男が目を開けると、世界は青かった。
申し訳程度に雲が浮いているだけの、一面の青空。神経をえぐるくらいに青い。身を起こすと、蒼い海が見えた。
懐かしい、と何故かふと思う。
男がそう思ったのは一瞬だけだった。何処にでもあるような青空や海が懐かしい訳がない。おそらく、懐かしかったのは何か別のものだろうが、男はあまり丁寧に自分の情動を分析するような性格ではなかった。

くあ、と大口を開けてあくびをする。
目の端から、涙がぽろりと零れた。

そして──男は、重大な問題に気付く。

ここが何処だかわからない。
海が見える丘の頂上だということは、見たままであるので理解しているつもりだが、そういった事ではなかった。
ここに来た経緯がわからない。何をどうすれば良いのかわからない。もっと言ってしまえば、自分が誰だかすらわからない。


男は取り合えず、途方にくれてみた。
だが、その内眠くなったので、また寝た──昼寝には良い日和だという事はわかったのだから。

彼にとって、知っていれば良いのは、大抵がそんな単純な事だ。








『始まりが始まって』








ひゅっ
ぼこすっ

「っ……!」

男が貪っていた呑気な惰眠は、突然の衝撃によりどこかに吹き飛んだ。腹に何か非常に硬いものが食い込んだのだ。
吐き気を堪えて咳き込みながら、かすかに目を開ける。眩しい。

何が眩しいのかと思えば、男の前、西日の中に立っている人物の頭がきらきらと光を反射しているのだった。逆光で、その顔は見えない。

「……目障り」

男は取り合えず、感じたままの感想をぼそりと口にした。痛めつけられた腹を撫でると、再び眠りに入るために瞼を閉ざす。
後から考えれば、男はこのとき何の悪意も無く、ただ単に頭が働いていなかっただけで──勿論、きちんと覚醒していれば、言葉にはせずにおいたと思うのだが。何せ、彼はそんな類の事を言われて大人しくしているような生物ではない。
だが、この時点の男にはそんな知識はない。

「目障り……だァ?」

ぼごぉっ!

ごろんと寝返りを打った男の頭が直前まで置かれていた場所に、革靴の踵が食い込む。かなりの勢いで地面が抉れ、土ぼこりが散った。
流石に危険を感じて、男はむくりと上半身を起こした。

「呑気に寝腐って開口一番ソレか?おォし良い度胸だクソ野郎取り合えず死ね。もう起こさねェから安心して永眠しろ」
「──お前、誰だ?」

青筋を立ててこちらを口汚く罵って来た人物を、男は知らなかった。彼は人物や出来事に関して何にも覚えと言うものがなかったので、それは当然の事だったが。

「誰ってなァ──」

黒い服に身を包んだ男は、こめかみを押さえて深い溜息を吐いた。怒気はするりと引っ込んだようだった──どうやら、頭への血の昇り下がりがスムーズな性質らしい。
視点が変わったのでもう眩しいと言うほどではないが、光る金髪。長い前髪が片目を隠している。露出している左目は碧眼。
そして何故か眉毛の先がくるりと巻いている。おそらく、その眉毛だけで印象には残るに違いない容貌だ。

「そりゃ、こっちの台詞だぜ。余所者クン」
「──」
「ああ、昼寝の邪魔して悪かったな、いくら野郎でもこんな所で呑気に寝てりゃあ喰われちまうって仏心を出したのが悪かった。むさ苦しい筋肉馬鹿はむしろ消えた方が世界の為だと思って健気に考えた末の行動だったんだよな、それとも保護色だから草に埋もれてりゃバレねェとでも思ったのか?どっちにしろまあ好きに死ね」

男は、合いの手を入れる隙もなく叩きつけられた言葉を自分なりに精一杯解釈した。
どうやら、相手は一応「自分の為を思って」起こしてくれたらしい。当たり所が悪ければむしろその起こし方によって男は死んでいたような気もするのだけれども。

そこで、男は日が沈みかけている事を再認識した。さて、どうするか。
──しかし考えたところで、男には何もない。行動の指針など、どこかから突然湧いて出てくるものではなかった。

「おい、起きてどうすりゃ良いんだ?」
「……」

心底呆れたような視線が痛い。男はこの直後の相手の行動が何故か読めた。蹴りを一発くれてから、肩をそびやかして歩き出すに違いない。
だが男は、相手が怒り出す前に何とかもう少し妥当な台詞をひねり出す事が出来た。

