震える声が、喉を灼いた。

「な……ん、だと」
「だから大剣豪だよ!大剣豪!!世界一の剣士だ!」

ミーツは、浮かれはしゃいで飛び跳ねた。
この年頃にとって、その言葉は無条件の尊敬と憧れだ。

黙りこくってしまった老人を気にせず、ミーツは船を下りたその男の様子を息継ぎもせずに語りはじめる。
いつもとは立場が逆だ。
ミーツが物心ついたときには既にこの家に住み着いていた老人は、若い頃は相当無茶をした男のようで、ねだって気が向けば冒険譚を話してくれた。
その話のいくつかは、有名な海賊王とその仲間達の逸話に似ているところがあったが、ミーツは老人の話が好きだった。
奇跡のように風を読む航海士や、意志の強い砂漠の国の王女には淡い思いを募らせ。
無邪気で懐が広く、そして強い船長、自分の信念に背を向けない剣士には驚嘆の溜息を吐いた。

老人の欠けた右腕も、左足の義足も、潰れた片目でさえ歴戦の戦士の証のようで。
少年には素直に、感心の対象だった。

「なあ、見に行こうぜ!俺が支えてやるからよ」

ぱしり。
全くの好意で伸びてきた幼い手のひらを、枯れた腕が払った。
驚いたようにこちらを見詰める瞳から目を逸らし、震える唇の中で呟く。

「い……嫌、だ」
「え?」
「見たくない、俺は」
「え……なんで……」

戸惑う少年から目を逸らし、俯く。

「いや……何でもねえ。だが今はそんな気分じゃねえんだ。わざわざ呼びに来てくれたのにすまねえな、お前は気にせず行って来い……憧れてたんだろう」

言い訳のようにぶつぶつと呟く老人の肩に、ミーツは手をかけた。
そこから伝わってくる震えが、尋常ではない気がして顔を覗き込む。

「ちょっ、どうしたんだよ爺。」
「何でもねえんだ……なあ、今の大剣豪って誰だ?もう鷹の目じゃあ、ねえよな……」

うわ言のようにうめき続ける老人にミーツは狼狽したが、とりあえず訊かれた事を答える。

「タカノメ?ううん、違うよ、大剣豪は、唐獅子ミレーユだよ……」
「……ミレーユ?」

かっ、とその瞳孔が開いたような気がして、少年の心臓が跳ねる。

「女か!」
「う、うん。そうだけど。でも女だからって馬鹿にすんなよな、世界一なんだからよ!」
「そうか……ああ、馬鹿になんかしねえ、する筈がねえ……」

額から目にかけてを、震える片腕でぺたりと覆った老人の背を、ミーツは思わず支えた。
極度の興奮状態にあるのか、鼓動がありえないくらいに早い。

「オイ爺……マジで心臓発作起こしてんじゃねえだろーな……」

ひゅうひゅうと細い呼気が笛のように鳴る。
医者を呼びに駆け出しかけたミーツの首根っこを、老人はひとつきりの腕で抑えた。

「いや、いい。大丈夫だ……ちょっと昔を思い出しただけなんだ」
「昔?海賊だった頃の事か」
「ああ……」

遠くを見詰める眼差しに、胸が痛む。

「あ、久しぶりに爺の昔話が聞きたくなったぞ!」

思いついたようにミーツは叫んだ。
それは、子どもらしい純粋な同情だったかもしれない。幼いころから慕ってきた老人が、何かにひどくショックを受けていることがわかったから。

「お前見に行くんだろう、大剣豪を」
「後で良いさ。大剣豪はしばらく居るけど、爺は明日天国に行ってもおかしくねぇじゃん」
「まだそんな年じゃねえ……」

老人はしばらく黙り込むと、いつものように昔話を始めた。
語り口は朴訥で、言葉も多彩とはいえなかったが、そこは少年の想像力で補うことができる。それに、彼の声はとても聞き心地がよかった。

