どかん、どかん、とまるで爆発音のような衝突音が、鳴り止まない。

じょうろの中の水が、その度にさざなみだった。ナミは俯いて、じっとその波紋を見詰めている。
ルフィとゾロの勝負がどちらの勝利に終わろうと──そう、結末に影響は無かった。ゾロの意思が変わらないのだとすれば、これは単に、けじめか区切りのようなものだ。ゾロを、本当の動物のように、鎖でマストに縛り付けておくわけにはいかないのだから。

ブリキのじょうろの先がコツコツとみかんの木の幹に触れて音を立てているのは、船の振動のせいで、ナミが震えているからではない。ナミは、そんなに弱くはない筈だった。現実を見据えることも──リアリスト、と自分で言ってしまえるくらいだから、得意な筈だ。

本当に?

「…………」

ゾロが、いつか──いつかその時が来て船を下りるのだったら、ナミは理解出来ただろう。ゾロの夢が叶うとき、その背を見送るのであれば。その過程を全力で、共有出来たなら。

けれどこんな風に終わる事が、『ロロノア・ゾロ』の意思なのか?
ナミにはとても信じられなかった。

あの時、ゾロが階段から落ちなかったら、ゾロはこの船を下りようだなんて考えなかった筈だ。
たとえ、鷹の目のミホークに再び会う以外のことに──仲間の夢だとか、冒険中のトラブルだとかに労力を費やして遠回りする事があったとしても、それを厭わなかった筈だ。

「そりゃ怒るわよ、ルフィも……」

この船に乗っている事が無駄だなんて、言わなかった筈だ。

それとも、決定的な亀裂を作った方が、降りやすいだろうだなんてそんな計算をしたのだろうか?皆がゾロを見限ると思って?
ナミは無理をして、笑い声だけでも立ててみた。小さく。

そんな気遣いが出来る男なんて、ナミは知らない。

「馬鹿じゃないの……」

みかん畑に居るのはナミ一人で、だからこんな震えた声を出しても許される。
他の皆が何をしているのか、ナミは知らなかった。ルフィとゾロの戦いをじっと見ているのか、それともナミと同じようにこの音だけを聞いているのか、あるいは──

「──」

どかん、どかん、と戦闘の音はまだ続く。
けれど永遠に続くわけはなくて、こんな苦しい時間もいつかは終わる。

終わってしまう?本当に?
まだ──何も納得していないのに。

ずっとじょうろを傾けていたみかんの木の根元から水が溢れ、オレンジ色のサンダルを濡らした。
ナミはじょうろを放り出すと、出来るだけ足掻くために駆け出した。
















『一億光年の光。』
















音を立てて、乱暴にナミはラウンジの扉を開けた。
陽光が差し込み、影が出来る。その先で、サンジは振り返った。料理中ではなく、レシピか何かをノートに書き付けているところだった。

「ナミさん?どうしたの、外を移動するのは危ないぜ」

どかん!

サンジの言葉どおり、一際大きく船が揺れた。
ふらつくナミを支えようとサンジが椅子から立ち上がったが、ナミはドア枠にしがみ付いて一人で体勢を立て直した。

「サンジ君」
「ほら、今は床の上に座ってた方がいい。クッションもあるから──」
「サンジ君、ねぇ、聞いて」

ナミはバランスを崩さないようにしながら、あえてしゃがみ込む事はしなかった。ラウンジに辿り着くまでに既に何度か転んでいたのでもう服の汚れなどはどうでもいい、ただ、目の位置を下げたくなかったのだ──それでなくては、座っているサンジでさえ、見上げる形になってしまう。

「お願いよ」
「……ナミさん?」
「サンジ君。お願いだから……ゾロを助けて」

ナミは目にぐっと力を入れてサンジを見据えた。

サンジはその言葉を半ば予想していたのだろうか、わざとらしく驚く事はしなかった。ただ、ナミから視線を逸らすと、ぱたんとノートを閉じた。

ナミの依頼ならサンジはノーと言わず、だからこそナミはサンジに出来ないような我侭は言ってはいけなかった。
けれど。


「ゾロを、助けて」

ナミはもう一度繰り返した。
聞こえていないわけはないことは理解していたが、それでも、沈黙には耐えられない。ゾロとルフィの戦う物音は煩かったけれど、それでもラウンジの空気は深海のように静まっている。

ルフィは勿論、ナミも、ウソップも、チョッパーも、ロビンでさえ一言は、船に留まるようにゾロを説得した。それでもゾロの意思は変わらず──後はサンジだけだった。

どかん、とまた一際大きく船が震えて、食器棚の中の皿ががしゃがしゃと鳴った。

「──俺は医者じゃないよ」

ナミにとっては長い時間の後、サンジは穏やかにそう言った。

咄嗟に駆け寄ると、ナミは両手で机を叩いた。
ばしん、と音がしたはずなのに、外の騒音に掻き消された。

「そんな事は知ってるわよ……!」

出来ることならサンジの頬を叩いてやりたかったが、そうしても意味がない。この男は避けない。

チョッパーと似たようなことをやれと、サンジに頼んだわけではない。
ただ──引き止めて欲しかった。船を下りてしまうゾロを、あんな風に変わってしまったゾロを、蹴っても罵っても、何をしても、救ってやって欲しかった。

