「はい、このタオルはテメェの、このダセェズボンもテメェの、このアホなTシャツもテメェの、このジャケットは──俺のだったけどクソマリモが間違えて袖通しやがってマッスル菌に汚染されたからテメェの」
「…………」
「整理しようと思うと意外とあるモンだな」

男部屋のタンスを開いて、ゾロの足元にぽんぽん衣装を投げ付けてくるコックは、男しか居ない空間であるのに珍しく上機嫌と言ってよかった。この男はゾロと相性が悪かったから、気に入らない仲間が船を下りるのを喜んでいるのかも知れない──そう見える風情だった。

だが、そうではないことをゾロは知っている。
このコックは確かに女尊男卑を公言して憚らず、仲間も足蹴にするような男だが、けして情が薄いわけではない。

「おい、聞いてんのか?テメェの服はそこに全部出してやったぞ、感謝して崇め奉れ平伏せ」
「多過ぎる。服は一枚ありゃ充分だ、残りは置いてく」
「ハァ?置いてかれてもこっちこそ邪魔になるっつーの」
「あいつらが着るだろ」
「テメェのセンスでこの船を汚染するのはヤメロ」
「じゃあ捨てろ」

サンジは、ふうう、と深い溜息を吐いた。
煙草を噛み潰しながら、不機嫌な表情でゾロに振り返る。

「どうにか人間の言葉に聞こえるような鳴き声をあげるなんて、面白い芸を仕込まれたカバだな」
「何が言いたい」
「テメェの始末はテメェでつけろボケ。ゴミ出し日もわからねぇクソ旦那気取りか?」
「わかった」

コックの言い分が正しい。
ゾロは放り出された衣服を手繰り寄せ、丸め始めた。街に下りてすぐに叩き売れば、二束三文にはなるだろう。

「オイ、風呂敷は」
「知るか」
「手を広げたくらいの尺の正方形の薄い布だ」
「だから知るかってんだよ」

そう言いながら、コックは一応箪笥の中をチェックしたようだった。
ないとすれば、誰かが雑巾か何かにしてしまったのだろう。最後に風呂敷を使って荷造りしたのがいつかと言えば、確か、この船に乗る前だった。

「テメェのバスタオルじゃ駄目なのか」
「……長方形だ。それに厚い」
「布ひとつに贅沢言いやがる野郎だな」
「あれはどうだ、机に被せる無駄な布」
「……もしもそれがテーブルクロスのことなら、クソ却下だ」

コックは箪笥の扉をパタンと閉めた。
狭い船室を二歩で移動し、共用のソファに寄りかかる。ゾロも、コックがこれ以上何か手伝うとは思っていなかった。

「そういやテメェ、怪我は治ったのかよ」
「胸は治った。頭の方は、これ以上何も出来ないらしい」
「ふゥん……」

サンジはソファの背もたれに首を預けて、煙の輪を天井に吹きかけた。
煙の輪は、天井に届く前に消える。ニコチン中毒のコックのせいで、ゾロは煙草の匂いには慣れてしまった。何か考えている顔をしているな、とゾロは心の中で少しばかり警戒した。

コックはいつも唐突に怒り出したり前触れなく妙なことを言い出すやかましいヤカンのような男で──
──今もまさに、そうだった。

「なあ、クソ剣士」
「何だ」
「ここに、高い山がある」
「幻覚か?」
「仮定の話だ。想像しろよ、高くて険しい山がある」
「レッドラインみてぇな感じか」
「まあそんなようなモンだ。その高い山の上には宝物があって、テメェはそれを手に入れなきゃならない」

こんな風に会話が続いた事はなかったな、とゾロはふと思った。
ゾロは彼と話していると苛々したし、彼の方もそれは同じようではすぐにゾロを蹴って罵詈雑言を機関銃のように吐き散らしていた。悪口であれば万も出てきたが、意味のある言葉は皆無。

