町並みは、覚えているものとは全く違っていた。否応なく目に付く年月の流れ。
ゾロには、そんなものにショックを受けている暇などなかった。
ふらつく足で一歩。また、一歩。
石畳を踏みしめる。ずっと昔に、この地を発った。

血塗れでよろよろと進むゾロを見て、息を呑む音がそこかしこで聞こえる。

「…………」

人ごみが割れた。
誰もが足を止め、誰もが声を掛けられなかった。


赤い毛布がずるりと落ちる。
それにかまわず、ゾロは歩いた。



迷子になるから、と。
阿呆のように繰り返された。阿呆のように、まだ覚えている。

「真っ直ぐ……」

生暖かい塊が、口の端から零れる。

「真っ直ぐ」

命の砂時計が、さらさらと流れる。
容赦なく。

「真っ直ぐ……!」

進もう。
痛みすら振り捨てて、命を振り絞れ。



もう、大声を出して皆にいう力はないけれど。
知っておくがいい。

この大通りに、長く長く、あまりにも長く、血の跡が続いている。
この無様によろめいて、幾度も幾度も途切れかけた血の跡は、よろめきながらも真っ直ぐに歩こうとした者が居た証だ。

この無様にかすれた血の跡は。
負け続けて、それでも勝ち足掻こうと、歩いたものがいたからだ。





死というものは、けして安らかではなく。
望みというものも、けして高貴ではない。

ここまで苦しんでも、ここまで辛くても。
それが報われない事だってある。


只──ゾロは思う。

これが生きるということだと。
これが──俺というものだと。








+++ +++ +++







いつか、あの声がこんなことを言った。

『生きるために必要なモンは幾つもあるけどよ』

酸素。
水。
温度。
食物。
数え切れない、幾つもの支え。

『最後まで必要なのは、何だろうなァ』

いつか、あの声にこんな風に答えた。
それは、愛でも夢でもなく。



「俺が、俺である事だ」



そんな陳腐な台詞を、胸を張って答えた。








+++ +++ +++









碧い草原と、青い空と蒼い海。
何もない、他には何もない空間。ゾロは赤い色で、その景色を汚した。

「…………」

いや、他にもある。
ボロボロに朽ちた家が、たったひとつきりで、半ば倒れかけながら立っている。

霞む視界にそれを捉えて、ゾロの唇から音が落ちた。

「……おい」

まだ短い雑草を踏みしだいて、ゾロは進む。

「いるのか」

目を閉じたら、終わりだと思った。
近づく荒れた外壁が、がくがくとぶれる。

「おい……」

待って、いたのだろうか。
家が、潮風でこんなに歪むまで?
そんな筈はない。そんな事はあってはいけない。

それなのに、ゾロの手は勝手にドアノブにかかる。
操りきれなかった体が縋りつくように扉に激突し、軋んだ音を立てた。

「…………」

扉は──開かなかった。














「全くアホだなテメェは。ナミさんに言われて大分前に鍵付けたんだよ、危ねェからな」

さらり、と。
なんの情緒もなく。

「よお。何処で迷子になってたんだ?」

皮肉の満遍なく散りばめられた軽い声。

……幻聴だ。
ゾロは微動だにしなかった。

「…………」
「…………」

数秒の沈黙をはさんで、声は焦れた様に言った。

「オイ毬藻頭。テメェ耳詰まってんのか?」
「…………」
「テメェの頭ン中に詰まってんのはやっぱ干草か?だったらこんなトコにいねェで牧場行って、畜産にでも貢献しとけよ」

ゾロの肩が、勝手に震える。
──多分、怒りとかその類のもので。それ以外には、何もない筈だ。

「……馬鹿かお前」

本当に、この男は何処まで。
何処まで一途に馬鹿なのだろう。

「一年って言ったじゃねえか」
「マリモ時間で一年っつったら、人間様にしちゃこれっくらいだろ」

ゾロは振り返り、その影を見詰めた。
すっかりと色褪せて、痩せ衰えたその影を。

サンジは腕を失くしていた。
何より大切だと言っていた腕を、綺麗さっぱりと。

どうして、とゾロは尋ねない。
サンジがゾロの片目と片腕と片足の行方を訊かないように。

代わりに他の事を問った。
背中を扉に預けて、最後の数分を他人から見ればくだらないことのために使う。

「……なあ、理由、覚えてるか……喧嘩の」
「あ?……忘れちまったけど、わかるぜ」

きっとゾロの人生最後の問いかけに、殆ど考えもせずに返された答え。

「テメェが気に食わねえからだよ」
「ああ……そうか。そうだったな」

ゾロはニヤリと笑った。
和道一文字を、斜めに構える。

「俺も同じだ」







そうだ。これがコイツで。
これが──俺だ。







ぐらり、と体が揺れて。
ゾロは倒れ込んだ。
それを支えきれずに、サンジもしりもちをつく。

「……あんま感動的でもねェなァ。格好良くもねェし」
「誰に見せ付けるつもりだ……馬鹿コック」

どうと言うことのない軽口に、ゾロはおざなりに返事を返した。
体は重いくせに、軽い。血が流れるだけ流れ、地面に染み込んでしまった。

これだけの長い空白の後、もう記憶のかなたに霞んでしまった筈の影が、ここにいる。
間近で見たそれは、別段何の変哲もなかった。
ただの人間だ。口が悪くて、足癖が悪くて、態度が悪くて──人よりちょっと馬鹿で。

きっと挫折だってする。
その存在意義の腕だって、失われる事がある。
けして、聖人でも超人でもなく。

そうだった。
……特別なことなんて、何もなかった。

ゾロは呻いた。現実の、重みに。
乾いた唇を開く。

「なあ……これだけ、言っておくが」
「おう、なんだよ」



これより強いヤツなんていくらでもいる。
これより潔いヤツなんていくらでもいた。
これより優しいヤツも、格好良いヤツも、気高いヤツも、腐る程、いて。


だがこれ以上を知らなかった。



掠れた喉を動かした。鋭い痛みが走った。
けれど意地でも、言ってやるつもりだった。





「テメェがいて良かった」







いつもの笑みが返って来た。


「当たり前だ、クソ野郎」













何でもないことだ。

只、何でもなく笑う顔を見て。
只、何でもなく言葉を交わした。

本当に、何でもないことだ。
それなのになんでこんなに胸が苦しいのか。


ゾロは、本当に最後の息で、わらった。



ここに、俺が、生きているからだ。











Happy Deathday:END



何も言うことはない。
ただ、ただ一生懸命に、馬鹿みたいなことにこだわって、生きる。