わかっている筈だろう、サンジは!
ナミの気持ちも、ルフィの気持ちも、ウソップの、チョッパーの、ロビンの気持ちも──そして、以前のゾロの気持ちも。

ゾロの為に何か出来るとしたら、もうこれしか残っていないのだと、ナミは知っている。
ナミに出来ることなら、何でもしただろう。けれど、ナミが何をしてもゾロは止められなかった。言葉を交わしても、何も届かなかった。──無力というより、無意味だった。

苛立ちのままに、ナミは言葉を連ねた。言いたい事は百もあって、けれど形になるのはそのうちのひとつかふたつで、全く足りない。何もかも足りない。

「どうしてそうなのよ……!それって格好付けてるつもりなの?本当、いい加減にして欲しいわよ、」

そんな意地の張り合いなんか──
今、失われようとしているものに比べれば。

「何で惜しむの!?あんたしかいないじゃない!きっと、あんたにしか出来ないことじゃない!あんたがやらなかったら……他に誰が、」


「……少し、黙って貰えますか」


冷たい声だった。

ナミは思わず、確認してしまった──今の声が、本当にサンジの口から出たものかどうか。騒音の間を縫って、何処までも静かに硬い音。
二人きりなのに、『女』相手の丁寧な言葉を使いながら、サンジは席を立った。そしてシンクの前にまで移動し、ナミから距離を取る。

「───っ」

それでもナミは諦め切れなかった。
こんな事で気圧されるくらいなら、元から懇願していない。

「サンジ君……!」

サンジはシンクに片手をかけると、くるりと振り返った。
その動作の一連で胸ポケットから煙草を取り出すと、咥えて俯く。長い前髪が顔に影を落とした。

どかん、どかん、と鳴る音はもう耳に慣れすぎて届かない。振動だけがナミの重心を崩し、床に這いつくばらせようとする──サンジの方は、振動も気にならないようだった。全く見事なバランス感覚。

ナミはいつの間にか膝を突いてしまっている。
それでも机に上体を預け、転ぶのだけはどうにか防いでいた。

「……本当に……どうでもいいわけじゃないでしょ……?」
「────」
「本当は……ねぇ、本当は、」

それ以上は言えずに、ナミは唇を噛んだ。
言ってしまえば、否定させることになってしまう。

だからナミは、他の言葉で言うしかなかった。

「お願いよ……」
「……ナミさん」

シンクに灰を落としながら、サンジはいつもの調子でナミに呼びかけた。
ナミさん、次の島まで後どれくらい?ナミさん、鍵付き冷蔵庫が買いたいんだけど、駄目?ナミさん、あのクソ雑魚どもは俺に任せてくれる?

そんななんでもないシーンと同じように、全く同じように。


「……なんで俺が彼奴の為に頑張るだなんて思うんですか?」


皮肉ではなかった。
サンジはナミに皮肉など言わない。だから本当に、サンジは問いかけていた。

俯いた横顔に目を凝らしても、その表情は見えない。

「言ってください。理由があれば」

けれど、煙草を支えるその指先は、揺れていた。
船が揺れているから?

「ないでしょ?」










「俺が引き止めれば、あの馬鹿の頭から消えた脳の欠片が、元に戻りますか?」
「蹴ったら、ずれた配線が繋がるんですか?」
「彼奴が俺の言葉に動くなんて、」

「そんな都合のいい奇跡があったらむしろ気色悪いですよね?」

ねぇ。
頑張ったら?俺になら?

俺になら、って、その理由は何ですか?

「頑張ったら──何か、出来るんですか……?」




「俺が何か出来るんだったら……君をそんな風に泣かせない」
「何が出来るか言ってくれたら、理由を教えてくれたら──」


「でも……そんな理由はない。何処にも……ひとつもない」



だって、ねぇ、ナミさん。
俺が意地悪なんですか。貴女もそう言いますか。

簡単に出来ることを、やらないでいるだけだと?


貴女の願いの息の根を止めたいだなんて、俺がそう望んだと思うんですか。
それとも、何もかもぶちまけさせて、俺が惨めになるところを見たいんですか。

──もしも俺が、死に物狂いで何か理由を探していたとしても。

「……俺が引き止めて」
「俺が泣いて縋って……」

「たとえ俺が、意地を、捨てたって」




そんなものに何の意味もないってことを、もう知ってるんです。