ヒャーーーーッハッハッハ。
アッハハハハハ。

瞬間、店内を満たしたのは騒音とも言える笑い声だった。
ぷっ、と噴出す程度で済んだのはバーのウエイトレス。マスターだけは、客商売の鉄則なのか表情を崩していない。
一番馬鹿笑いをしているのは、唐獅子ミレーユを囲んでいた取り巻きだった。

「オイオイ爺さん、ボケちゃったのかァ?」
「そんな歳じゃねえ」

老人は律儀に受け答えをしたが、まだ続く笑い声に紛れて若い男には聞こえなかったようだ。
笑っていないのは、老人の頭の中身を本気で心配しているものだけだ。

老人はそれにかまわず、奥のテーブルに向かって歩き出した。
酷くのろのろとした速度で。それは、彼にとっては最大限の努力をしてやっていることなのだろうけど。

続いていた笑声が止み出す。
客達は、何処か気狂いでも見るような目つきになりながら、その進行を眺めた。

「……………」

あまりに真剣な顔つきに、完全に店が静かになった頃だろうか、ちっ、と派手な舌打ちが響いた。
机の間を縫うようにして進む老人の前に、避けようもない見事なタイミングでつま先が差し出される。

がっ

なす術もなく転倒する体。

「オイ爺さんよ……悪いがお引取り願えねえか?」

アンタをどうするにしたって、ケチがついちまうんだ。
揶揄するでもなく、意外に真摯な様子で、帽子をかぶった男が言う。

肩を掴んで、自分が転ばせた体を引き上げる。
そのまま今来た道を戻らせ、店の外へと引き出そうと歩き出す。

「……邪魔するな、小僧」

ずっ

男の麻のズボンに覆われたふくらはぎに、錆びた鋼が突き刺さった。
震える腕が僅かに動いて、全く、唐突に。

「いっ……!!」

肩を掴んでいた手が反射的に老人から離れる。
ミレーユの白い手が、杯を置いた。

「っこの、調子乗ってんじゃねーぞ!」

男の拳が持ち上がる。明らかに格下の、体に欠損まである老人に一撃をくらったということが、男のプライドに傷をつけた。
振りかぶって目の前の頬骨にぶつけようとしたその動きを、鮮やかな声が止める。

「でしゃばるんじゃあないよ、お兄さん」

大剣豪の声は、みすぼらしいバー、こんなちんけな争いには圧倒的にそぐわない。
空気が極彩色に染まる。そんな存在感。
唐獅子はその七色──いや、絵の具箱をぶちまけたように色とりどりに色鮮やかな髪を掻き揚げながら立ち上がった。

ざわり、と店内の人間がうごめく。
ミレーユが足を踏み出す前に、老人と彼女の間に居たものは全てその身を退いた。
老人に絡んだ男でさえ、怯えたように後ずさって人垣の中に紛れる。

「ふん……」

観察する視線で一撫ですると、ミレーユは尊大に腕を組んだ。
そして侮蔑の混ざった声が老人に突き刺さる。

「その刀、前は大層な業物だったみたいだねえ……良刀は手入れさえしときゃ随分と持つ」
「…………」
「手前の魂さえ蔑ろにするって野郎が、真剣勝負持ちかけるなんざ億万年早いよ。返って寝なや、餓鬼」

三倍は歳が上だろう相手を堂々と餓鬼呼ばわりすると、ミレーユは顎をしゃくった。
言う内容とは裏腹に、その顔には柔らかな微笑が浮いているが──よく見れば目だけは常人と比べようもないほどに鋭い。

老人は押し黙った。
そろそろと、刀を握った腕を上げる。そのぼろぼろに錆びた刀身が、店内の全てのものの視線に晒された。
その切っ先は欠けては居たが、真新しい血で濡れている。

「そうだ……俺は俺の魂を腐らせて来た。何十年もだ」

地を這うようにしわがれた低い声。

「コイツは錆だらけなのは俺の不甲斐無さのせいだ、わかってる。だが、この和道は火に入れて打ち直しゃ元通りになる……本物の名刀だ」
「宝の持ち腐れさ」
「ああ……だから、それは今の俺には相応しくねえ」