「何もわからねぇんだ。知ってる事があったら教えてくれ。お前は誰だ?俺を知らないんだな?」
「はぁ?」
「俺は記憶が無い」

相手の反応を見る前に、男は続けた。

「目が覚めたらこんなトコに居た。それ以前の事は覚えてねぇ……自分の名前もわかんねぇ」
「そりゃ大惨事だな」

肩をすくめ、気軽な調子で言われて、男は少しばかり機嫌を悪くした。
そして何故か──少しばかり寂しかった。目覚めて初めて会った人間に、素っ気無く片付けられて。

「……信じないのか」
「信じるぜ」

あっさりと返って来る。茶化す響きはない。
目を瞬かせて見上げれば、片方だけの青い目が真面目にこちらを見下ろしていた。

「自殺志願者じゃなけりゃ、夜にもなろうっていうのにこんな所で昼寝はしねぇ。しかも、こんな潮風の吹くところじゃな。記憶喪失ってんなら頷ける」
「潮風が……どうかしたのか?」

相手は僅かに目を細めると、男の顔を覗き込んできた。

「その反応が、つまり何も知らねェって証拠だ」
「……」
「オイクソ野郎、ボケんな」
「クソ野郎って呼ぶな」
「名無しの癖に我侭言うんじゃねェクソ野郎」
「……じゃあ自分で付ける。俺は……」

男は二秒ほど考えた。

「アオゾラ・タロウだ」
「…………」
「何だ。文句あるのか。それならウナバラ・イチロウとか──」
「……もう良い。諦めろ。テメェには絶望的にセンスがねェ」

げっそりとした表情で相手は手を振ると、男の目の前に人差し指を突きつけてきた。

「有難くもこのサンジ様が、テメェに名前をくれてやる」
「サンジ?」
「それは俺の名前だ!」
「わかってる。聞き返しただけだ」

相手──サンジは、特に迷いもせずにその名前を男にくれた。


「テメェは──『ロロノア・ゾロ』だ」


舌を噛みそうな名前だ、と男は思ったが、気に入らないという事はなかった。アオゾラ・タロウも捨てがたかったが、こちらでも別に良い。
という訳で、男は自分をゾロとした。これで少しは落ち着く。

そしてゾロは、すぐさま質問した。

「何で『ロロノア・ゾロ』なんだ」
「そこに落ちてたから」

サンジは顎をしゃくった。
示されるまま後ろを振り返れば、ゾロの直ぐ後ろに巨木がある。ゾロが三人ほど手を繋いで、何とか幹を囲めるくらいのどっしりとした樹。
それは、起きた時からわかっていた事だ。見逃しようもなく、丘に王者のように君臨する木。

「木の名前か?」
「違ェ」

もう一度示されて見れば、巨木の根元に石が据えられていた。位置的に、どうやらゾロはそれを枕にしていたらしい。
端が欠けて丸くなっていたが、どこぞから人為的に切り出してきたものなのは間違いない。断面が美しい。

そしてそこには確かに、『RORONOA・ZORO』と刻まれていた。

他には何も記されていない。
だが、その年季の入った風体から、石がそこに設置されたのが相当に昔である事はわかった。百年ではきかないだろう。
おそらく──誰かの墓である。まあ誰かと言うか、『ロロノア・ゾロ』の。

「おい……」
「良いだろ、別に。そうやって繋がってくモンだ、縁なんてのはよ」

そう言って、サンジは身を翻した。
遠ざかっていくその背中を、ゾロはぼんやりと眺めた。何処と無い寂寥感は無視する。

「……オイ」

三十歩ほど進んだところで、サンジは振り返った。
その動作にあわせて、派手な金色の髪がぱっと散り──今度はゾロはそれを目障りだとは思わなかった。むしろ光の加減によっては綺麗だ。

「来ねェのか」
「……」

着いて行っても良いのだ、というのがゾロにとってはむしろ驚きだった。何せ、サンジはゾロを邪険にしていると思っていたので。
ゾロの疑問がわかったのだろう、サンジは唇を片方だけ曲げて笑った。

「この丘じゃ、俺は良く厄介事を拾う。それは覚悟の上だ」
「厄介事?」
「まあ、隕石みたいなカンジの──いつか必ず降って来る、はた迷惑な災難。お前もまあ、似たようなモンだろ……あ、言っとくけど日が沈んでもここに残ってたら本気で死ぬぞ」

それだけ言うと、サンジは再び前を向いて歩き出す。
今度は、足を止める気はないようだった。海とは逆方向へすたすたと歩いていく。

その背と、足元と、海を見比べて、ゾロはしばし考えた。



そうして──ロロノア・ゾロは立ち上がり、不運の丘を下って行った。