「コレは?」
「机」
「アレは?」
「包丁」
「ソレは?」
「……床。木の板。染み。……もう良いだろ」

ゾロは溜息を吐いて頭の後ろで腕を組んだ。
椅子の背もたれがぎしりと鳴る。

サンジは机に肘を突いたまま、平たくした目でゾロを眺めた。

「……つまり、わかんねェのは自分の事だけか?」
「どうなんだろうな」
「テメェの事だろがクソタロウ」
「ゾロだ」
「やっぱりその名前はテメェにゃ勿体無ェ気がしてきた」

ぶつぶつと呟きながら、サンジは今度は自分を指差した。

「……んじゃ、俺は何に見える?」
「人間」
「言うと思ったよクソボケ、面白くねェ。そうじゃなくて、職業だ職業」
「職業……?」

言われて、ゾロはまじまじとサンジを観察しなおした。
髪と目の色は知っている。頬に、薄く火傷の傷があるのには今気付いた。
着ているのは、何の変哲もない黒服。浮いているとすれば、室内でも手袋をしていることくらいだ。これで何がわかるというのだろうか?

「今の格好じゃねーよ。さっき、会った時に気付かなかったのか──ああ、そうか、テメェは潮風も知らねェんだっけ」

意味の通らないことを言いながら、サンジは勝手に納得したようだった。
気に入らず、ゾロは僅かに唇を尖らせた。

「潮風くらい知ってる。海から吹く風だ」
「そうだ」

あっさりと首肯すると、サンジは目を細めた。

「それを知ってて、あんな所で昼寝が出来るんじゃ、テメェは赤ん坊より無知だぜ。バブバブって鳴いてみろ」

ゾロが何か反論するより先に、サンジは椅子から立ち上がって二歩進むと、台所の手前に立てかけてある梯子を上って二階に姿を消した。
仕方なくゾロは口を閉じ、部屋の中をもう一度見回した。

──サンジの家は、狭い。

例えば、出入り口のあるこの部屋に間仕切りはなく、ゾロの目の前にある机を置くだけで余計なスペースは消えてしまう。
壁に作り付けの戸棚と、一つきりの小さな窓。その他には、机の向こうに見える煙突付きの炉と水甕と食器棚と作業台──先程ゾロはここを纏めて台所、と呼んだのだが、それがこの部屋の三分の一以上を占拠している。
ゾロが五人も床に寝そべれば一杯になってしまうような部屋だ。部屋の真ん中に吊り下げられた小さな角灯がオレンジ色の光をなげかけ、その灯り一つで充分に用は足りる。
出入り口の他にある扉は、只の便所だ。シンプルな家。

二階はまだ見ていないが──ゾロは、この家に椅子が二つあった事ですら驚くべきことのように感じている。
サンジが腰掛けていた方の椅子は、今にも足が折れて壊れそうなくらい古びていた。ゾロの方は比較的新しいが、やや小さい──どちらにしても、来客用には不適切な気がする。
そして、サンジの家からは乾いた砂のような臭いがした。あるいは、サンジ自身からも。

そう思ったとき、二階からサンジが下りて来た。
最後の三段は抜かして梯子を飛び降り、くるりと軽やかにターンして食器棚に向き直る。作ったものではない自然な動き。

木を削って作った簡素なコップを一つ取り出すと、サンジはそれに水を汲んだ。
そして、右手に持っていた小さな紙包みを開き──それが、二階から取って来たものだろう──中の粉末を水に混ぜる。
そのまま、そのコップはゾロの目の前に運ばれてきた。
中を覗き込めば、灯りに照らされて表面を光らせ、茶褐色の液体がゆったりと揺れている。

「飲め」

予想と違わぬ言葉が降って来て、ゾロは思わず僅かに渋面を作った。
恐ろしく不味そうだった。

「大丈夫だ、泥よりマシな味だ。飲め」

全く安心できない言葉を付け足して、サンジが更に促してきた。
仕方がないので、ゾロはコップを持ち上げる。

「…………」

一気にそれを飲み干す。
だん、とコップを思わず机に叩きつけてしまう味だった。泥を飲んでも今と同じ感想を抱くのではないかとゾロは思った。

あまりの苦味と臭みに僅かに涙の滲んだ目をこっそり擦りながらサンジを見ると、彼は声を殺して笑っていた。

「ソレが何かとか、全然聞かねェんだなテメェは」
「何なんだ?」
「遅ェよ」

サンジはコップを取り上げると、それを流しに運んだ。運んだといっても、一歩半動いただけだが。
水甕から再び水を汲んでコップを洗浄しながら、背中越しにサンジは答えた。

「瘴気消し。まあテメェは今は悪影響出てねェみたいだけど、後でマズい時もあるから」
「瘴気?」
「潮風は人間には毒だ。だから、それでなくとも海の近くには誰も寄らねェ。……街の壁がスゲェ高いのも、そういう理由もある」

サンジはあっさりと答えたが、ゾロは腑に落ちなかった。
ゾロが目覚めて最初に目にしたのは、空と──そして海だ。その時自分は、何も危険など感じなかった。これが記憶の欠落と言うものか。

「……」

そこでゾロはようやく、自分が何故あの丘に居たのかということについて初めて考え始めた。
あそこで生まれてそのままそこに居たのでなければ、ゾロはどこかからやってきたということになる。
潮風が毒だというのなら、人間は海に近いあの丘には近寄らないだろう。ならばゾロは死にに来たのか?
あの丘より先には海しかなかった。ならば──消去法的に、ゾロはサンジがやってきた方角から来た筈だ。けれども、サンジの案内で日が落ちる寸前に街に着くまで、道らしい道は何もなかった──人目につかない死に場所を探したのか?
いや、考える事はまだ他にあった。

そもそも、何故自分には記憶がないのか?

