぐに赤い血が続いた。
「テメェが、馬鹿みてェな夢を追って船を下りるならいい。そのために……無駄に死んだっていい。そんな奴は、俺は絶対助けない。でも、」
自分の夢すら失った男なんてクソだ。
生きるべき信念を持たない男は、死ぬべき信念も持てはしない。山を登ることなんて、一生出来ない。
「死ぬなら『ロロノア・ゾロ』が死ね……!」
「悪いが、断る」
ゾロは神妙な顔で、迷いなく、断言した。
クルーの皆に言ったことを、サンジにも同じように、丁寧に説明した。
「『俺』にこの船は必要ない」
「────」
「お前に頭を下げられようが、俺には関係ねぇ事だ。俺は俺のやり方で、約束を果たす。それからなら、戻ってきてやってもいいがな」
「────」
「大体、テメェの言ってることはちっともわからねぇ。テメェは一体何に拘ってんだ」
無駄に死ぬ気はないから、安心しろ。
無事に鷹の目を殺し、無事に約束を果たす。安全に、確実に。ゾロはその為に、効率のいい道を選んでいるだけだ。文句を付けられる部分なんて、全く、何処にもない。
「──結局、俺が世界一強くなりゃ、それでいいんだろうが?」
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