刃の代わりに、ぎらりぎらりと片目が光る。
朽ちていこうとしている年代の体から、噴出すのは凄まじい鬼気。

ごくり、と誰かが唾を飲む音が聞こえた。

「わかってるならさっさと──」
「去らねえ。刀に負けてちゃ話にならねえ。俺を叩き直すのがまず先だ」

視線を受けて、ミレーユの眼差しが細まった。
大剣豪が侮られているわけでも、老人が狂っているわけでもないのはわかる。しかしやはりわからない。
不具の体がいくら真っ直ぐに立っていようとも、それだけでどうにかなるものではないというのに。

「名は」
「ロロノア・ゾロ」

ミレーユは、赤い唇からもっと赤い舌を出して、空気を舐めた。

「剣士として私に名乗りをあげたのなら、手加減するわけには行かないよ」
「望むところだ」

間髪入れずに返った答えにふと思いついたように、大剣豪は問いかけた。

「……あんた、死に場所探してんのかい」
「いや違う」

老人は尊大に言い放った。



「俺は、生き返りに来た」



その言葉は、真剣そのもの。

は、と短い息がミレーユの唇から漏れた。
腰に佩いた細身の湾曲剣の鞘を、女のものだがぶ厚い手のひらが撫でる。

「あんた……勝つ気なのかい」
「ああそうだ。負ける気で勝負する馬鹿はいねえだろう」

それが最後通告だった。
そうかい、とミレーユは吐息で言うと、目にも留まらぬ速さで刀を抜いた。
これ一筋で上り詰めた、高速の抜剣術。

手加減は、一切なかった。



ずしゃり。



「……っ!!」



赤い赤い血が、霧のように空気を染める。
錦絵のような髪が、それを浴びながら進む。
交差するように、歪な形の体が倒れる。

ごとり。

刃が何時鞘から出、そして収まったか知るのは斬られた者と斬った者だけだろう。
ようやく客の悲鳴がその場の空気を震わせた。広がる血霧の中に、鉄錆がごろりと転がる。

ミレーユは振り返らずに、バーを出て行った。

「非道い……!」
「いくらなんでもこれは……!」

あまりに鬼畜な所業に、客達の間からぽつぽつと非難の声が上がる。
倒れ付した老人の体に、こわごわと誰かが近寄る。

唐獅子が戸口を潜った時、年端もいかぬ少年がこちらをじっと見詰めているのに気付いた。

「…………」

その目に浮かんでいたのは、少なくとも、彼女への罵倒ではなかった。
丸い澄んだ玉の中を彼女は覗いた。そして問いかける。

「あの爺さん、格好良かったかい」
「……」

こくり。

「──お姉さんよりも?」

少しの逡巡のあと、再びこくり。

「それじゃ、そこは負けたか。全く大した根性だ」

ミレーユは肩を竦めた。

あの男は、完全に本気だった。
理不尽なまでの力の差をわからなかったわけではあるまい。只あの瞬間、あの男は何かひとつを見定めていた。
その何かを貫き通すためだけに、本気で自分に向かってきた。

彼女は大分前に落としてしまったものを、男は今手に入れていたのだ。

「……私の子どもにゃ、ああいう馬鹿に育って欲しいね」

長生きは出来ないかもしれないけどさ。格好良いだろ。
世界一などを目指す輩は皆、頭が沸いて真っ直ぐにしか走れないような連中だから、彼女も例に漏れずそんな感想を持った。
破顔して、少年にウインクをひとつ。

只、ぺこりとお辞儀だけした様子を見て、ミレーユは肩をそびやかし再び歩き始めた。






+++ +++ +++






「爺……爺!!」

ゆさゆさと揺さぶられる激痛に、ゾロは薄目を開けてミーツを睨んだ。
古い傷と丁度交差するように袈裟がけに切り裂かれた体。ぱくりと開いた傷口からは、留めどころなく今なお血が溢れている。