けれど今は違う。意味が通る文章であれば、ゾロは素直に返事を返す事が出来る。
むしろ、何があれ程気に障ったのか、全くわからない──別に、聞き苦しい声ではないのに。

「だが、テメェは足を折ってる」
「間抜けだな」
「そう、間抜け極まりない馬鹿」
「……たとえ話だな?」
「たとえ話さ」

──まあテメェは、足が折れてるくらいじゃ問題ねェよな。
コックは軽くそう続け、それはその通りだったのでゾロは頷いた。

「それに──歯が痛い」
「はァ?」
「頭も痛い。目も見えない。鼓膜が破れてる。肩は脱臼してて、腕は肘から先がない。おまけに頭はつるっパゲ」
「……髪は関係ねぇだろ」
「身だしなみは大切なんだよ、バーカ」
「そんなもんか」
「そんなもんだ。さて、どうする」
「……腕はねぇんだな。足は折れてるだけか?」
「そうだな。じゃ、半身不随もプラスしてやるよ。しかも、手助けも期待出来ないって事で」
「つまりそれは……」

ゾロは目を眇め、相手の言わんとする事を簡潔にまとめてみた。

「宝は手に入れられないって言いてぇのか」


煙の輪がまた吐き出され、空中に霧散する。
コックは長くなった灰を、ソファの肘掛に置いた灰皿にとんとんと落とした。灰皿を見ずにそんな事が出来るのは、何度も繰り返した動作だからだろう。全て完璧に、位置を把握しているから。

「そうだな」

コックはあっさりと、可能性を否定した。

「登れる要素はねェ。試すだけ無駄で、奇跡は起こらねェ……」
「────」
「それでもテメェは、登るか?」

コックが何を思って、こんな下らない質問をしてくるのか、ゾロには良くわからない。この男の言動の意味をいちいち考えていては、時間の無駄でもある。
しかし、考えるまでもなく、ゾロの答は出ていた。

「俺が登りてぇなら、登る」

ゾロがその山に登りたいのなら、結果は関係ない。
単に、やりたい事をやるだけだ。難しい問題ではない。

コックはその答に、軽い笑い声を立てた。厭味な笑い声ではなかったが、少し陰鬱そうで、投げ捨てるような響きだった。
そしてコックはそれに続けて、また不合理な仮定を持ち出してくる。

「登りたくねェんだよ」
「何?」
「……テメェは、全然、ちっとも、小指の爪の先程だって──」

その山には。
どう考えたって登れない、険しいだけの山には、登りたくない。可能性も、祝福もない、高い山には。
絶望を味わうだけの、血を流すだけの、高い山には──

「……登りたく、ねェんだよ」


だって、怖いからな。
自分をただのゴミになんて、したくねェだろう。















『一億光年の光。』















ゾロの答は、今度も簡単だった。

「登りたくねェなら、登らねぇな」
「……手に入れなきゃならない宝物だとしても?」
「手に入らないだろうが、どうせ」

結果が見えているのなら、登ろうが登るまいが同じことだ。
そして、同じことなら、したいようにすればいい。何も、嫌なことを苦労してやる必要はない。

コックは、今度は笑い声を立てなかった。
ただじっと天井を見詰めたままで、いつの間にか煙草は燃え尽きていた。

「……登らねェのか」
「ああ」
「本当に?」
「くどい」

ゾロは別に自分が頭がいいとは思って居なかったが、ここまで正答が見えている問題なら間違えることはない。単なる言葉遊びにしても、簡単過ぎる。

どうしたところでゾロには宝は手に入らない。
それどころか、ゾロは挑戦したくもないのなら。叶わぬ夢を、見てもいないのなら──

それならば、山を登ることに何の意味もないだろう。



同じ計算が出来ている筈の男は、また、確認するように呟いた。

「テメェは登らねェ、か……」
「オイ、結局何の話なんだ、今のは」

コックはようやく首を持ち上げて、床に座るゾロを見下ろした。
見返せば、コックは自分だけは何でもわかっているような顔をしていた。傲慢な顔、口元には嘲笑。

「……じゃ、俺は登るかな」

登りたくはねェけど。ホントに、馬鹿みてェに、嫌だけど。
テメェの意見に、賛成してやる訳にはいかねェもんなァ。





そんな訳のわからないことを言いながら、憎たらしい表情を作りながら。軽く、笑いながら。
その男はおそらく、骨まで怯えていた。
たとえば、死刑台に向かう罪人のように。神の教えに背いた信徒のように。

「────」

おそらく、と言うしかないのは、ゾロにはその理由がわからないからだ。
部屋は暖かく、船に危険はなく、ここに山はない。
ゾロが冷静に観察していなければ気付かない程、微かにでも──

彼の指先が小さく痙攣する理由など、何もない筈なのに。