「──俺が若い頃乗ってた海賊船によ、やっぱり世界一を目指してる男がいた」
「知ってるぞ、口に刀咥えて戦うんだよなー!馬鹿みてえに」
「黙れ」
「でも俺、ソイツが一番好きだぞ。格好良いモンなぁ、生き方に筋が通ってるって感じでよ。ソイツの話なのか?」
「……ああ。男が一度大剣豪に挑戦した話はしたな?男はもう一度挑戦したんだ。勿論、次に負けたら命はねえって知ってた」
「ふーん……そんなに自信があったのか」
「いや?自信なんざなかった。男はまだ、自分の強さが相手に届いていないんじゃないかって、実は思っていた。でも逃げられなかったんだ」
「背中の傷は……剣士の恥か」
「よく知ってるじゃねえか。そう言う事だ。此処を退いたらもう戻ってこれない線ってのがある。男はそんな自分は許せなかったから、当たって砕けるほうを望んだ」
「……」
「勿論、負ける気で向かっていった訳じゃねえがな。やたら分の悪い賭けだったが、男はそんなもの慣れっこだったから、いつものようにまっすぐ行ったんだ。あんまり何も考えずにな」
「馬鹿だからだな!」
「……お前のその口の悪さは何処から引っ張ってきたんだ?」
「生まれつきだよ。ていうか爺の話からじゃねーの」
「そうか?まあ良い……その男は、戦いに赴く前にな、柄にもなく約束した……『帰ってくるから待ってろ』ってな」
「許婚か!?」
「そんな大層なモンじゃねえ」
「恋人か!」
「その辺りから離れろ。奴は男だったし、剣士とは犬猿の仲だったんだ」
「えー?じゃあ何で約束なんかしたんだ?そんな仲の悪ィ奴のために頑張れないだろ」
「それがな、全く、くだらねえ事なんだがよ……」

老人は頭痛をこらえるような顔をして、溜め息をついた。

「……その前の夜の喧嘩の決着がまだついてなかった」

ワンテンポ遅れて、ミーツの声が続く。

「つまり、馬鹿なんだなその二人は」
「言わねえでくれ」

片腕がぱたりとシーツの上に落ちる。
昔受けた傷のせいで半身に麻痺が残っているらしいのだが、横から半分だけ見れば、彼は完全に見えた。目も腕も、足も。
そこから、がらりと口調が変わった。声の質自体が──変わったように思えた。

「男は世界一と対峙した。心は凪いでいた。圧倒的な黒刀が片目を削っても、腕を落としても、男は諦めなかった」
「……爺?」
「とうとう足を失って、どうと地面に倒れた。全ての刀を弾き飛ばされた。自分の血で温もった地面が、やけに心地良くて、男は相手の鷹のように鋭い目を見上げた」
「爺……!おい」
「目が合った。相手はゆっくりと、とどめの一撃を振りかぶった」
「おい!おいってば!!」
「そして──そして」

老人の目が、急激に虚ろになる。
背筋にひやりとしたものを感じて、ミーツは押し黙った。何か重苦しいもので、喉が塞がれていた。

何かが取り付いたような顔で、抑えた悲鳴に近いかすれた声があがる。


「信じられるか。信じられるものか。斬られるって瞬間に、俺が──この、俺が!!」


老人が見つめているのは、もう狭い小屋の中ではなかった。
少年でもなかった。

遠い遠い、妄執。


「迷った……!アイツのせいで!」


それは、それは。
ほんの一瞬の。

「あんな約束、するんじゃなかったって、死ぬ程後悔した」

けれどその後の人生の全てを変えてしまうほどの。

「だってアイツ、馬鹿だから、帰ってこない俺のことを、一生待ってたりするんじゃねぇかって、そんな事普通ありえねぇけど、アイツは極度の馬鹿だから、あんな約束を、一年どころかもっと続けてしまったりなんて、するんじゃねえかって、もしかしたら、もしかしたらって──迷った」