どうみても致命傷。
唐獅子は、本当に一切の手加減をしなかった。

「強えなあ……世界一は、やっぱり遠い」

がぼがぼと喉を鳴らす。
怯えた色を顔に載せる少年と、ギャラリーを順に眺めて、ゾロは必死に言葉を綴った。

「誰か……手当てをしちゃくんねえか。いや、血止めだけで良いからよ」

誰かが医療器具を求めて走り出す。
その音を遠くに感じながら、ゾロは意識が持っている間にもうひとつの願いをと、唇を動かした。

「ミーツ……船に乗せろよ、俺を」

少年の代わりに、取り巻いていた野次馬の一人が分別顔でたしなめる。

「何言ってるんだ爺さん、無茶だよ!」

それを完全に聞き流して、ゾロは少年の顔を見詰めた。
お前ならわかってくれる筈だと。







隣島までの船は、日に四度出る。
それほどまでに近いのだ。ふざけるなと、誰かに罵りたくなるほどに近い。

ゾロは目を細く開けて、ひそやかに空気を呼吸した。
顔面に当たる潮風は、冷えた肌から更に熱を奪っていく。

欠けた体と腐った魂を抱えて、世界を回った。
けれど結局、戻ってきたのはここだった。

「…………」

自分も大概諦めが悪いのだということを、認めたくなかっただけだ。

船頭はゾロを乗せるのを大分渋った。今にも死にそうな──否、殆ど死骸を船に乗せるなど言語道断だと。
只、死んだらその場で海に捨ててくれて良いというのと、周りの視線の圧力に負けて、最後には船の片隅に毛布で包んだ体を置くことを許してくれた。

光る船べりを見詰めて、ゾロは思う。

この呼吸は後どれだけ続くだろうか。
血糊で汚れきった毛布だけを盾にして、ゾロは思う。

あの頃、こんな自分を想像したことなんてない。
刃に倒れることだけは予想通りだったけれど、こんな、こんな祈るような気持ちは知らない。

誰かの歌う声が聞こえる。
酷く眠い。寒い。そんな事はどうでも良い。

辿り着きたい。
そこに何があるのかは、この際関係なかった。


──待ってはいないことはわかっている。


死んだ者を一生待ち続けるなど、狂人にしか出来ぬ所業だ。
わかっている。けれど、向かっている。

何故なら。
何故なら、あの男は狂っているかも知れないからだ。

もしかしたら。もしかしたらと。朝に夕に、百万回も繰り返した。
こんな思いを奴もしたのだろうか。

矛盾し相反する思考は体温と共にゾロの腕からすり抜け、鼓動が耳の奥でゆっくりと聞こえる。

往復で半日。
たったこれだけの距離を越えるのに、ゾロは大分多くのものを費やした。もしくは、全てを。

ゾロは思う。
自分ほど勝利に執着する人種はそうはいない。
けれど、負けない、負けたくないと思いながら負けっぱなしだ。ミホークに負け、ミレーユに負けた。

この生は何の為にあるのか。
幼い頃の約束を成し遂げるためだったならば、役に立たなかった。
彼の決めた船長との誓いを果たすためだったならば、役に立たなかった。
自分の夢を叶えるためだったならば──役に、立たなかった。

「……ざまあ、ねえなあ……」

胃の腑を駆け巡る血の味は、何度も味わった。
慣れる事などあるのだろうか、この挫折と絶望の痛みに。

そんな自分を認められずに、足掻き続けている。
今も、確かに足掻いている。

「……うん」

何の為に向かうのかと。
そう聞かれても、ゾロには答えようもない。


もうそんな複雑な事は考えられない。

只、負けたくない。
負けても。負けても。負け続けても──負けたくは、ないのだ。


ゾロは、ようやく少し自分の気持ちを形に出来た。
約束を成し遂げるためでも誓いを果たすためでも夢を叶えるためでもなく。



自分は──只。






ようやく掴んだ答えを胸に抱えて、ゾロは波の上を進む。
目を閉じるまでに、あと少しだけ時間が欲しい。

そんな御伽噺のように都合の良い奇跡を、強欲に、我侭に、心から願った。
どうか、どうか、どうか。

後、ほんの少しを俺にくれ。