静かにゾロは目を開けた。
明け方の空気の中、びっしょりと汗を掻いている己を自覚する。喚き出したいのに声が出ない。

心臓は早鐘のように鳴っていた。
ここは、何処だ──ああここは、ここは。

違う。

「…………?」

何が違うのだ?
ゾロは細く呼吸を整えながら、突っ伏していた体を起こす。そのときにはもう状況を思い出していた──自分には記憶がなく、ここは偶然知り合った男の家だ。特に問題はない。
そして。

「……朝、だ」

確認するように呟いてみる。
朝の筈だ──筈、というのは、ひとつきりしかない小さな窓の、板に閉ざされた隙間から僅かに白い光が差しているからだ。はなはだ不安定な、か細い光。

何か怖い夢でも見たのだろう。だが、驚くほどの程の絶望を感じた癖、ゾロはその内容は全く覚えていなかった。

ぐう、と体を伸ばし、ばきりぽきりと骨を鳴らす。
サンジの家の、乾いた砂のような匂いはもう感じ取れなかった。鼻が慣れてしまったのだろう。
目が覚めた途端に腹が鳴ったが──どうやら自分の体は相当燃費が悪いらしい──勝手に人の家の台所を漁る訳にも行かないかと判断してみる。

動き回るのには不向きな家の狭さに、ゾロは背伸びをして、天井をごつんごつんとノックしてみた。食事の許可を貰おうと思った行動で、しかし安眠妨害には勿論思い至らない。

六度ほどノックした後、お返しのようにがつんと天井が上から──おそらく蹴られた。
次の瞬間、まるで落ちるようにしてサンジが下りてくる。梯子の段を使ったのか使わなかったのか、ゾロには確認出来なかった。

「お早う」
「────」

平然と挨拶したゾロを、サンジは平たく尖らせた目で睨んだ。呼びゃ気付くんだよクソボケ、と冷静に罵られる。
勿論ゾロは何も堪えないので、遠慮なく朝食の催促をした。
サンジが呆れたように首を振る。

「食いモンはネェ」
「嘘吐け。昨日の残りのチーズとパンはどうした」

客分にあるまじき図々しさでゾロはそう言ったが、サンジはあっさりと首を振った。

「ありゃもう食わねェ方がいい」
「…………?」
「店が開く時間になったら、何か買い食いしろ。小遣いくらいやっからよ」
「俺は別に残り物でも──」
「そういう意味じゃなくてな」

サンジは視線を斜め上に上げながら、どう説明しようか悩んでいるようだった。

「俺が触ったモンは、止めといた方が良いんだ」
「何でだ?」

ニヤリ、とサンジは笑った。

「その理由は、俺の職業に関係してる。そうか──そうだな、見た方が早い。テメェ、ちょっと街散歩して来いよ」
「何でだ」
「いいから行けよクソタロウ」

家から蹴り出され(別に比喩表現でもなんでもなく本当に蹴り出され)、ゾロは路上に転落した。
朝の光はまだ弱く、空気は霧にけぶっている。
家から出た途端、新鮮な空気が肺に押し寄せてきた。くん、と鼻を蠢かせれば、微かな清涼感がある。

ゾロは立ち上がると、周囲を見回してみた。
草むらの中に刻まれた狭い道に、人通りは全くと言って良い程ない。

サンジの家は街の外れにあった。殆ど外壁に接するように建っている。
外壁──そう思いながら、ゾロは不似合いに頑丈な石造りの壁を見上げた。ゾロの身長の四倍は優にあり、非常に堅固に出来ている。余程の労力が費やされただろう、高すぎる、そして分厚すぎる壁だった。
それなのに、道の方は舗装もされていないむき出しのままの土。お世辞にも整然としているとは言えない、林の中を縫う道。

アンバランス。

不釣合いといえば、昨日くぐった門もそうだった。これだけ立派な外壁なのに、外への解放口は、ほんのちっぽけなもので──明らかに、多数の人通りを予定してはいない。民家の扉に近い。

どこかに違和感を感じながら、ゾロはそのまま街の中心部へ向かって歩き出した。

「…………」

壁に接している辺りから、次の民家まで、ゾロの脚でも──散歩、と言える程の時間が掛かった。尚更、意味が分からない。
それまで歩いてきた道は、畑の中に刻まれていた。畑、とゾロは判断したのだが──植えられているのは全て同じ種類の植物だった。ゾロの腰ほどの高さにまですくりと背を伸ばし、紫がかった葉と白い花を付けている。

腹に溜まりそうにもないのにな、とゾロはそんな散文的なことを思った。少なくとも、このように広く広く土地を使ってまでこの量を栽培する必要性は感じられない。

ゾロが蹴れば壊れそうな家々は殆ど木造で、皆やけに窓が少なかった。
そして、人通りは少ない。
それなのに、街の規模としては相当なものだ。人口はおそらく、数万を数えるだろうとゾロは予想した。道は何処までも続いていて、終わりが見えない。

牧場の柵に近寄っても、家畜の姿はない。皆、厩舎に押し込められているのだろう。
──もう、朝、と断言しても良いのに?

