からん。からん。からん。からん。

何処かから、鐘の音が響いてきた。
いや、響いてきたというような穏やかなものではなく、ひとつ聞こえたと思ったら次にはふたつ、ふたつと思ったらよっつ、と加速度的に増えていく。

「?」

鐘の音が聞こえた途端、あたりの通行人の足が全てそろってぴたりと止まる。思わずゾロも足を止め、辺りを見回してしまった。

からんからんからんからんからんからん

人々は近くの風見鶏を一斉に注視していた。
その中で、ひとり視線を定めずきょろきょろとしているゾロは異様に浮いていたが、皆、それを気にする余裕もないようで見咎める者はいない。

そんな中、ぽつん、と地面に黒い染みが出来た。
見る見るうちに、点が増える。落ちる水滴に驚き──いや、驚くというよりは怯えたように、凍り付いていた人々の表情が歪む。

「まずい、重なったぞ!!」

誰かが絶叫するように叫ぶ中、呪縛を解かれたように皆走り出した。
今度は逆に、ゾロは動いていないため異様に浮く羽目になったが、同じく、誰も気付く様子も無い。ただ、邪魔だとばかりに押し退けられ、道の端に寄らされた。

からからからからからからからからからからからからからからから

追い立てるように響く鐘の音の中、露天商が荷物を片付ける手間も惜しむようにして駆け出す。
ばたん、ばたん、と乱暴な様子で、次々と通りの建物の数少ない窓が閉ざされた。同じく、扉が閉まり、中から掛け金を掛ける音が重なる。

「────」

明らかに、『逃げ込む』動きだったが、ゾロには逃げ込むような家の当てはない。いや、ひとつないことはなかったが、その所在は今のところ不明である。
ゾロはこの街の流儀のことなど何も知らない。周囲の者にあわせて建物の中に駆け込むのが正しい姿なのかも知れなかったが、まさか、好き勝手にそのあたりの扉を壊して建物に侵入するわけにはいかない。

どうすりゃいい、とゾロが考える間に、大きな通りにはゾロのほかには人っ子一人、牛一頭、犬一匹いない有様になっていた。鐘の音も止んでいるのは、鳴らしていた者も家の奥に引っ込んだからだろうか。

雨粒は、地面の乾いた色を消し去ろうとしていた。
雲が太陽を覆い、さっ、と日の光が弱まる。

「────」

連動するように、雨脚が強くなった。
ざあざあと叩きつける雨粒がゾロの腕を伝う。
何とはなしに見れば、その水滴は黒い筋を引いていた。濁った水の色というよりは、もっと不自然に暗い色。

汚いんだな、とゾロは単に、それだけ思った。
ゾロは一人なので、勿論誰も、その先に思考を展開させたりはしない。

「……仕方ねぇな」

黒い水を乱雑に服の裾で拭い、ゾロは手近な建物の軒先を借りることにした。

この土砂降りの中では、サンジの家を探そうにも覚束ないだろう。
自分が元から迷子だったことを都合よく誤魔化しながら、ゾロは頭の後ろに腕を組んで、建物の壁に背を預けた。

明らかに危難から逃げる人々の対応を見ていたにも関わらず、ゾロは特に何の感想も抱いていない。肝が太いといえば聞こえはいいが、どちらかと言えば、深く考えていないのだ。
だから、雨が降ってきたから雨宿りする、そんな単純な行動しかしない。

しかもその上、ゾロはそのまま眠りこけてしまったのだった。
桶をひっくり返したような雨が刻むように地面を叩き、日が沈んだように辺りが暗くなる中、ぐっすりと。








+++ +++ +++








雨音を掻き消す、虫が羽を鳴らすような細かな振動音。
唸りを上げる暴風雨は、彼らにとって心地よい膜だ。水に溶けた障気が体の動きを良くし、痛い光は届かない。

この大集団は、雲の移動に合わせて拠点を移している最中だった。

群れを成す固体の中にも、ただ食う寝るという本能しか持たぬものから、知性を持って他を支配するものまでいる。ただ、知性を持つものの数は圧倒的に少なく、固体同士はただ強さによって支配関係を形成することが多い。

現に、明確な意思をもつものは、彼らの中にはふたつしかなかった。

目のないひとつが、長い前脚を擦り合わせながら、思念を周囲に拡散させた。

『アア、アア!忌々しい花の香りがするぞ』
『お前は鼻が利き過ぎるのだよ』

この豪雨に紛れても、遠く離れた香の残り香を嗅ぎ分けるとは。
鼻と耳のないひとつは、己の下を見た。配下の数百が乱れて飛ぶ隙間、雨にけぶる向こうから、地上が僅かに見える。

『……ああ、確かに、あそこに人間の集落があるようだ。珍しいな』
『寄っていこうか?』
『そんな時間はないよ。この雲に置いていかれると困る』

鼻と耳のないひとつはそう言った。
だが、群れの全てがそう考えるかどうかは別の話だった。理性の期待出来ないものは、勝手に街に下りてはぐれるかもしれない。
ただし、それを阻止しようとするつもりもまた、ふたつの固体にはなかった。所詮、下位のものの十や二十、失ってもどうということはない。

もっと言えば、彼らは群れをわざわざ『従えている』わけでもないのだった。勝手についてくる、と言った方が正しい。
強者にはべるのが本能なのか、弱いものは彼らに纏わりつきたがる。

『──さあ、行こう』

人里に気を惹かれたものが居るとしても、彼らが餌にありつけるとも思えなかった。こんな日には、余程の阿呆でない限り、人は家の奥に閉じこもって、臭いにも息にも気付かれないようにしているに違いないから。
逆に言えば、閉じこもってさえ居なければ、彼らが腹を満たすことを遮る障害は何もないのだが。







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「────」

ゾロが目を覚ましてみると、雨はすっかり止んでいた。
青空というほど大層なものではないが、暮れかかった太陽の光が地上に斜めの影ばかり伸ばしている。

「──鍛冶屋の通りにもいるらしいぞ!」
「何ですって?!」

くあ、と欠伸をしてから、ゾロは立ち上がった。
どちらへ歩を進めようかと、通りを左右に見回す。騒然とした顔をして、人々が何やら興奮している。全く、いつも慌しい街だな、と漠然と感じた。

「やっぱり雨に乗って来たんだ」
「それで、大きいのか!」
「いや、小さい方だ。でも──」

あまりに周囲が騒がしい。
口々に色々な事を喋り、子供や老人、女の姿は消えている。

「狩師を呼んでこい!」
「もう呼んださ!でも、市の方と協会の方に回るんで手一杯で、」
「じゃあどうするんだ!」
「仕方ないだろ、サンジも呼んでこい!」

ようやく知っている単語が出てきたので、ゾロはそちらに向いた。確かに今、『サンジ』と言った筈だ。勿論、同名の別人である可能性もあるが──
上手くすれば、サンジの家までの道もわかるかもしれない。

「──仕方ねぇ、よな……」
「そうだ、今はそんな事言ってる場合じゃねぇ!手が足りないんだ!そのうちに日が暮れでもしたら!」

しかし、腹が減ったな。
そんな事を呑気に考えているゾロは、周囲の人間の緊迫した空気、嫌悪感、反発などには、全く気付いていないのだった。