全てのアイデンティティが崩れ去る。

「それを、鷹の目は見抜きやがった……!こんな屈辱が……!」

胸を抉った切っ先は、心臓を突き破らず。
その代わり、剣士としての全ての可能性を奪って、去った。
死よりも酷い罰。

世界一を目指していた剣士は男の中で死んだ。
死ぬよりなかった。

「這いずって、泥を啜って、必死で身を隠した。死んだ俺を見せられやしねえ……!!」

頼み込んで納屋に匿って貰った。
動けるようになったらすぐさま島を出た。
変わり果てた亡骸なんて、誰も気付きはしなかった。

「こんな、こんな……こんな臆病さを、見たくなかった」

麻痺した手で車椅子を引きずりながら、世界を歩く。
何の為かもわからないまま。何処へ向かったら良いのかわからないまま、漂流するように。

けれど、あの島にだけは。

「こんなになっても……」

もう、わかるものなど居ないだろう。

「こんなになっても、老いても、もしかしたら、アイツがあそこに居るんじゃないかって……それが怖くて、行けねえんだよ」

罅割れた声で絶叫する。
いっそ指差して。腹のそこから。




「……笑えよ。笑えよ!!」




あの男の代わりに。
変節を、詰れ。
只一度の過ちで、全てを失った男を。

「こんな情けねえ俺を見せるくらいなら……!」

死んだ方がまし、と何度でも軽く言える。
いつだって考えた。腐り果てた屍を、おとなしく土に返せと。

でも、もし。
約束を守って、居たら?

──死ぬことも出来ず。只、呼吸をする。

「もう顔も、思い出せねえんだよ、ちゃんとは。声だって、どんなだったか……覚えてるのは、黒いスーツの影と、眉?」

顔を歪めて、老人は笑った。

「そんなんなのによ」

ぶるり、と震えた。
ミーツの手が。

がっ!

「──っ!!」

幼い拳が、骨ばった頬にぶちあたる。
泣きながら、ミーツは腕をふるった。

一瞬驚いた顔をした老人は、けれどすぐに諦めた眼をしてシーツに沈む。
その上に乗りかかって、少年は殴った。

口中を切ったのか、唇から赤黒い血を垂れ流して、老人は笑うのだ。

「良いぜ、殴れよ。それくらいされても文句も言えねえ」
「…………」
「餓鬼の拳を避ける事も出来ねえ……」

しばらくどちらも無言だった。
無気力にだらりとした体。
その濁った暗い目の中に、透明な雫が落ちる。

「…………ひっ」
「…………」
「……ひくっ……くっ」
「…………」
「うえっ……えっ、え……ひっ」
「…………」
「ひっく……ふえ……」

腹の上で泣き続ける少年をどうすることも出来ず、老人は僅かに口を開けて呆然としていた。
こういうときに、どうしたらいいのか全くわからない。
取り合えず思いついたことを言うしかなかった。

「おい……泣くんじゃねえ」
「うるせえ!!」

どごっ

キレかけた──いや、完全にぶっ千切れた声で、エルボーが筋肉の落ちた腹に落とされる。
馬鹿野郎、とミーツは吼えた。

この根性なし、意気地なし、弱虫、腰抜け、卑怯者、どてかぼちゃ──幼い頭で思いつく限りの悪口雑言をぶちまける。
しかしその様子に、むしろ安心したように老人がその言葉を受け入れるのを見て、ミーツは方向性を変えることにした。その辺りは、子どもゆえの柔軟さで。そして、子どもゆえの鋭さで。

「…………へっ」

ふん、と、憎たらしい顔を作る。
ごしりごしりと涙を擦り、出来るだけ嫌味ったらしく。

「それじゃ……爺は、その人に負けるんだね」
「…………あ?」

ぎらり、と一瞬目が光る。



「もしその人が待ってて、爺が約束破ったら、その人の方が根性あるって事じゃんか!」



もう、何も考えずに叫ぶ。
約束とか、誓いとか、そんな重みはミーツにはわからない。

只、負けず嫌いは筋金入りだ。
この年頃の男の子なら、誰だってそうだろう?

「俺は剣士が好きだったんだ」

考えるな。単純な衝動として。本能として。
繕った皮を剥げば良い。



「手遅れなんて事あるか!そんな男に負けんなよ!」







+++ +++ +++






その日、大剣豪の歓迎に沸く島の小さなバーに、一人の珍客が現れた。
片目がなく、片腕がなく、片足がない、老いた男。

その手には、ぼろぼろに錆びて腐食した、元は刀だったのであろう鉄屑。
目を丸くした客の視線が向く。おい爺さん、大丈夫か、という気遣いの声。

ひとつしかない目が、奥のテーブルに取り巻きたちと座っている女性をひたりと見据えた。

「オイ大剣豪。頼みがある」

震える腕が持ち上がる。
依頼のはずなのに、命令形で。

「俺と戦え」