不意にゾロは息苦しさを感じた。
この街は広い。広いのに、密閉されている。巨大な壁に、そして、窮屈な家に。

まっすぐ歩き続けるうちに、気づいたことがあった。
家並に差し掛かってから、空気に、匂いが付き始めている。街の中心に向かう程それは濃くなった。快と不快の中間、そうゾロは評価した──おそらく香の類だった。
僅かに苦い匂い。

「…………」

ゾロは無意識に耳元に手をやった。金属音を立ててピアス同士がぶつかる。
そこでようやく、自分がピアスをしていることを知った。
今までも耳元で鳴っていた筈だが、意識には全く浮かばなかったのだ。多分、そこにあるのが当然過ぎたからなのだろう。
ピアス。そうか、自分はこんなものを好んでいたのか。他人事のようにゾロはそう思ったが、それは仕方の無いことだ。丘で目覚める前の自分のことなど思い出せないのだから。

散歩としてはもう充分だろう。ゾロは帰ろうと思った。
まっすぐ歩いてきたのだから、まっすぐ戻れば良い。難易など思い描く必要もない、単純な行動。

──単純な、行動。
の筈だ。

「…………」

既に日は高い。腹は猛獣のように鳴いている。けれど、サンジの家は影も形も見えはしない──どういう事だ、この街は迷路になっているのか?
瞬く間に百倍ほどに数を増やした通行人に幾ら尋ねてみても、家の切れ目は見出せなかった。それに、妙な顔をされる。

匂いの薄い方に行ってみよう、などと動物的なことを思いつく前に、ゾロの鼻はとっくに麻痺していた。
舗装されている道の角々に建てられた、人の背よりも少し高い柱。その上部では、灰が燻っている。匂いの原因はそれだった。──何を燃やしているのだろう、そして何の為に?

「…………」

病的な雰囲気はないにしろ、この匂いを常時漂わせておくべき必要性がゾロには感じられないのだが。
他に目に付くのは、風見鶏だった。からからと乾いた音を立て、常に風景の何処かで風向きを示している。

パンの焼ける匂いが胃を刺激して、けれどゾロは金を持っていない。──持っていない、と思う。
服のポケットを探ってみるが、やはり何も入っていない。
小遣いを貰ってくるべきだった、とゾロは子どものようなことを思った。

道の真ん中を歩く牛を避けながら、サンジが見せたかったものは何かと思う。
サンジの職業など、この街を観察しても何もわからない。
──農家ではないだろうし、牧畜もやっていない。仕立て屋でもないだろうし、パン屋でもない。粉屋でもないし靴屋でもないし商人でもないし──煙突掃除人にしては育ちすぎている。教師?役人?お笑いだ。

一体、何だ?あの男は何をして暮らしを立てている?
あの家には何もない。

おそらく、どこかの家か店に働きに出ているのだろう、とゾロは推理した。極真っ当な考察だと自分でも満足する。

まっすぐ(と自分ではそう思いながら)歩くゾロの横を、泣き喚く男の子の腕を引いた母親が通り過ぎた。
大声で泣き叫ぶ子どもを宥めるというよりは、脅しつける声音で、手を離す。

「ほぅら、泣き止まないと置いていくわよ!」
「……いいもん!」

男の子は通りの隅に蹲ると、恨めしげに母親を見上げた。
何処にでもあるような光景。だから、ゾロも気にしない──そのままどんどんと、距離が離れていく。
交わされる会話も記憶には残らない。

「へええ、良いんだ」
「いいもん、ここに居るもん!!」
「……夜になるけど、良いの?」

その脅しに、子どもは怯んだようだったが、思い直したように首を振って虚勢を張った。
睨みつけるようにして母親に非難の目を向ける。

「夜も平気なのね」
「良いよ、別に!……俺のことなんか見捨てていけばいいじゃないか!」
「何て親不孝なことを言う!」

母親は憤慨したようにつんと顎を上げた。

「そんな悪い子は、街の外に出してもらおうかしら?」
「────」

その言葉に、目を極限まで丸くした子どもは慌てて立ち上がった。
歩き続けていた母親を走って追いかけ、スカートにまとわり付くようにして機嫌をとり始める。

「ごめんなさい、お母さんごめんなさい!外は嫌だよ、お家に帰るから、ねぇごめんなさい──嫌だよ、外に出るのは嫌だ──」


おれ、ばけものにはなりたくないよ!