十秒後、ゾロは「考えてもわからない」という結論に達した。おそらく、十秒で辿りついたにしては上等な真理だ。
そう思った瞬間、ゾロの腹が講義するようにぐうと鳴いた。サンジが肩を竦め、振り返る。

「何か食うか」
「悪ぃな」
「別に謝る筋じゃねェよ。誰だって腹は減る。まあ、残念ながらあんま美味いモンは食わせてやれねェが」

サンジが手を伸ばし、食器棚の下の引き出しを開ける。途端に、砂の臭いが強くなった気がゾロにはした。
引き出しの中から、サンジは布に包まれたチーズとパンを取り出した。ゾロの前に包みを広げ、そして、そのままサンジは椅子に腰掛ける。

「…………?」

ゾロはまじまじとそれを見詰めた。何の変哲もないチーズとパン。それは良い。元より文句を付ける立場ではないし、そんなつもりもない。
だが、例えゾロがどんなに大雑把な性格だったとしても、切り分けていない丸々とした巨大なチーズとパンに噛り付くのには少々違和感を感じた。いや、自分ひとりならばそれも構わないのだけれど、サンジも居るのだから──そう、少しは、せめて二人で食べやすい形態にするべきだ。

ゾロは瞬きを一つすると、サンジに許可を求めた。サンジの背後の台所の隅に立てかけられた、切れ味の良さそうな道具を指差す。

「……そこの包丁、使って良いか」
「────」

そう言った時の、サンジの反応がゾロには以外だった。
サンジは軽く目を見開いた。明らかに、驚きとしか解釈できない表情で──

けれど、その一瞬後にはもう元に戻っていた。一つきりしか見えない目が、僅かに細められる。

「駄目だ」
「何でだ?」
「良いから、食いにくけりゃ手で千切れ。テメェが食った後、俺も食う」
「じゃお前が先に──」
「ソレも駄目だ」

青い目が笑う。

「テメェがソレを嫌がらねェのは、テメェが何も知らねェからだ。そりゃフェアじゃねェな」
「?」
「取り合えず今は、俺はソレしかテメェに用意出来ねェ。明日になりゃ、どっか何か──もうちょっとちゃんとした物を食わせに連れてってやるから、我慢しろ」

訳がわからないまま、ゾロはパンとチーズを力かせに四つに割った。
ゾロが二分の一を食べ、それを見届けた後、サンジは付き合いのように四分の一を食べた。残りは同じように布に包まれ、引き出しに仕舞われた。

変な男だ、と、ゾロは自分の事を棚に上げてそう思った。
見ず知らずの人間を拾う事もそうだが、行動が不自然だ。それともこれは、記憶の欠落のせいで、ゾロにはわからない事が多いからそう思うのだろうか。
ゾロがもう少し細かい事を気にする人種だったら、サンジを質問攻めにしたかも知れない。けれども幸か不幸か、ゾロは、生きていくのにそれ程多くのものを必要としない性質だった。

簡素な食事を終えた後は、就寝だ。
サンジは腰に片手をあて、非常に偉そうな様子で宣言した。

「テメェには、有難くもこの部屋で寝る権利を与えてやる」
「…………」

ゾロは思わず、また部屋を見渡してしまった。
寝そべるようなスペースはどこにもない。勿論寝具もない。一番良いのは──椅子に腰掛けて、机にうつ伏せる事だろうか。壁に腰掛けて床に座り込んでも良いが、冷たそうだ。

「テメェ用の毛布なんて余計なモンはこの家にはない」

ゾロの台詞を待たず、畳み込むようにサンジは言った。申し訳なさなど微塵も感じていないのが良くわかるが、ゾロはそれが当然だと知っていたので特に問題はない。
サンジは角灯の灯りを吹き消すと、暗闇の中さっさと梯子に手をかけた。

「二階は俺の部屋だ。覗いたら蹴り殺す」

そのまま、軽快に登っていく気配がする。ゾロが頷いて、目を閉じようとした瞬間、付け足すようにサンジが言った。
おそらく、天井から首だけこちらを覗いている。

「夜中、吐き気とか頭痛とかして来たら俺を呼べ。呼べば、直ぐに気付くから、その場で呼べ。後、外には出るなよ──朝まで、絶対に、だ」

もぐもぐと、不明瞭な返事を返しながら、ゾロはもうその時には眠りに落ちていたのかも知れない。




取り合えず、サンジに出会った事は、幸運だったのだろうと思う。

他意なく親切な男は相当に珍しい──別に、何か利用するならそれでも良い。ゾロは名前を貰ったのだから、それに値する何かを返そう。
腹は満ちた。ここには風を防ぐ壁があるし、床と天井もおまけについている。
毛布はないが、孤独もない。少なくとも、ゾロは寒さを感じていない。